ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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先代独立観測者・芹沢 其弐 / 鐡の蛾

 

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「芹沢」の手記を読み進めるにつれ、居間の空気はしっとりと重く、それでいて静かな熱を帯びていった。

数百年前、この地で今の自分たちと同じように、あるいはそれ以上に孤独な境界(マージン)に立たされていた先代観測者の、声にならない叫び。

其れが、和紙の黄ばみから滲み出しているようだった。

 

「背鰭のような構造と、曼荼羅構造……然して、独記か。砂座間さん、確かに之は…断片的といっていい」

「ですが、相手の(かたち)──彼れとやらが如何なる姿であるかを、この筆致は精巧に満たしています。単なる空想で描ける密度じゃありません」

那は、指先に残る紙の感触を確かめながら答える。

 

「だが…姿形を理解したところで、それが『敵』なのか『現象』なのかも判然としないんじゃあな」

凱が釘を刺すように、低く呟いた。

彼の現実的な視線は、常にこの事態をどう収束させるか、その一点にのみ注がれている。

 

次ページを捲った瞬間、那が「あっ」と、ごく短い息を漏らした。

「また……筆記です。それも、今までのものとは少し違う」

そこにあったのは、芹沢本人の整然とした筆記と──其れに割り込むように、流麗だがどこか焦燥を感じさせる別の字体で記された筆跡だった。

 

『彼は、やはり理解を擁してくれた。私の見込み通りである』

 

『生物学的観点より、高次存在の追求を迫るためには、彼の存在が欠かせなかった』

 

『此処から数記は、彼との共同的執筆となるだろう』

 

 その言葉に続くように、少し太めの筆跡が頁を踊る。

 

『先述構造に関しては、未知の素で構成されている。また、其の発動時には、生体発光を基うと思う』

『代筆 山根』

 

「ヤマネ…」

那は思わずその「山根」という人物の名を、指先で愛おしむようになぞった。

「最初は正気に戻れと諭した側が、かなり興に乗っている感じじゃないですか…此れ。…恐らく、魅入られてしまったんですかね。知的な好奇心に、あるいは、彼れそのものに」

世俗の理から外れた異端の研究者たちが、時代を超えて一冊の書に集う。

其れは、高次の意識から独立し、あくまで人間としての尊厳を保ちながら、高次の存在に抗おうとした足掻きの記録だ。

 

「先述の構造とは…背鰭の意匠かな」

那は、胸の奥で絶え間なく膨らむ疑問を、独り言のように吐き出す。

「背鰭を輝かせ、世界の体系を変えてしまう高次生物……更には意思的疎通と、物理的存在ではない、脳構造だけが理解できる概念の転送。……そして、筆記による現世への土着……」

彼の思考は、自分でも驚くほどの速さで回転していた。衝動が、脳のどこかの(バルブ)を強制的に開いてしまったかのようだ。

 

「…あれは、テレパス…若しくは、一時的な脳構造の改竄によるっ、直接的な言語野の…て、転送…ともいえますっ。そんな感覚が、私にはするんです……っ」

伊藤が、那の言葉を補完するように身を乗り出す。

「そんな事が可能な生物が…いや、最早、そんな事が出来るのだとしたら…正に、神の御業と言ったところか」

凱が喉を鳴らしながら、再び背鰭のスケッチに目を向ける。

規則的に、まるで天を貫かんばかりに鋭く、枝分かれした末端部分が怒張している。それは木の根のようでもあり、あるいは神経系の写し絵のようでもあった。

 

「…ほら、此処…っ、ヤマネ、さん…のっ、記述が、あります…っ」

伊藤が、背鰭部分の端を指し示し、ゴラス・データの付近に記された、米粒のような小さな文字をとん、と突いた。

 

『ちぇれんこふ 其が希滅の汽笛』

「チェレンコフ光…かな」

那の脳内に、その単語が断片となって、鮮やかな色彩を伴い浮き上がる。

放射能の荷電粒子が、特定の媒体中で光速を超越した際に発生する、あの、この世のものとは思えないほど美しく、そして致命的な蒼い光の呼称。

 

