朝の光は山嶺の端から漏れ出してはいるものの、この庵の周囲だけは、いまだ湿った影が支配している。
主である白河御は、古びた門扉の傍らで、静かに一行を見送っていた。
彼女の瞳には、昨夜の惨劇や『
この山に土着する者が本能的に嗅ぎ取った、「理の破綻」に対する震え。
「…御機嫌よう、皆様。山嶺は時折、人を惑わす深さを持ちます。…どうか、御無事で」
その声は、どこか遠い弔辞のようにも聞こえた。
凱は短く「世話になった」とだけ答え、革ジャンの襟を立てて三名に乗り込みを促した。
使い込まれた四駆のエンジンが低い唸りを上げ、駆動音が静寂を切り裂く。
那は助手席の窓越しに、遠ざかっていく庵の輪郭を見つめていた。
サイドミラーに反射する自らの顔は、相変わらず生気のない白磁の色を保っていた。
鼻孔の奥にこびり付いた、あの乾いた鉄の臭い──昨夜、夢から現実へと溢れ出した鮮血の記憶だけが、今の自分をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨のように感じられる。
車は、村の最果てにして、この事象の心臓部とも目される『上色見神宮』を目指し、緩やかに高度を上げていく。
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麓を離れるに従い、道は険しさを増していった。
整備されていたはずのアスファルトは、何かに内側から突き上げられたかのような亀裂を深め、剥き出しになった赤土がタイヤに噛みついては悲鳴を上げさせる。
那が、その奇妙な違和感に気づいたのは、山道を登り始めて三十分が経過した頃だった。
――世界が、不自然な『収束』を見せ始めている。
視界の端、山肌を縫うように流れる細い沢に目を向けた那は、息を呑んだ。
そこでは、本来ならば高い場所から低い場所へと物理の命ずるままに流下すべき水が、意志を持った蛇のように、不自然な
透明な水の飛沫が、重力を否定し、因果を遡る。
かつて流れた時間をもう一度辿り直すかのように、水は源流を目指して駆け上がっていく。
…それだけでは、ない。
道端に咲き乱れていた野花は、那が瞬きをする間に、その開いた花弁をゆっくりと閉じ、瑞々しい色彩を固い蕾の中へと閉じ込めていく。
先ほどまで枯れ果てていたはずの枝先には、あり得ない速度で青々とした若い芽が吹き返し、朽ちた倒木からは菌糸が消え、生命の最盛期へと姿を戻していく。
時間は、この中心点──上色見神宮を軸とした一定の直径範囲内で、物理法則そのものを
「…凱さん…外、を見てください」
那の掠れた声に、凱がルームミラー越しに鋭い視線を投げ、眉を深く顰めた。
「…ああ。気づいてる。…川が戻り、花が若返ってやがる。もはや地球上の生命が…此の世界のルールが起こしていい状況の範疇を越えてるな」
後部座席で身を縮めていた伊藤が、震える指先で窓ガラスに触れた。
その指先が触れた部分の曇りが、生き物のようにうねりながら消えていく。
「…
伊藤は無意識に、自らの細い胸元に手を当てた。
そこには、彼女が唯一信じている「理」が、辛うじて息づいている。
「…シーザさん…っ」
彼女は祈るように、かつて自分を守護してくれた、あの概念生物の名を唇に乗せて懇願した。
だが。
自らが描き出した曼荼羅の守り役であったはずの『シーザ』は、既にその座を「鐡の蛾」へと奪い取られている。
あの派出所付近のアスファルトで、シーザの記述は掠れ、世界の位相から跡形もなく抹消されているのだということを、彼女は知る由が無い。
那は、彼女が慈しむように呟く『シーザ』という響きに、言いようのない虚無感を覚えた。
今の彼女の背後に蠢いているのは、本当に、その名前を持った慈悲深い存在なのだろうか。
彼女にこの「問い」と、数多の「けだもの」を与えたあの巨大な意識は、一体何を思案し、何を選択させようとしているのか。
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四駆がさらに高度を上げると、周囲の光景はより一層の変質を見せ始めた。
空はどんよりとした、見たこともない白銀色に濁る。
風は吹いているのに、木々の葉は一切の音を立てない。
那の耳の奥で、再びあの
数百段もの石段が、天を衝くような杉の巨木の間を縫って、垂直に近い角度で屹立していた。
車を降りた瞬間、那を襲ったのは、物理的な重力を遥かに凌駕する異質な「空圧」だ。
標高による気圧の変化などという、生易しいものではない。
まるで大気そのものが粘り気のある
一呼吸ごとに肋骨が軋み、眼球の裏側にまでじわじわと不快な圧力が浸透していく。
「…本殿の
凱が眉を僅かに潜め、ぼそりと呟いた。
その声も、この異常な空間に吸い込まれ、数メートル先には届かないほどに減衰している。
「…い、行きましょう…っ」
伊藤の、熱病に冒されたような、それでいて凛とした決意を秘めた声が先導を切った。
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石段を登り始めて数分。
一行を包む空気感は、さらに異様を極めていった。
此処には、鳥の囀りも、木々を揺らす風の音も存在しない。
あるのは、自分たちの脈動と、石を穿つ靴音の反響だけ。
いや、それさえも、逆流する時間の余波に晒され、響きが不自然に歪んでいる。
四分の二を登り切ったあたりで、まずオクヤスが膝を突き、激しい
「…っ、は、はぁ…っ!なんだ、此処っ、あ、足が…ッ…動かない……っ」
その額からは大粒の汗が滴り、顔色は土色に変色している。
次いで、屈強な肉体を誇るはずの凱までもが、その歩みを緩めた。
太腿の筋肉が痙攣し、呼吸の閾値が限界を超えようとしているのが見て取れる。
彼は手すり代わりの石柱に手をかけ、呻くような吐息を吐き出した。
「…っ、クソッ…まるで…この石段そのものが、俺たちの存在を…拒絶してやがる…ような…」
「っあ、はあっ…」
那もまた、肺を焦がすような苦しみに身を捩り、中腹で息も絶え絶えになっていた。
一歩を踏み出すたびに、視界の端で火花が散る。
だが、そんな満身創痍の三人の先を、伊藤だけが恐るべき足取りで進んでいく。
彼女は、まるでこの重圧など存在しないかのように軽やかだ。
全くの疲れを見せず、淡々と、機械的なまでの正確さで段を刻んでいた。
その背中は、那の目にはもはや人間のそれには映らなかった。
彼女という個体が、この神域に漂うζの周波数に、完璧に同調してしまっている証左なのだろうか。
彼女の異様な
ふと、那は激しい眩暈の中で、階段の両脇に等間隔で並んでいる灯篭に目を向ける。
最初は、苔生した古びた意匠だと思っていた。
だが、視界を無理やり固定してそれを凝視した瞬間、背筋に氷の破片を流し込まれたような感覚が走る。
「…これ、は……」
灯篭の火袋を形作る意匠。―中心に据えられた、完璧なまでの球体。
それを、左右から括弧型の鋭利な縁どりで固めるようにして封じる形状。
其れは、存在するだけで世態が変容してしまうような、呪術的な図像だった。
石の意匠は、時間の退行に晒されながらも、その不気味な輪郭を研ぎ澄ませている。
数百年前から、あるいはそれよりも遥か昔から、この地を訪れる観測者を待ち構え、その意識を情報の檻に閉じ込めるための
那は震える手で、自らの胸元を押さえる。
もう、戻れない処まで来てしまった、という実感を、ひしひしと抱えながら。
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