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山嶺を呑み込んだ爆音と光の狂宴が嘘のように、
だが、その平穏は、ある一人の男の来訪によって、薄氷のような危うさを孕み始めている。
――玄関先に佇む其の男は、着古した白衣の裾を夜風に躍らせ、焦点の定まらない虚ろな瞳で庵の奥を凝視していた。
「…先日の地震と噴火があっては、職場泊まりも大概ですからね。流石の私とて、観測機器の電子音に
独特の粘り気を帯びた口調。
語尾に必ず付け足される、うん、という確信めいた呟きは、彼が自分自身の思考をその都度、独自の論理で肯定している証左のように聞こえた。
主である白河御は、男の放つ異質な空気に、肌が粟立つのを抑えきれなかった。
宿泊の手続きを交わしながらも、その指先は僅かに震えている。
「ウチの究員達はね…物事を平面的な感覚で捉え込み過ぎていまして。要すると、頭が硬すぎるんですね…うん」
男は、次々と言葉を紡いでいく。
「目に見える波形、数値化されたエネルギー、彼らにとっての世界は…そんな、薄っぺらな情報の積み重ねでしか構成されていない…そう思いませんか、御主人…うん」
「…其の身嗜み、確かに立派な学者様のようですものね」
「地場波形を…地震の観測をしていましてね」
「私のような者には、難しいことは分かりかねますが…」
白河御は、努めて事務的な微笑を返そうとする。
だが、男は彼女の反応など端から期待していないかのように、視線を天井の梁へと移し、独白を続けた。
「此の不可思議を解き明かすには、時に世態から考証をずらしてみる事も大事なのですよ、うん。断続的に別の地点で地震が発生するのではなく、震源そのものが地下を『移動』する…そんな地質学の常識を嘲笑う現象が、今この槻御輿の地下で脈動している…」
「…はあ、地震…ですか」
「其の言論を、旧式的な科学に基づいた言論で封殺を豪語、ときました。非科学的なアプローチがお嫌いな部下を持っては、私も、己の正気を証明する術を持たない。実に嘆かわしい…うん。彼らは
白河御は、宿泊者であるはずのこの男に対し、並々ならぬ、生理的な拒絶に近い疑念を感じ始めていた。
彼が語っているのは科学ではなく、かといって純粋なオカルトでもない。
もっと別の、世界の裏側にある皮膚の下を、執拗に抉り取ろうとする狂気的な執着だ。
「要するに、科学の立証だけでは成り立たない世界構造が存在すると、私は踏んでいるのです…うん。私の考える、九の階層構造、或いは高次の位相…この村には、それらが現世と『縫い合わされた』痕跡がある。私は此の仕事を経て、其方のアプローチも探したいと思いましてね、うん」
男の瞳が、僅かに細められる。その奥に宿ったのは、知識欲という名の羅刹の輝きだった。
「…で、では、御部屋をご案内致しますので。お荷物をお持ちしましょうか」
耐えかねた白河御が、話を打ち切るように促す。
だが、男はその場を一歩も動かず、首を僅かに傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
「…部屋の広さなどどうでもいい。…それよりも、『セリザワ』の書物は此処にあるのだろう?」
その名は、かつて那たちが手にした――あの禁忌の筆致の主。
白河御の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
この男は、単なる避難者でも、迷い込んだ学者でもない。
最初から、那たちの辿った「血の跡」を正確に追跡してきている。
那たちが不在の庵に、不完全な「観測者」が足を踏み入れようとしていた。
男――
「…隠さなくていい。あの情報の残滓は、同じ匂いを持つ者にしか嗅ぎ取れないものだからね…うん」
白河御の制止を待たず、乱堂は土足に近い無遠慮な足取りで、庵の奥へと踏み込んだ。
「…勝手に入られては困ります!其処は……っ」
「…うん。遠慮は無用ですよ。私は客としてここに居る。客が自分の居場所を最適化するのは、至極当然の権利だ。そう思いませんか…うん」
乱堂は白河御の言葉を、まるで路傍の石が立てる音のように聞き流し、その鋭い視線を室内へと走らせた。
彼が求めているのは、安らぎでも、もてなしでもない。この古びた庵の、湿った空気に溶け込んだ「過去の記述」の断片だ。
彼は廊下の突き当たりにある古い書棚の前で足を止めると、細長い指を泳がせた。背表紙の題名をなぞる動作は、まるで鍵盤を叩くピアニストのような、ある種の
「…あった。これだ、うん。時代錯誤な装丁だが、放っている情報の密度が他とは違う。事前に調べた情報と一致する…」
乱堂が手に取ったのは、那たちが必死に紐解こうとしていた禁忌の書──『
「…やめてください!それは…」
「…禁忌…うん、いい響きだ。科学者が最も愛する言葉だね。何故なら、其処には『隠さねばならぬ真実』が記述されているからだ…うん」
乱堂は半ば強引に、その古びた和綴じの書物を開いた。
紙が擦れる乾いた音が、静まり返った庵に不吉に響く。
彼の瞳は、頁を捲るごとに異様な熱を帯び、白衣の下の肩が微かに震え始めた。
「…素晴らしい。芹沢という男は、実に忠実に『観測』を行っている。地質の変動を、神の怒りではなく、高次存在による位相の上書きとして正しく記述している。…うん、この計算式。震源の移動ではなく、世界の座標そのものの
乱堂は、頁に記された血痕や、判別もつかないほどに乱れた幾何学模様を、飢えた獣が肉を食らうかのような勢いで読み耽っていく。
「…第零次元からの突出、
白河御は、その光景をただ震えながら見つめることしかできなかった。
男の白衣の袖が、書の頁に触れる。
その指先が、芹沢の狂気に触れる。
科学という牙を持った羅刹が、村の秘匿を食い破っていく。
「…面白い、じつに…特に、此の…曼荼羅模様」
乱堂は満足げに、しかし一度も顔を上げることなく、深い笑みを漏らした。
「…九層から其れが来るならば、此の曼荼羅と同じものが…
外では、嵐の前の静けさが続いている。
だが、庵の内部では、一人の狂気によって、那たちが命懸けで持ち帰ろうとしている「答え」が、音を立てて解体され始めていた。
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