ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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蓋脚憤慨獣(スキュラ)

 

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地下の最深部、石楔から引き剥がされた三本の鎖は、那と伊藤の掌の上で、冷たく、重く、沈黙を守っていた。

伊藤が二本、那が一本の鎖を分かつようにして抱え持ち、その場に立ち竦む。

凱は一歩身を寄せると、眉間に深い溝を刻み、その黒い鎖をまじまじと見つめた。

 

「…これが、神宮の奥底に封じられていた代物か。金属の質感にしては…光を反射してないのが不気味だな。砂座間さん、その鎖、妙な振動を感じねえか」

凱の指摘に、那は意識を掌に集中させる。

確かに、鎖の芯からは、心音よりも遥かに速い周期で、微かな、しかし暴力的なまでの脈動が伝わっていた。

 

――其の時であった。

 

「…はあ゛…っ!」

それまで何かに憑かれたように静止していた伊藤が、喉を掻き切られたような鋭い喘鳴を漏らした。

 

「…伊藤さん、っ?」

那が気遣わしげに声をかける。しかし、返ってきた彼女の表情は、一瞬で絶望の色に塗り潰されていた。

滝のような汗が、彼女の青白い額から吹き出し、頬を伝い、細い首筋へと流れ落ちていく。

眼前の石楔を見ているのではなく、もっと遠い、この世の果ての光景を凝視するかのように、虚空を見据えている彼女を見て、那は思わず全身の血流が冷え上がるのを知覚した。

 

「…彼は…かれ、はっ、もうっ、律儀にっ、待ってなんか、くれない…っ」

伊藤の声は、今にも千切れそうなほどに震えていた。

「彼れは…『あらわれ』の地点で曼荼羅を書くのを…っ、決断を渋った私の事を…っ、見限ってっ、も、も…っも、もう、わたしをっ、介さずにっ、選択の余地も与えずに…っ、っ、か…かっ、かれっ、彼れの自由意思のままに…っ、事を進める…っ、つもりなんだ…っ!」

 

オクヤスが、困惑と恐怖の入り混じった顔で、さらに問いを重ねる。

「ど、どういう意味っすか、伊藤さん。アンタ、あいつと通じてるんじゃなかったのか? 話が違うじゃないか!」

「…契約は、終わったんです…っ」

伊藤は、手許の鎖を握る指を白く染めながら、絞り出すように続けた。

「以前……芹沢さんと呼ばれた人もっ、このように…自分の観測が神の速度に追いつかなくなった瞬間、屠られたのでしょう…っ。此れは、実質的な…死の宣告…です…っ!」

 

彼女の言葉が終わるか否かの刹那であった。

――地下通口の全域に、地底の底から這い上がってくるような不気味な地鳴りが響き始める。

単なる地震ではない。

最も第零次元に近い空間そのものが、何らかの巨大な質量によって外側から押し潰されようとしている、空間の悲鳴。

 

「――全員、走れ! 此処が崩れる前に脱出するぞ!」

凱の怒声が轟く。彼は本能的な危機を察し、逡巡するオクヤスの襟首を掴んで、崩落し始めた通路へと踵を返した。

那は、肺を焼くような冷たい空気を吸い込みながら、暗い通路を必死に駆けた。

 

 壁面の『鰭』の紋章が、振動に合わせて歪み、剥がれ落ちていく。

「あ…っ!?」

その最中、那の指先から、不意に鎖の端が滑り落ちた。

じゃらり、という、現実離れした重厚な落下音が石床に響く。

 

金属が擦れる乾いた音と共に、通路の闇を貫いて──びがり、びがり、と、僅かに金箔(こがね)の光を内包した火花が鎖の表面を走った。

那は反射的に鎖を拾い上げ、胸に抱きしめるようにして、崩れゆく神宮の深淵から這い上がった。

 

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石段を転がるようにして降り、からがら境内の外へと脱出した一行は、背後の山──上色見神宮の御神体ともいえる尾根を振り返り、言葉を失った。

 

其処には、もはや「自然」という定義は存在しない。

轟音と共に山の斜面が内側から爆ぜ、土砂を撒き散らしながら、一頭の異形がその全貌を顕現させていた。

 

それは、軟体動物のような粘膜を湛えた巨大な頭蓋を持つ、巨大な猪の姿。

だが、その肉体はあまりにも冒涜的だった。

全身を覆うのは剛毛ではなく、無数の「鰭」が重なり合ったような鱗状の皮膚。

頭部からは、意思を持つ触手のような鼻が蠢き、その先端からは生体発光の淡い光が漏れ出している。

 

かつて、伊藤のクロッキー帳の中の、概念の産物として縛り付けられていたはずの概念生物。

 

――蓋脚憤慨獣(スキュラ)

其の『肉体』が、今、第零次元の重力から解き放たれ、現実という位相へと土着を果たしたのだ。

 

巨猪スキュラは、その巨躯を震わせ、頭蓋に付随した触腕を大刻みに震わせると、弩天を劈くような咆哮を上げた。

その叫びは、物理的な音波となって周囲の杉の木々をなぎ倒し、那たちの鼓膜を蹂躙する。

 

「…あ、あ、ああ゛あっ!?」

伊藤は、地べたに膝を突き、その圧倒的な「あらわれ」を見上げていた。

自らが夢想し、定義したはずの「けだもの」。

其れが、自分という観測者を拒絶し、一匹の完全なる生命体として世界を破壊し始めている。

 

山を削り、理を噛み砕く。

その巨躯の圧倒的な暴力性を前にして、人間という種の存在理由が、塵のように吹き飛んでいく。

 

其のプロセスを、那はただ、絶望と共に凝視することしかできなかった。

 

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