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地表は、もはや怒号の如く唸り、狂乱の極致に達していた。
天を衝く杉の巨木たちが、目に見えるほどのしなりを伴って悲鳴を上げ、根こそぎ引き剥がされる。
大気が
──蓋脚憤慨獣、スキュラ。
その巨大な四肢、鋼鉄の如き硬度を誇る蹄が地を叩くたび、約数点コンマ秒の間隔で衝撃波が伝播する。
それは単なる震動ではない。
この世界の物理的な基盤そのものを
「……ッ、おい、伊藤さん……!どうなってんだ此れは!ッ、説明しろ!」
凱の声は
だが、問いかけられた伊藤の返答はない。
彼女は、自らが「観測」し、「定義」したはずの怪獣の足元で、ただ呆然と、己の矮小さを噛み締めるように立ち竦んでいた。
その瞳に宿るのは、知的な探求心などではなく、底知れぬ無力感と、裏切られた者特有の混濁した絶望である。
凱はその様子を一瞥し、奥歯を噛み締めた。
これほどの巨躯、これほどの質量が、現実の座標に「居座って」しまったことの異常性。
もはや、警察官としての正義感や一介の人間としての理屈が通用する段階ではないことを、彼は直感的に、そして絶望的に理解していた。
那は、目の前で蠢く巨獣を見上げ、肺が凍りつくような感覚に襲われていた。
夢の中で出会った、あの瞳を持った虚無。
あの「けだもの」と同じ属性を持つ情報の
その事実に、彼の内面は悲鳴を上げ、情理を捨てて逃げ仰せと命じている。
だが──那は、震える手で自らの膝を強く叩いた。
ここで膝を折れば、すべてが終わる。
自分という背景が、この怪獣という巨大な前景に飲み込まれ、世界ごと消滅する。
その
「…伊藤さん…落ち着いて、聞いてください」
那の声は低かったが、不思議と伊藤の鼓膜に届いた。
「此れを止める方法は、ないんですか。対話の余地があると言ったのは、貴方だ。…貴方の信じた極致が、こんな一方的な破壊で終わるなんて、あってはならない。…そうでしょう?」
伊藤は、潤んだ瞳を彷徨わせ、弱々しく首を振った。
「…むり…無理だよ……っ、彼れは、私を見限ったんだ……っ、……『なるがままに』…もう、世界が…そうなることを…望んでいるから…っ」
「そんなわけが…!」
那が声を荒げる。
「そんなわけがない!」
然して、叫んだ。その叫びは、自らの記憶の深淵に眠る、拭い去れない「後悔」の引き金となった。
──脳裏を過る、数年前の光景。
登山中、突如として噴火した火山の、あの熱い灰の匂いと、地表を埋め尽くす
隣を歩いていた友人と、ささいなことで言い争っていた。
互いの意見の相違、一時の意固地。
そんな、どうでもいい数秒の遅滞が、生死の
振り返ったとき、友人は灰の中に掻き消えた。
あのとき、もし自分が一歩早く手を引いていれば。
もしも、つまらない意地を捨てて対話を試みていれば。
…数秒。
たった数秒が、生死を分ける。
たった数秒が、
「伊藤さん、クロッキー帳を出して!」
那は、彼女の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「やだ……見たくない…っ!あの子たちは、もう私の言うことなんて…っ」
「いいから出してください!貴方が定義した世界なら、貴方にしか読めない『解答』がそこにあるはずだ!」
半狂乱の説得に、伊藤は震える手で鞄から、あの使い古されたクロッキー帳を取り出した。那はそれを奪い取るようにして、彼女の前に広げる。
「捲ってください、此の世界への『あらわれ』のプロセスを記述したページを!」
伊藤の指先が、紙の上を彷徨う。
造作もなくめくられる紙の音が、轟音の中で奇妙に際立つ。
ページを捲るにつれ、伊藤の瞳の色が変わった。
