ζ(Zeta)   作:AllZ:M

26 / 36
怪奇なり此の男

 

---

 

山嶺を呑み込んだ爆音と光の狂宴が嘘のように、御輿庵 灯(みこしあん ふぁろ)の周囲には、湿り気を帯びた平穏が横たわっていた。

 

だが、その平穏は、ある一人の男の来訪によって、薄氷のような危うさを孕み始めている。

――玄関先に佇む其の男は、着古した白衣の裾を夜風に躍らせ、焦点の定まらない虚ろな瞳で庵の奥を凝視していた。

 

「…先日の地震と噴火があっては、職場泊まりも大概ですからね。流石の私とて、観測機器の電子音に子守唄(アラプウパラ)を歌わせ寛ぐ生活には、いささか飽きがきてしまいましてね…うん」

独特の粘り気を帯びた口調。

語尾に必ず付け足される、うん、という確信めいた呟きは、彼が自分自身の思考をその都度、独自の論理で肯定している証左のように聞こえた。

 

主である白河御は、男の放つ異質な空気に、肌が粟立つのを抑えきれなかった。

宿泊の手続きを交わしながらも、その指先は僅かに震えている。

 

「ウチの究員達はね…物事を平面的な感覚で捉え込み過ぎていまして。要すると、頭が硬すぎるんですね…うん」

男は、次々と言葉を紡いでいく。

「目に見える波形、数値化されたエネルギー、彼らにとっての世界は…そんな、薄っぺらな情報の積み重ねでしか構成されていない…そう思いませんか、御主人…うん」

「…其の身嗜み、確かに立派な学者様のようですものね」

「地場波形を…地震の観測をしていましてね」

「私のような者には、難しいことは分かりかねますが…」

白河御は、努めて事務的な微笑を返そうとする。

だが、男は彼女の反応など端から期待していないかのように、視線を天井の梁へと移し、独白を続けた。

 

「此の不可思議を解き明かすには、時に世態から考証をずらしてみる事も大事なのですよ、うん。断続的に別の地点で地震が発生するのではなく、震源そのものが地下を『移動』する…そんな地質学の常識を嘲笑う現象が、今この槻御輿の地下で脈動している…」

「…はあ、地震…ですか」

「其の言論を、旧式的な科学に基づいた言論で封殺を豪語、ときました。非科学的なアプローチがお嫌いな部下を持っては、私も、己の正気を証明する術を持たない。実に嘆かわしい…うん。彼らは幽霊(ゴースタン)を見ても、それを網膜のバグだと切り捨てる。…私は違う。バグを発生させた背景にある『記述』の方を疑うのですよ」

 

白河御は、宿泊者であるはずのこの男に対し、並々ならぬ、生理的な拒絶に近い疑念を感じ始めていた。

彼が語っているのは科学ではなく、かといって純粋なオカルトでもない。

もっと別の、世界の裏側にある皮膚の下を、執拗に抉り取ろうとする狂気的な執着だ。

 

「要するに、科学の立証だけでは成り立たない世界構造が存在すると、私は踏んでいるのです…うん。私の考える、九の階層構造、或いは高次の位相…この村には、それらが現世と『縫い合わされた』痕跡がある。私は此の仕事を経て、其方のアプローチも探したいと思いましてね、うん」

男の瞳が、僅かに細められる。その奥に宿ったのは、知識欲という名の羅刹の輝きだった。

「…で、では、御部屋をご案内致しますので。お荷物をお持ちしましょうか」

耐えかねた白河御が、話を打ち切るように促す。

だが、男はその場を一歩も動かず、首を僅かに傾げて彼女の顔を覗き込んだ。

「…部屋の広さなどどうでもいい。…それよりも、『セリザワ』の書物は此処にあるのだろう?」

その名は、かつて那たちが手にした――あの禁忌の筆致の主。

白河御の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。

この男は、単なる避難者でも、迷い込んだ学者でもない。

最初から、那たちの辿った「血の跡」を正確に追跡してきている。

 

那たちが不在の庵に、不完全な「観測者」が足を踏み入れようとしていた。

 

男――乱堂好景(らんどう よしかげ)の口角が、暗がりのなかで歪に吊り上がる。

「…隠さなくていい。あの情報の残滓は、同じ匂いを持つ者にしか嗅ぎ取れないものだからね…うん」

 

白河御の制止を待たず、乱堂は土足に近い無遠慮な足取りで、庵の奥へと踏み込んだ。

「…勝手に入られては困ります!其処は……っ」

「…うん。遠慮は無用ですよ。私は客としてここに居る。客が自分の居場所を最適化するのは、至極当然の権利だ。そう思いませんか…うん」

乱堂は白河御の言葉を、まるで路傍の石が立てる音のように聞き流し、その鋭い視線を室内へと走らせた。

彼が求めているのは、安らぎでも、もてなしでもない。この古びた庵の、湿った空気に溶け込んだ「過去の記述」の断片だ。

 

彼は廊下の突き当たりにある古い書棚の前で足を止めると、細長い指を泳がせた。背表紙の題名をなぞる動作は、まるで鍵盤を叩くピアニストのような、ある種の法悦(ほうえつ)さえ孕んでいる。

 

「…あった。これだ、うん。時代錯誤な装丁だが、放っている情報の密度が他とは違う。事前に調べた情報と一致する…」

乱堂が手に取ったのは、那たちが必死に紐解こうとしていた禁忌の書──『槻御輿縁記残録(つきみこしえんきざんろく)』であった。

「…やめてください!それは…」

「…禁忌…うん、いい響きだ。科学者が最も愛する言葉だね。何故なら、其処には『隠さねばならぬ真実』が記述されているからだ…うん」

 

乱堂は半ば強引に、その古びた和綴じの書物を開いた。

紙が擦れる乾いた音が、静まり返った庵に不吉に響く。

彼の瞳は、頁を捲るごとに異様な熱を帯び、白衣の下の肩が微かに震え始めた。

「…素晴らしい。芹沢という男は、実に忠実に『観測』を行っている。地質の変動を、神の怒りではなく、高次存在による位相の上書きとして正しく記述している。…うん、この計算式。震源の移動ではなく、世界の座標そのものの再定義(リライト)だ」

乱堂は、頁に記された血痕や、判別もつかないほどに乱れた幾何学模様を、飢えた獣が肉を食らうかのような勢いで読み耽っていく。

 

「…第零次元からの突出、階層分岐的背鰭(ドォサルフィン)構造。…うん、成程。此れなら辻褄が合う。私の研究室で弾き出された『あり得ない波形』の正体は、此の書物に描かれた、高次存在の公理そのものだったわけだ…うん」

白河御は、その光景をただ震えながら見つめることしかできなかった。

 

男の白衣の袖が、書の頁に触れる。

その指先が、芹沢の狂気に触れる。

科学という牙を持った羅刹が、村の秘匿を食い破っていく。

 

「…面白い、じつに…特に、此の…曼荼羅模様」

乱堂は満足げに、しかし一度も顔を上げることなく、深い笑みを漏らした。

「…九層から其れが来るならば、此の曼荼羅と同じものが…座標点(ウィークポイント)がある筈だ…うん。私も、少しばかり『観測』の立ち位置を変えねばならないようだ」

 

外では、嵐の前の静けさが続いている。

だが、庵の内部では、一人の狂気によって、那たちが命懸けで持ち帰ろうとしている「答え」が、音を立てて解体され始めていた。

 

---

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。