ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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先代独立観測者・芹沢 其壱

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朝の光が差し込む。

窓の外に広がる山嶺の緑は、昨夜の惨劇など嘘のように鮮やかだ。

だが、遠く空の端に居座る、あの不気味な噴煙だけが、この平穏が「借り物」であることを静かに告発していた。

 

一夜明け、一拍が置かれる。

居間にはどこか、雨降って地固まるといった風情の静寂が流れている。

 

「…悪かったな、伊藤さん」

凱が大きな掌を後頭部に当てながら、ぶっきらぼうに、だが誠実に頭を下げた。

「私も少し、頭に血が上りすぎていた。那が…あんな風になったのを見て、冷静じゃいられんかったんだ」

伊藤は、小さく縮こまるようにして首を横に振った。

彼女の瞳には、昨夜の熱病のような色はなく、今はただ深い自省と困惑が揺れている。

「い、いえ…当然の、ことです。…那くん、っ…ご、ごめんなさい…っ、私の、私が持ち込んだ…『問い』のせいで…っ」

彼女は那に向き直り、震える声で謝罪を口にする。

 

那は、まだ自分の肉体の内側で燻っている、あの夢の「衝撃」を完全には処理しきれていなかった。

鼻を抜ける血の臭いも、幻覚のように、時折、蘇る。

けれど、目の前で今にも消え入りそうな表情をしている彼女を、責める気にはなれなかった。

彼は、少しだけ――本当に微かな苦笑いを見せて、静かに首肯した。

 

「……大丈夫です。まだ、生きていますから」

 

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「さて。伊藤さん…先ず昨日、白河御先生が持ってきた其れを詳しく見てみる事にしよう」

凱の言葉に促され、四人はちゃぶ台の上に広げられた『槻御輿縁起残録(つきみこしえんぎざんろく)』を囲んだ。

先代の客人、あるいは最初の観測者であったという「芹沢」なる人物が遺した、血と墨の解析録。

 

「白河御先生が指したのは、此の曼荼羅。確かに、伊藤さんが書いたものと酷似してます」

那が、黄ばんだ紙面を指でなぞる。

そこには、定点としての『ツナギの妖星(ゴラス・データ)』を核とし、中央に座する巨大な球体構造――そして、その周囲を浮遊する概念生物たちの図像が描かれていた。

 

「……でも、此処。シーザやカメーバじゃない……」

那が、目を細めて呟きを漏らす。

球体暴龍『アン』の描画は、下部に確かに存在する。

然し、その周囲を取り巻いているのは、現時点での観測には現れていない、小さな翅蟲のような群れ。

さらに異様なのは、中央の『ζ』の核に、まるで寄生するように取り付いた楕円形の生物。然して、その文様を雁字搦めに縛り上げるような、不気味で硬質な『鎖』の意匠だった。

 

「鎖……?封印的な意匠なのか?」

凱が眉を顰める。

「…私の前にっ、いちど彼れに接触した人が居るのなら…っ、最初期の、彼のあらわれも、一度…血流の曼荼羅を通してっ…行われているはず、ですっ」

伊藤の声が、知的な熱を帯び始める。

「待て。…之は、伊藤さん…アンタの曼荼羅を、私が記述したような『追記的な写し』じゃないのか」

凱の鋭い洞察。刑事として、数多の偽造や隠蔽を暴いてきた経験が、紙面上の「違和感」を捉えていた。

「写し、ということは…現物にはない意匠が、組み込まれている可能性も考慮すべきです」

那が、その『鎖』の部分を人差し指でそっとなぞった。

 

「二種類の蟲はさて置いても、此の鎖……此れが引っかかりますね」

「確かに……ほら、ココ」

オクヤスが、身を乗り出して特定の箇所を指差した。

曼荼羅の一部が、不自然に擦り消されている。

墨の跡は消えていても、和紙には筆跡の起伏が残り、紙の繊維が毛羽立っている。

 

「修正されてる。元々は完璧に写してる筈だけれど、何かの事由をきっかけに『書き足し』をしてますよ、此れ」

那の胸の奥で、静かな火が灯った。

先程までの、自分を消したいという保身の恐怖。

それを上書きするように、この人物が何を見、何に抗おうとしたのかを知りたい…と。

其の暴力的なまでの好奇心が、彼を突き動かし始める。

 

「…他のページも見てみましょう。何かないか……」

那は、吸い込まれるようにページを捲っていく。

 

数枚は、理解不能な数式が並んでいた。

その次に、白魚のような物体の三分の二のみが骨格を露見させているデッサンが描き殴られている。

 

だが、曼荼羅から五ページほど進んだところで、整然とした筆跡が姿を現した。

 

「……筆跡だ」

「文字か!」

「どれどれ!」

凱が身を乗り出し、オクヤスが凱の広い肩に顎を乗せ覗き込んだ。

伊藤だけが、一歩引いた位置で、固唾を呑んでその文字を見つめていた。

 

『…唯の使命的実験の、探求の実験筈、であった。

其れが今、こんな状況に陥り、自らを蝕まんと、世界を蝕まんと、そう痛感している。

 