──そして何より、夢の中の「けだもの」は、其の口腔をあの失明せんばかりの光で満たしていた。

那は、網膜に焼き付いたあの光景を、冷たい汗と共に反芻する。

 

「…此の『ちぇれんこふ』が、単なる比喩として光自体を差すとするなら、まだいいのですが」

那が、苦しげに眉を顰めた。

「…つまり…っ、彼れが、手段的に…っ、放射能源を散らす可能性が、ある…という、推察ですかっ?ごめんなさい…っ、彼れの精神のルーツについては…っ、まだ、私も理解が完全には出来ていなくて…っ」

伊藤の声が、不安に震える。

チェレンコフ光が発生する処には、強力な放射能源が存在する──その科学的常識が、今、彼らの目の前にある超常現象と結びつき、最悪のシナリオを提示していた。

 

「だが、一度目の微動と噴火、二度目のあらわれ…其の際に、槻御輿付近でのガイガーカウンターの数値が上昇したとかいう類の報道はない。だから…その…ッ、俺には難しいな、説明が」

凱がなだめるように言葉を継ぐが、彼とて、複雑に絡み合った『彼れ』の実体が、未だ霧の向こう側に隠れていることを痛感していた。

 

「つまり、彼には基となる身体が…で、でも…っ、世界の樹で枝分かれした意識と、肉体は…べ、別物だから…っ、もしかしたらっ」

「では、私達が夢で見たのは……彼の『元の肉体』なのかな」

「それでも…っ、顕現の、際には…っ、似た形態であらわれる可能性がっ」

伊藤の指摘に、その場の空気が凍りつく。

 

夢の中で見た、あの山を跨がんばかりの質量を持つけだものが、もし此の槻御輿村(つきみこしむら)に実体として顕現したならば。

其れはもはや、村の消失どころでは済まない。

世界の体系そのものが、物理的に圧殺される。

 

「…もし、万が一、そんなのが出てきたら、どうするんですか」

オクヤスが、震える声で問いかける。

伊藤は再び数秒、祈るように口を閉ざした後、覚悟を決めたように言葉を紡ぎ出した。

「…其れが、対話の余地がない存在であれば…此の理の外へと押し返します…がっ、若しも余地があるなら…」

「あるなら、何だ」

凱が、逃げ道を塞ぐように問い詰める。

 

「……土着(どちゃく)、させます」

 

那は目を見開き、眉間に深い皺を寄せた。

彼女は、一体何を言っているのか。

あのような破壊の権現を、この現世に留まらせるというのか。

――正気の沙汰ではない。

「……何故です。…其処まで、危険な真似を」

那が問い返すと、伊藤は彼の顔を、射抜くような真剣な眼差しで見据えた。

 

「…少なくとも、対話の余地がある存在でなければ…っ、私にっ、あ、アンちゃんやシーザさんのような…っ、抑止的な側面を持つ概念生物を、意図して渡さない、は、はずだから…っ」

「…彼れが望んでいるのは、私たちが、人間が選ぶ『選択』の内容…だと?」

「…そうかも、知れません……っ」

 

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 芹沢の筆記は、その後、徐々に掠れを伴いながら続いていたが、やがて呼吸が絶えるように断片的となっていく。

 

那は、最後のページに、震えるような筆致で記された一節を見つけた。

それは、曼荼羅の写しに書き加えられたあの『鎖』らしき物体。それが、どこに「置かれた」かについての記述だった。

 

『…鎖を引く。其の楔は、神宮の奥つ宮、石の階の下に…ある。大戸村、上色見の』

 

那は其処で筆記が完全に途絶えていることを確認すると、乾いた音を立てて書を閉じた。

指先に残る古書の匂いが、現実へと帰るための重石のようになる。

凱は、芹沢の最後の筆記を視認して、ふと思う所があった。

「大戸村というのは、此処の(ふる)い地名だ。やはり、此処で間違いないのか」

 

