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那が自宅の玄関を出た時、空はまだ深い
夜明け前のこの時間帯は、一日の中で最も「中間的」な状態にある。昼の活気も、夜の深淵も持たない。
すべてが潜在し、未決定で、夢と現実の境界が薄膜のように薄くなっている時刻だ。
那はこの時間が好きだった。先ず、誰にも会わないで済む。
世界がまだ他人のものになる前なら、那は安全な距離からそれを見ていられる。
――世界が目覚める瞬間を、安全な距離から記録することができるのだ。
歩き出す足取りは、最初は重かった。
睡眠不足と、地震による神経の高ぶりが、筋肉に微かな抵抗を与えている。
しかし、那はこの抵抗を「摺り減らす」ように歩き続けた。
一歩、また一歩、決められたルートに沿って。
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槻御輿村の朝は、音から始まる。
遠くで鶏が鳴いた。どこかの家の雨戸が開く。
新聞配達の軽自動車が、まだ乾ききらない朝の道をゆっくり這っていく。
村が起きる時は、いつも「音」が先回りをする。
那の散歩コースは、家から南へ、緩やかな坂を下り、小さな川に沿って東へ、そして再び坂を上って戻るという環状を描いていた。
その途上には、村のさまざまな「顔」が現れる。新しく建てられたモダンな家々、板壁が風雨に晒されて銀灰色に変色した古い農家、無人の空き地に生い茂る雑草の群落。
川沿いの道に入ると、空気が変わる。
水の気配が、乾いた夜気に湿潤を加える。川面はまだ暗く、流れそのものよりも、水が岩を撫でる「ザラザラ」という音でその存在を知らせる。
那は時折、足を止め、その音に耳を傾ける。
思考の渦を、流れる水のリズムで洗い流すため。
東の空が、藍色から紫へ、そして薄墨色へと変わり始めた。雲の切れ目から、最初の鋭い光の剣が差し込む。
それは、世界に明確な
光は、那の内面にも作用した。
闇の中にあった不安が、その形態を明らかにし始める。
あの地震は何だったのか、単なる火山性微動のひとつに過ぎないのか――それとも、何かより大きな事象の前兆なのか。
那は、その問いを意識の表層に浮かべることを拒んだ。問いは、思考を螺旋状に下降させ、あの忌まわしい記憶の坑道へと導く入り口になりうるからだ。
代わりに、那は感覚を「現在」に固定する訓練を始めた。
靴底が砂利道を踏む感触。
冷たい空気が頬を撫でる刺激。深呼吸をした時、肺が拡張する感覚。
これらを、一つ一つ、丁寧に確認していく。
マインドフルネスという言葉を知ってはいても、那はそれを技法としてではなく、生存のための
実体のない不安を、今この瞬間の確かな知覚へと変換する作業である。
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坂道を上り始める頃には、身体が温まっていた。最初の重さは消え、代わりにリズミカルな疲労が筋肉に宿る。
心拍数は上昇し、血液の流れが早くなるのを感じた。
それが、一種の浄化作用のように思えた。停滞していたものが、再び循環し始める。
村の外れ、河岸にかかる歩道橋の見えるあたりまで来た時、那はふと、いつもと違う「気配」を感じた。
目に見える変化は何もない。しかし、空気の密度が、わずかに変わっているような…あるいは、それは那自身の内部で起こっている変化の投影なのかもしれない。
歩道橋の近くには、古びた木製のベンチが一つ置かれていた。通常、この時間に人がいることはない。しかし今日、そのベンチに、うずくまるような姿勢をとる人影があった。
那の足は一瞬、止まりかけた。
生活の周期が乱される可能性に対する、本能的な警戒。しかし、好奇心――あるいは、孤独な観察者としての職分のようなものが、那の身体をゆっくりとその方向へと引き寄せた。
人影は、何かに没頭している。
頭を垂れ、手をせわしなく動かしている。
紙に何かを書いているのか、あるいは描いているのか。
距離があるため、詳細は判別できない。
那は、歩行の速度を意図的に落とし、ベンチから十メートルほど離れた位置を維持しながら歩き続けた。――観察するのに十分な距離を保ちつつ。
その人影が、村の住民なのか、あるいはよそ者なのか。何をしているのかを測る。
その時、人影の横顔が僅かに露見した。
間接的で優しい朝日に照らされて、長く、乱れた
しかし、その表情は極めて遠く、何か深遠な概念に囚われているように見える。
那の視線と、その女性の焦点が合わない。
彼女の目は那を見ているようで、その背後にある空間、あるいはこの世界を構成する
「……ファイの
微かな呟きが風に乗って届く。
