ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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(くれ)爾来(じらい)()羅刹(らせつ)
理を乱す


 

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車を降りた那の足元は、もはや自立を維持するのも危ういほどに虚脱(きょだつ)していた。

 

四駆の車体は、上色見神宮から脱出する際の衝撃や、時間を逆流する物理的負荷によって、至る所が不自然に歪み、泥と油に塗れている。

助手席から這い出した那の右腕は、先ほどのアンとの接続の代償として、指先から肩口にかけて浅黒い変色を伴う(しびれ)に支配されていた。

 

凱がオクヤスを抱え、最後尾を歩く伊藤は、その瞳に「けだもの」の残影を宿したまま、深い沈黙を保っている。

御輿庵 灯の玄関を潜った瞬間、那の鼻腔を突いたのは、山嶺の冷気ではなく、アルコール消毒液と、使い古された電子機器の排熱が混ざり合った、この場に相応しくない異質な臭気だった。

 

板間の奥、行灯の薄暗い光の中に、其の男は居た。

白衣を纏い、姿勢を崩すことなく座卓に向かっている後ろ姿。

その周囲には、本来この庵にあるべきではないノートパソコンが拡げられている。

 

男──乱堂好景は、一行の帰還を音で察していながら、すぐには振り返らなかった。

彼はただ、手許に広げた『槻御輿縁記残録(つきみこしえんきざんろく)』の頁を、愛おしむように指先でなぞり続けている。

 

「…ご帰郷、だね。高次に導かれし申し子達」

粘り気のある声が、静まり返った板間に落ちる。

 

乱堂がゆっくりと身体を転換させると、その焦点の定まらない、しかし底知れぬ情報の渇望を湛えた瞳が、那を、然して彼の首に巻かれた黒い鎖を捉えた。

那は、本能的な防衛本能から一歩、後退した。

この男からは、あの巨大な怪獣たちとはまた質の異なる、しかし同じほどに救いのない「飢え」が溢れ出している。

 

「…誰だ」

凱が那の前に出ようとするが、乱堂はそれを視線だけで制した。

「乱堂好景。…うん、肩書きなど今の状況では何の意味もなさないが、強いて言えばね、君たちが今しがた『神話』とする現象を、なるだけ納め納めに勤しみ足掻いている愚者の一人ですよ、うん」

 

乱堂は、座卓の上の古い手記を叩いた。

「この芹沢という男の記述は、実に見事だ。彼は、其れらを単なる生物学的存在ではなく、高次次元からの物理的な上書き(リライト)の結果であると看破し、其れを封じる為の画策として、鎖を造り上げた。…震源が移動するのではない。世界を構成する公理そのものが、別の公理に浸食されているのだ…うん」

乱堂は、手記の特定の頁を開き、そこにある幾何学図形を指し示す。

「本日、僅かに地鳴りが聴こえたのを憶えている。恐らく、芹沢の記述にある大戸・上色見…此の地点の座標が一時的に第零次元へと接続されたことを示唆している。…うん。君たちは、外的公理への対処として、此処にある曼荼羅の記述を、自らの血を以て現世に『定着』させようとしたと」

 

「…違う」

那は、震える声で否定した。

だが、その否定を理論立てて説明する言葉を、彼は持っていなかった。

「理論とか、座標とか…そんなものじゃない。あれは、もっと」

「言語化できない主観はノイズでしかないよね、うん」

乱堂の口調は穏やかだったが、そこには一切の妥協を許さない拒絶がある。

「君の肉体が負ったその損傷、然してその首に巻かれた、明らかにこの宇宙の元素構成に基づかない鎖。…其れら全てが、私の理論を補完する『データ』だ。君が何を思い、何を感じたかは重要ではない。重要なのは、何が起こったかという結果だけだ…うん」

 

其の時、それまで那の影に隠れるようにしていた伊藤が、一歩、前へ踏み出した。

彼女の瞳は、乱堂の眼鏡越しに見る合理的な瞳を、真っ向から見据えた。

「…あ、貴方は…何も、見ていないっ」

伊藤の声は、静かだが鋭利だ。

「…私達は…っ、彼処の一件で…彼れに対する、より確実な対策と…っ、対話の余地をっ…!」

乱堂は、僅かに眉を動かす。苛立ちは見せない。

だが、その眼光はさらに深く、鋭く変質していく。

彼は伊藤の言葉を否定せず、しかし一歩も引くことはなかった。

「…だが、高次の其の…彼れ、とやらが世界を圧殺しようとしている、と。私はね、正直…其れが見てみたい、のだとね」

 

乱堂は突如として立ち上がった。

その動作は、那の感覚を麻痺させるほどの速さと、不遜なまでの確信に満ちている。

「…待て、乱堂…ッ!」

 

凱が制止の手を伸ばす。

それよりも早く、乱堂の手は那の首許へと伸びていた。

 

拒絶する暇もない。

乱堂の指先が、那の皮膚と、そこに食い込んでいる黒い鎖に直接触れた。

 

──刹那。

那の脳裏に、凄まじい衝撃が走った。

それは、アンとの接続の際に感じたものとは似て非なる、冷徹な「情報の逆流」。

乱堂という人間のフィルターを通した、歪んだ理解。

 

世界が、数式と幾何学情報の格子状に分解され、その網目に怪獣という巨大なノイズが絡みついている光景。

乱堂の指を通じて、那の記憶の一部が、スキュラの咆哮やアンの鎧の硬度が、断片的な理解として男の脳内へと流出していく。

 

乱堂の身体が、一瞬、激しく硬直した。

彼の虚ろだった瞳に、かつてないほどの激しい光が宿る。

 

それは、未知の真理の端を掴んだ者だけが抱く、歪んだ「飢え」への変質であった。

「……ああ、成程。…うん…之か……之が、九層…其の最深の触覚か」

乱堂はゆっくりと手を離す。

彼の意識は、今や那という個人を通り越し、その背後に広がる、情報の深淵へと完全に向けられている。

 

「那君…君は、素晴らしい器だ…うん…だが、不十分。…極めて、不十分だ」

乱堂は再び『槻御輿縁記残録(つきみこしえんきざんろく)』の頁を乱暴に捲り、ある一箇所を力任せに叩いた。

「此の文書の記述にある曼荼羅。…その中心にあるゴラス・データの結節点、…うん、其の存在を、私はこの目で直接確かめなければならない。之と似た血の曼荼羅が、今この瞬間も村で『脈動』している」

那は、呼吸が止まるのを感じた。

この男は、伊藤が描いた曼荼羅の所在までも、既に突き止めているのか。

 

「…何をするつもりです」

「…うん。簡単なことだ…その曼荼羅を『励起』させる。…君たちが意図せずに引き起こした顕現を、私はコントロールされた環境下で、完全に再定義する。…ζの正体を、白日の下に曝け出すのですよ、うん」

「…ッ!?」

伊藤が喘鳴を漏らす。

「…や、やめなさい…っ、其れだけは!」

乱堂は、周囲の困惑と伊藤の怒声を完全に無視し、自らの電子機器を鞄へと詰め込み始めた。

その動作は、もはや迷いのない、冷徹な意思決定に裏打ちされていた。

 

「白河御主人、宿泊代金は置いていく…うん。砂座間君、君も何れ、呼び寄せられて…其処に、来るだろうともね」

男の白衣が闇に翻る。

那たちは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

神宮での戦いは、終わりの合図に過ぎない。

夜の冷気が、再び庵の中に流れ込んでくる。

 

那の右腕の痛みは、新たな惨劇の予兆を告げるように、より一層強く、鋭く拍動し始めた。

 

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