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乱堂好景が夜の闇へと消えたのち、
那は、先ほどまで乱堂の指が触れていた自らの首筋を、麻痺した右手の代わりに左手で強く押さえ付けていた。
男の指先から伝わってきた、あの冷徹な「世界の解体図」の残影が、いまだに網膜の裏側で明滅している。
其れは、那が大切に抱えてきた恐怖や実感を、ただの変数へと置き換えていく冒涜的な感触であった。
「…あの男は、何を、しようとしているんだ」
那の独白は、誰に聞かせるでもなく虚空に霧散した。
伊藤は、那の傍らに膝をつくと、彼が握りしめる鎖──今は静かに沈黙している黒い鉄の束を見つめ、微かに唇を震わせた。
「…此の鎖は…っ、自らの命を削ってでも、後世にまで託したいと、先代があの場所に結びつけたものです…っ、彼れの…ζの暴発を止められる、唯一の鍵になる…筈なんですっ」
「…あの男は、アンタさんが指で描いた例の…とどのつまり、今すぐウチの派出所前に向かう手筈だと言っていた」
凱が、重苦しい空気を切り裂くように問いを重ねた。
彼は警察官としての本能で、乱堂という存在がもたらすであろう「二次災害」を、誰よりも早く察知していた。
「…あの人は…自分だけの、独自に解釈した論理に、酔っているようなものです…っ、科学という言葉で飾ってはいても、その実、自分の見たい結論だけを、この世界に強要しようとしている…だけ」
伊藤の言葉は、乱堂への明確な拒絶を孕んでいた。
彼女にとっての「けだもの」は、畏怖すべき対話の対象であったが、乱堂にとっては、ただの証明すべき数式に過ぎないのだ。
「…独自的な論理」
那は思案した。
乱堂が那の記憶から引き出した断片。
あの男は、那が血で描いた曼荼羅を、単なる絵ではなく、次元を穿つための「回路」として認識していた。
「…ですが、僕たちも向かう必要がある気がするんです。…いえ、向かわなきゃいけない。…伊藤さん、そうですよね?」
那が真っ直ぐに伊藤を見据えると、彼女は大きく一度、呼吸を整えた。
「…そうですね…っ。上色見神宮で、彼が…ζが、私との対話を切ってから、既に数刻が経ちます…っ、お、恐らく…スキュラと同じ事が彼れに出来るなら…っ、其の時、あらわれの刻は…っ、き、きっと、もう、差し迫っている…っ、だ、だから…っ」
「二言はないですよ」
それまで黙って様子を伺っていたオクヤスが、重い荷物を居間の隅に下げ、決然とした足取りで白河御の前に立った。
「…此処に、必ず戻ってきます。…だから、少しだけ待っていてください」
白河御は何も言わず、ただ深く、深く頷首した。
彼女にはもう、この若者たちが背負わされた運命を止める術がないことを理解していた。
凱は、静養地点に舞い戻って直ぐさまに、世界の平和を護らねばならぬという、警察官としての、あるいは一人の大人としての重圧を感じていた。
彼は那の肩を叩き、低く、しかし確かな声で告げる。
「…もう、次はあんな無茶はするな。…アンタの腕がどうなろうと、俺は責任を取ってやれねえんだぞ」
那は、右腕の激痛を押し殺し、僅かに唇の端を吊り上げた。
「…場合によりますがね」
苦笑を浮かべた那の表情。
其れは、これまで感情を殺して「背景」に徹していた彼が見せた、初めての、人間らしい、そしてあまりにも脆い発露であった。
其の表情を見て、伊藤は何処か胸の奥を突かれたような、複雑な色を瞳に浮かべた。
だが、彼女はそれを言葉にすることなく、自らのクロッキー帳と鉛筆、そして三本の鎖を、命を繋ぐ糸のように抱え直した。
「…行きましょう。…夜が明ける前に、終わらせるために」
一行は、再び庵の外へと歩を進めた。
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一方、乱堂好景は、月明かりさえも届かない暗い畦道を、軽快な足取りで進んでいた。
彼は、曼荼羅を始点として発生している「時間の遡り」─物理定数の僅かな乱れを、独自に改造した観測器で感知しながら、河川の縁を辿っていた。
川の水は、上流へと向かって微かな波紋を立て、夜の静寂を乱している。
乱堂はそれを見るたびに、悦悦とした笑みを漏らした。
「…うん、いいね…因果の逆流、…
暫くの散策ののち、彼は目的の場所──松中派出所付近へと辿り着いた。
かつて伊藤が、そして那が、己の血を捧げて描き出したあの曼荼羅が刻まれたアスファルト。
乱堂が、その場所を視認しようとライトを向けた、其の時であった。
「―――は?」
乱堂の口から、珍しく困惑を孕んだ声が漏れた。
派出所前の空間は、もはやアスファルトの黒を認識できないほどに、「何か」で埋め尽くされていた。
其処にあったのは──。
鐡色の極彩色を纏った、「
蛾たちは、血の曼荼羅から溢れ出す情報を餌にするかのように、不気味な脈動を繰り返している。
一匹一匹の翅が立てる、金属的な摩擦音。
其れは、もはや自然界の生態系を逸脱し、高次存在が作り出した「独自の生態系」が、この現世に定着してしまったことを示していた。
曼荼羅はもはや、単なる回路ではない。
この世界に異界の種を蒔くための、温床へと変貌していたのだ。
「…御大様ってば」
乱堂が興奮を隠せず、不用意に一歩を踏み出した瞬間。
コロニーを形成していた鐡の蛾達が、一斉に、其の場の侵入者の存在を、数百の紅色に輝く「瞳」で視認した。
――びがり、びがり。
静寂を裂いて、チェレンコフ光の閃光が幾重にも走る。
蛾たちは一斉に翅を羽ばたかせ、乱堂という「観測者」を排除すべく、夜の空へと舞い上がった。
死を告げる青い火花。
其れが、派出所を、そして乱堂の白衣を、無慈悲に照らし始めた。
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