「…ない…っ!」
「…どうしました?何がないのですか?」
「…『シーザ』の記述が……消えてる…!私が描いた、あの子の…っ、しゅ、守護の
那は、瞬時に理解した。
スキュラという猛悪な破壊衝動を、現実の理の中に繋ぎ止めていた
其れが、顕現の第一段階だったのだ。
けたたましい轟音は二度、其の場に立っていられない程の揺れを引き起こす。
スキュラは、その巨大な質量で山脈を掻き分け、本格的な侵攻を開始した。
その進路の先には──槻御輿村がある。
「マズいマズいマズい!あんなのが来たら、村なんて一瞬で更地ですよ!…ちょっと、伊藤さん!白旗でも上げますか!?降参すれば許してくれる類のもんですか、此れは!」
オクヤスが、半泣きになりながら叫ぶ。
彼の視線の先で、スキュラの一歩ごとに、古い石造りの祠たちが粉々に砕け散っていく。
「…伊藤さん、教えてください。其れが顕現する条件を」
那は、迫りくる巨躯を凝視したまま問う。
「…血の曼荼羅による…位相の土着。…然して、媒介となる肉体による…『存在の
「…いや、満たしたんですよ。別の方法で」
那の言葉に、伊藤が息を呑む。
「彼れ…仮に
「…此方側に、最も中立的な……友好的な概念生物は、…シーザだった…。でも、あの子はもう…」
「次点は?誰かいないんですか!?まだ貴方の言葉が届く子が!」
「どの子も…っ、どの子もなかなか、言う事を聞いてくれなくて…っ! みんな、怖がってるんだよおっ……彼れを、
那は掌に在る黒い鎖を、一度強く握り締めると――其れを首に巻き付け始めた。
冷たい。
金属の温度ではない、深淵の冷たさ。
だが、この鎖は今、那の脈動と確かに共振している。
「…伊藤さん。曼荼羅と、媒介があれば…書き換え、出来るんですね?」
伊藤は、那の瞳の奥に宿った、ある「決意」を読み取り、微かに頷いた。
――瞬時、彼女は理解する。
目の前にいる、この青年が、今、何をしようとしているのか。
「…まさか、那くん…っ、あなたが……っ」
那は答えない。
彼はゆっくりと、上色見神宮の、逆流する時間に洗われた地面へと膝をついた。
自らの右掌、人差し指を、鋭利な石の角に──ぐじゅり、と。
迷うことなく、深く擦り付けた。
――熱い。
――然して、痛い。
生々しい感触が、脳を突き抜ける。
自分が今、この狂った世界で「生きている」という、憖の実感が、痛覚を伴って全身を駆け巡った。
指先から溢れ出すのは、昨夜の鼻血と同じ、鮮烈な朱。
伊藤の曼荼羅と同じ、深泥の紅。
彼は、自らの血を筆とし、神宮の土の上に、新たな「軌跡」を描き始める。
脳内で想起した、血の曼荼羅の不完全な
中心座点のζを記述したのち、
「…っだ、あ゛っ!」
濁った呻きが喉許から漏れる。――だが、那は筆記を決してやめない。
最後に、曼荼羅下方に座する球体型の暴竜――其の筆記を開始する。
スキュラの突貫が、その巨躯が彼らを押し潰すのが先か。
其れとも、那が、新たな「観測」をこの地に刻みつけるのが先か。
首に巻かれた鎖が、びがり、と、呼応するように鮮烈な、黄金の光を放った。
「…来い…ッ!!」
那は叫びを、眼前の頭蓋に向かって散らした。
指先の鮮血が、勢いを余って頬に飛散する。
「ッ゛!!――どうとでも――ッ゛!!」
那の唇が、自嘲気味に、しかし確かな意志を孕んで動く。
背景として生きることを望んだはずの人間が、今、世界の最前面で、全宇宙を敵に回すかのような冒涜的な「記述」を残そうとしていた。
――其の時であった。
びがり、びがりと、那の首許の鎖が光と熱を帯び。
黄金と白銀の閃光が幾重にも交差し、空間そのものが沸騰する。
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