那は、立ち止まる。
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那は、目の前の人間があまりにも熱心に
不審と目される事に僅かな警戒はあれど、目の前の事象を知りたいという思考体系が、矢継ぎ早に湧き出てくる。
だが、一歩を踏み出す瞬間に、あの「規則」が首筋を冷たく撫でた。
他人に嫌われること、不快感を与えること、それは取り返しのつかない災厄への
それでも、喉の奥に張り付いた渇きのような好奇心が、恐怖を僅かに上回った。
那は深く息を吸い、眉唾を飲み込んだあと――自らの輪郭を極限まで薄めてから、女性の背後へと語りかけた。
「……おはようございます。何をされているのですか?」
数秒、反応の
やはり話しかけるべきではなかった、彼女の深遠な集中を汚してしまった、と心中に致命的な後悔を
「えっ、あ、ぇ、ええっ、あ、っ、えええっ!?」
――今にも眼をひん剥かんばかりの勢いで、彼女は驚愕を剥き出しにした。
「あ、ああっ…いえ、驚かせるつもりは――」
那は内面で悲鳴を上げながら、表面上は穏やかな事務的微笑を貼り付けた。嫌われてはいけない。この場を波風立てずに収めなければならない。
「あ、ぁ…ご、ごめ、なさいっ、き、気づか、なくてっ!あの、わ、わたし、わたしぃ、しゅうちゅう、して、て、っ…!」
女性は、震える手で分厚いクロッキー帳を抱え込んだ。
その指先は鉛筆の粉で黒く汚れ、尋常ではない発汗が彼女の額を濡らしている。
那は、彼女が抱えた帳面の隙間から覗く「線」に目を奪われた。
それは、単なる素描ではない。複数の幾何学的な四角枠が定点として配置され、それらを繋ぐ無数の細い線が、夜空の
「それは…何かの図面、ですか?」
那は努めて声を低く、侵略性のない周波数で問いかけた。嫌悪を回避するための、
彼女は、那が自らの領域を侵害しないと判断したのか、あるいは自らの探求を説明したいという
那は、その緻密な狂気に息を呑んだ。
「こ、これはっ、
中心に描かれているのは、十字架型の巨大な甲羅を背負い、時の流れそのものを咀嚼しているかのような老いた亀の姿だ。
「こ、この子、は、カメーバ!私は君付けで、呼んでて…」
「かっ、亀…?でも此れって…」
「自己犠牲による、進化の加速を、司っていてっ。この背中の十字架が、アンテナや羅針盤に、な、なっていて……!」
「…と言うか、君付け…?」
那は惑いながら、その名を反芻した。余りにも学術的な幾何学模様と、不釣り合いな愛称の
「そ、こっちのっ、暴れてるのはっ、スキュラさんっ! 軟体の頭蓋を、振り回して、事項の歪みを、掻き混ぜるの。あ、危ないから、この子、シーザが、しっかり、繋ぎ止めてないと、駄目、なんだけどっ」
彼女が指した先には、猪と軟体動物を融合させたかのような、暴力的な
伊藤の拙い、しかし熱を帯びた言語野による説明は、那の「観察者」としての本能を強く刺激した。
彼女の言葉には、既存の生物学では説明のつかない、独自の物理学的論理が通っている。
其れが行われているのが形而的な場でなく、クロッキー帳の一端であったので、那は其のプロセスに対して、彼女の「創作的衝動の産物」――其れに惹かれ切っていた。
「…其れらを繋ぎ止める役割を請け負うのが、シーザ?」
「…あ、あっ、そう、そうっ!」
「このゴラス・データは、彼等が此のキャンバスの外に出る事を封じるための…拘束具のようなものですか?」
那が理解を示した瞬間、伊藤の瞳が異様な輝きを放った。自らの論理を理解されたという驚きが、彼女の社交的
「あ、当たりっ! あなたっ、解るんですか? でも一番っ、大事なのは…こっちなのっ。見て、私の
彼女が愛おしそうにページをめくると、そこには最も異質な存在が鎮座していた。
恐竜のような
まさに、視覚を
「アン、ちゃん、はね、…
彼女が指し示した余白には、複雑な
「こ、このベクトルの収束がっ、アンちゃんの回転に一致して、せ、世界のねじれを、表してるのっ! アンちゃん、私のお気に入りでっ…可愛い、でしょっ?」
「は、はあ…なるほど、…球体でありながら平面…高次元の投影、ということですか」
自らの内にあった「不気味さ」が、急速に「知的な興味」へと変質していくのを感じる。
彼女の素行は、傍から観測すれば異端性に富んでいると見えるだろう。
だが、観察者たる那は更に其の奥の――
――ただ、この世界の裏側に流れる情報の
那は自らの立ち位置を忘れ、身を乗り出していた。
「…知りたい。貴女の構想。其の極致について、更に教えて頂けますか?」
嫌われることへの恐怖は、いつの間にか、この
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