現在の学者にできることは、ただの観察と研究、僅かな対話だけだ。

かれを倒す手段など、今の私にはない』

 

「…ある程度はわかる。彼は明確に、其の高次存在を倒そうとしていた訳だ」

「だとすると、あの鎖も、あらわれを喫した其れを倒す為のものなのかな……」

凱の言葉を思考の土台にし、那は顎に手を当てて深く思案に沈む。

「…続きの筆跡がないか探してみよう」

さらにページを捲る。

そこには、より情緒的で、孤独に満ちた言葉が連なっていた。

 

『私の知人に見解を話したが、痴話は憚れと諭されてしまった』

 

『無理もない。月までの距離も正確に測れない現世常々だ。

私達の世界の外なぞ、空想特記の一環にしかならない』

 

『だが…君だから見せたんだ。

貴方なら分かってくれるはずだ』

 

「僕らも正味、最初は与太だって思いましたもん、伊藤さんの話…。だけど、違った。予知は当たり、彼女の描いた曼荼羅と、此れが…」

「今思い返すと、あの失礼な素振りはいま一度恥じるべきだな」

「…す、すんませんっした…伊藤さん…」

 オクヤスが後頭部を掻きながら、心底申し訳なさそうに頭を下げる。

伊藤は、一瞬驚いたように目を丸くし、それから少しだけ柔らかい表情を浮かべた。

「い、いえいえ…っ、気にしないで…っ! わ、私はっ…全員に理解して貰おう、と、いうより…っ。自分の中の解を見つける為に…っ、言葉にしているだけだからっ…」

「…ええ。だからこそ、貴女の理論を更に知りたいんです。…まだ、続きがありますね」

那が、再びページを捲り上げた。

 

「…これは」

「剣山か?」

頁の左下、精巧な筆致で描かれていたのは、三対の突出点を持つ、剣山のような構造物。

その末端は『ツナギの妖星(ゴラス・データ)』で繋がれ、幾何学的な階層を斜めから捉えた、準デッサン式の図解。

「…伊藤さん。先程、彼れの意識が何か、独特の方式で刻まれていると話していましたよね?」

「…う、うん…っ。ドォサルフィン…世界の樹」

「…本来は、背鰭、という意味です。海棲哺乳類のエコーロケーションに関する記述の英訳を、趣味で行った時に覚えました」

那が淡々と知識を出力すると、オクヤスが「ほ〜…!?」と、感心しきった声を上げた。

「…え、英語が疎い僕、オ馬鹿の僕には砂座間さんが理的に見えて仕方ない……っ」

「凹むなオクヤス。お前にも手先の器用さという生まれもった技巧があるんだ。誇れよ、人はみな適材な長短所というものがある」

凱がオクヤスの背を軽く叩き、励ます。

 

「…でもなあっ、最近作ったダイキャスト・プラモのR:M:G(ランド・モゲラァ)も結局、関節折っちゃったし…なぁ」

「あれは地震による棚の転倒、其れに準ずる物理的衝撃が原因の破損だって自分で進言してたじゃない。結局のところ、お前が壊したというニュアンスではないはずだがな」

「がッ、凱さんが理的ぶってる…」

オクヤスの失言めいた軽口に、凱が軽くその頭を小突く。

乾いた音が居間に響き、束の間の弛緩した空気が流れる。

 

「…背鰭……となると、世界の外にいる生物…?という事になるのかな」

那の思考は止まらない。

「…たぶん、だけどっ、元の身体を模しては、いるはず…っ。でもっ、意識はさっきのドォサルフィン構造によってっ、枝分かれ…してっ、より人間的に収斂してっ、よ、よりっ、凡ゆる場所で…っ、分岐して、繋がって…っ」

「…肉体構造は一つだけど、意識自体は其れが鼠算式に増えたうちのひとつ、という解釈ですか?」

「そ、そうです、っ! 那くん、物分りがいいなぁ…っ」

伊藤が、照れくさそうに頬を赤らめ、はにかむ。

その純粋な学者としての、あるいは一人の女性としての側面を垣間見て、那の胸の内の強張りが、わずかに解けていくのを感じた。

 

「…でも、断片的ですね、此のノート。やはり神宮とやらに出向くしかないのでしょうか……伊藤さん」

那の問いに、伊藤は強く、決然とした様子で頷いた。

「…アンちゃんと、カメーバ君、スキュラさん、シーザさん…っ。此の子たちを彼れが与えた場所が、上色見神宮です…っ。より革新的な手掛かりを得てっ…彼れを、与奪するか、共存するか…其れを観測する為にっ、其処に…行ってみたいんです…っ」

彼女の決意に、那も、凱も、深く相槌を打つ。

 

「…あと少しだけ、記録を見漁りましょう…っ。先代の、独立観測者による手掛かりは、ひ、必要、だから…っ」

 伊藤の言葉に導かれ、那は再び芹沢の遺した影に向かう。

 

その解析録へと目を落とす。

この和紙に染み込んだ墨の一節一節が、彼らをこれから待ち受ける『第零次元』の真相へと誘う鍵になる。

今は、それを信じるしかないのだ。

 

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