「…やはり、神宮に呼び寄せられているのか」

那が呟く。

 

「…行かなければ…っ、彼処に、もう一度…っ」

 

伊藤の言葉に、那は無言で頷いた。

鼻の奥で、再び微かに血の匂いがしたような気がする。

 

それが夢の残滓なのか、再びの蝕みであるのか、あるいは新たな「問い」への予兆なのか、今の彼には知覚する事が出来なかった。

 

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一方、槻御輿村・松中派出所付近。

十数時間前、あの知的な狂気の果てに、伊藤がアスファルトへ刻みつけた『血の曼荼羅』。

本来ならば、山の乾燥した空気に晒され、どす黒い酸化の痕跡へと変貌しているはずの其れは――いまだ、奇怪な『鮮度』を保っていた。

 

否、単に乾いていないだけではない。

凝固を拒絶するその赤は、肉眼では捉えきれない微細な速度で蠢き、まるで毛細血管の中を巡る赤血球の如き、規則的な廻転と血流を維持し続けている。

 

それは地面に描かれた図形というよりは、剥き出しになった巨大な生物の、露出した臓器の一部であるかのようだった。

 

──其の時であった。

ふと、昼下がりの静寂を切り裂くように、付近の中空にごく僅かな異変が生じる。

風もないのに、白いチャフのような微粒子が、雪とも灰ともつかぬ足取りで宙を舞い始めた。

太陽の光を透過し、プリズムのように妖しい輝きを帯びた『粉』。

それは意志を持つかのように緩やかに降下し、派出所前の冷えた空気を乳白色の光彩で包み込んでいく。

 

血の曼荼羅が、その外神的な飛来に『呼応』するように、脈動を一段と強めた。

新鮮な赤が、侵入者を受け入れた異物反応か、あるいは未知の化学変化か、僅かにどろりとした混濁を見せ始める。

 

変質は、一箇所に集中した。

 

曼荼羅の北側に記述されていた、守り役──『シーザ』。

その記述を構成していた血の線が、あろうことか、端から急速に『乾き始めた』。

 

与えられていた役割を全うし、役目を終えた演者が舞台を去るかのように、シーザを形作っていた線は瞬く間に掠れ、ひび割れ、剥落していく。

アスファルトに刻まれた数秒前までの神聖な意匠は、無惨な血痕の残滓を遺すのみとなり、世界の位相から、音もなく、然して決定的に消え失せた。

 

空虚となったその場所へ、ひらり、ひらりと、空気を噛むような翅脈の瞬きが降りてくる。

 

其れは、鐡のような冷たい体色を伴った、ニンフの如き姿。

妖精と呼ぶには余りに金属的で、精密機械と呼ぶには余りに生物的な、此の世界の進化系統図には存在し得ない「蟲」が一匹。

 

シーザが消滅した空白の地点へ、重力から解き放たれたような軽やかさで羽を休めた。

 

蟲の瞳は、燃えるような紅色。

それは先程まで其処に流れていた血の色を、そのまま凝縮したような凶悪なまでの輝き。

蟲は、頭頂に生えた黄金(こがね)色の『角』を、びがり、びがりと蒼白く発光させた。

その光は、那が夢の中で見た、あのチェレンコフ光の残響を思わせる、冷徹な死の予感に満ちている。

 

羽を震わせ、微かな機械音にも似た鳴動を響かせながら、蟲は一点を凝視していた。

 

視線の先にあるのは、遠く山嶺の向こう。

『あらわれ』によって無残に突出した、あの巨大な噴煙の出処。

 

まるで、其処に座する大いなる主の帰還を、数千年の孤独の果てに待ち侘びる、忠実な僕の如き静謐さで。

 

世界の再構築を告げる希滅の汽笛(あらわれ)は、もうすぐ其処まで迫っていた。

 

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