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石段を登り切った先、そこに広がっていたのは、那の知る「神社」という概念を根底から覆す、異形の光景だった。
上色見神宮──。
本来ならば、厳かな拝殿が鎮座し、杉の巨木が作る木漏れ日が地面を斑に照らしているはずの場所だ。
然し、眼前に展開されているのは、視覚が――然して、脳が受け入れを拒絶する「非ユークリッド的」な建造構造であった。
本殿を囲む回廊は、ある地点から物理的な接続を無視して中空へと捩じ切れ、視点を変えるたびに向きを変え、騙し絵のような多層構造を形成している。
石畳は、遠くへ行くほど広がり、近くへ寄るほどに収束する。
距離感が狂い、自分が今一歩踏み出したのか、あるいは数メートル後退したのかさえ、三半規管が正しく認識できない。
木材の継ぎ目は、生物の関節のように生々しく蠢き、本来直角であるべき柱の角度は、鋭角と鈍角を絶え間なく往復している。
「…何だ、此処は…」
凱の低い声が、静寂の中に落ちる。
辺りは、まさに「閑古鳥が鳴く」という言葉を具現化したように、不気味なほど静まり返っていた。
麓では逆流する沢の音が聞こえていたが、此処には音の伝播さえ拒む、真空のような
虫の音も、風の囁きも、自分たちの呼吸音すら、この空間の歪みに吸い込まれて消滅していく。
伊藤は以前、此処に訪れ、あのけだものと接触し、クロッキー帳の襞の中に概念生物を押し込まれた――。
其の事実を、那は脳内でふたたび思い起こす。
浮世離れした、黄泉の世の如き場の意匠を見て、改めて彼女の極致が「絵空事」などではないという確信が、ひしひしと深まっていく。
「…こ、こっちです…っ、彼処の奥ですっ」
伊藤が、焦点の定まらない指先で、本殿の土台部分を指した。
歪んだ空間の隙間に、一箇所だけ、光さえも反射しない漆黒の「穴」が口を開けていた。
芹沢の手記に記されていた──地下通口。
一行は誘われるように、その闇の喉笛へと足を踏み入れていく。
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入口を抜けた瞬間、気温は一気に数度下がる。
肌にまとわりつく湿気は、冷たい「澱み」へと変わった。
地下の通路は、人工的な石組みでありながら、どこか生物の体内の内壁を思わせるような、独特の湿度と脈動を孕んでいた。
那は、壁面に描かれた紋章に目を留め、息を止める。
「……これは、手記にあった……」
壁面には、延々と『鰭』を象った紋章が描かれている。
それは単一の図柄ではない。
主となる太い「鰭」の軸から、無数の細い繊維が、神経細胞がシナプスを伸ばすかのように複雑に分岐し、壁一面を埋め尽くしている。
芹沢が残した解析録、あのドォサルフィン(背鰭)構造と、あまりにも残酷なまでに一致する幾何学的な
筆跡は、最初は丁寧な彫り込みであったものが、奥へ進むにつれて焦燥を帯び、まるで「書き殴り」のような、鋭利な筆致へと変貌していく。
まるで、書き手が自らの正気を削りながら、高次存在の意識をこの石壁に無理やり固定しようとした、その苦闘の軌跡そのものであるかのように。
通路の最奥──。
空間が、ドーム状に不自然に広がった場所があった。
その中央には、一つの巨大な「石楔」が、大地の心臓を貫く杭のように垂直に突き立っている。
そして、その石楔を雁字搦めに縛り上げていたのは、三本の黒色の鎖であった。
光沢のない、光を全て呑み込むような黒。
それは金属でありながら、どこか硬質な骨格にも似た、異質な質感を備えている。
鎖は生き物のように石楔に巻き付き、その連結部分は、まるで互いに噛み合い、離すまいとする牙のように強固に噛み合っていた。
「…此れが…あの曼荼羅に、書き足されていた…『鎖』の正体…だったん、ですねっ…」
那は、自分の喉が不自然に渇くのを感じた。
夢と、けだものの咆哮と、鼻から溢れた鮮血の奔流。
それら全ての「重み」が、この三本の鎖に集約されているような、そんな気がして為らなかった。
「…那さん…手に、取って…っ、…呼んで、いるから……っ」
伊藤の声は、もはや彼女自身の意志ではなく、何らかの巨大な力に
那と伊藤は、互いに顔を見合わせることなく、吸い込まれるように手を伸ばした。
指先が、冷え切った鎖の表面に触れる。
その瞬間、那の脳裏に、凄まじいまでの情報の
コントラバスの弦を掻き毟るような爆音。
生体発光の青白い輝き。
そして、数千、数万の、分岐する意識の
じゃらり、と。
重厚で、しかしどこか虚ろな、金属の擦れる音が静寂を殺した。
石楔から解き放たれた鎖の重みが、那と、そして伊藤の掌へと渡る。
「選択」の重みそのものを、確かな質量と伴に知覚させられた。
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