ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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不都合に未完成

 

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均衡は、依然として薄氷の上に立っていたが――。

 

――突如として、アンの肉体が、電子的なノイズを伴う激しい混濁(スクラム)に襲われる。

其れは、この現世の位相に土着するための整合性が、ついに限界を迎えたことを告げる物理的な悲鳴であった。

茶銀の鱗の隙間から、青白い火花が散り、その体躯がブラウン管テレビの砂嵐のように激しく明滅を繰り返す。

悲鳴にも近いノイズが響いた瞬時、那の腕に、ちかちかと鋭い痺れが走り始めた。

 

「──っ゛!? くぁ゛、あ゛…ッ゛!」

指先の傷口から、何らかの高電圧が逆流してきたかのような衝撃。

那は、右腕を抑えて地面にのめり込んだ。

 

「…っ、ふ、那くん!も、もうっ…限界でしょうっ…!?」

伊藤が、膝をつく那の肩を掴む。

彼女の目には、那の腕を這う血管が、黒く変色して浮き上がっているのが見えていた。

鉛の針を掌に刺すかの如きの鈍い痛みが、やがて手首、肘、そして肩甲にまで一本の線となって通じてくる。

那は、視界がチカチカと明滅する中で、己の肉体がアンという巨大な情報の(うつわ)を維持するための導線として、今まさに焼き切られようとしていることを自覚した。

 

「…っ、ふ、不完全なのは明白です…そ、其れも…自分を媒介にしたのだから…っ、そう、長くはもたないと…わかって、いて…」

那の言葉は、歯を食いしばる振動で細かく震えていた。

「砂座間さん! なんでそんな無茶振りを……ッ!」

凱が背後から、張り裂けんばかりの怒声を上げる。

それは、目の前の非現実的な光景に対する憤りであると同時に、自らの命を投げ出すような真似をした那への、剥き出しの心配であった。

 

那は、痺れで感覚の完全に鈍くなっていく右手を、泥に塗れた地に押し付けて呟いた。

「…怖かった、んです」

「…っ」

「二度、失うのが」

その言葉には、かつて灰の中に消えた友人の記憶が、重い沈殿物となって付着していた。

もう二度と、自分の目の前で誰かが「背景」に呑み込まれて消えていくのを見たくはなかった。

そのために払う代償が、自らの腕一本、あるいは命そのものであったとしても。

 

アンの肉体──尾の先端から、崩壊する肉体の微粒子と共に、僅かずつ消えかかっていく。

実体としての密度を失い、透き通り始めたアンの姿を、スキュラは好機とばかりに視認した。

 

巨猪は、傷ついた触腕を振り回し、地を穿つ勢いで再度の突進を加えた。

 

然して、軟体動物の如き頭蓋の底、粘膜の奥に隠されていた鴉鳶(からすとんび)状の顎を突出させると、無防備になったアンの喉元に、深い牙を喰い込ませた。

 

アンが驚嘆の叫びを上げ、天を仰ぎ見た。

その首筋からは、現世の生物のものとは異なる、発光する体液が噴き出す。

 

「あ…アンちゃんっ!!」

伊藤が悲痛な声を漏らした。

彼女は、もはや自分の制止さえ忘れたかのように、アンの方へと駆け寄ろうと足を踏み出す。

しかし、那は残った左手で彼女の裾を強く掴み、その場に留めさせた。

「…恐らく、ですが」

「ふ、那くん…っ」

「彼は、このまま…スキュラごと、自らの肉体を元の鞘に、戻そうと…しているんです」

那の指摘通り、アンはスキュラの猛攻を逃れようとはしなかった。

それどころか、アンは自らの前肢をスキュラの巨躯に深く回し始め、引き寄せるように抱き寄せる。

スキュラの喰らいついたアンの喉仏から、確かな血の赤が滲み出ている。

しかし、ぼたり、ぼたりと零れ落ちるその血液は、地面に届く前に、光り輝く微粒子となって消失していく。

 

アンの身体を蝕む崩壊の現象作用は、接触しているスキュラの肉体にも、感染するようにして伝播を始めた。

スキュラの鐡色の皮膚が、アンの表面を走る電子的なノイズに侵食され、一箇所、また一箇所と、構成粒子(ピクセル)となって剥がれ落ちていく。

 

不完全な顕現を果たしたアンに起こった肉体顕現のタイムリミットが、同じく不完全な状態で土着しようとしたスキュラを、無理やり「第零次元」の側へと引き戻そうとしている。

この世界に異常な重力と時間逆行をもたらした、二つの巨大な情報の塊が、互いを相殺しながら消滅していく過程。

 

二頭の怪獣を包み込む光は、やがて視界を塗り潰すほどの白光へと膨れ上がる。

スキュラの『怒』の咆哮も、アンの『暴』の猛りも、激しい耳鳴りの中に溶けていく。

 

那は、遠のいていく意識。

首に巻かれた鎖が冷たく、そして軽くなっていくのを感じる。

神宮を覆っていたあの不気味な空圧が、霧が晴れるように霧散していく。

 

然して、最後の一閃。

 

爆発的な光が収束したとき、そこには、ただ静まり返った神宮の境内の風景だけが残されていた。

二頭の巨躯は、最初から存在しなかったかのように、一片の肉片も残さず消え去っていた。

 

残されたのは、荒れ果てた石畳と、崩れた灯篭。

山岳に出来たクレーターと、薙ぎ倒された針葉樹達。

然して、息を絶え絶えにしながら横たわる、四人の人間だけであった。

 

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