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派出所前の十字路は、夜の静寂を焼き切るような蒼白の閃光に包まれていた。
数百の鐡の蛾が羽ばたくたび、空間は電子レンジにかけられたかのように
「なんだ…ありゃあ」
凱が驚嘆の声を漏らす。
那たちが現場に辿り着いたとき、目に入ったのは、かつての傲慢な学者の成れの果てだった。
乱堂好景の白衣はボロ布のように引き裂かれ、露出した皮膚は『ちぇれんこふ』によって、内側から発光するかのように爛れている。
右脚は不自然な角度で折れ、彼は自らの血で描かれた曼荼羅の上に、文字通り「死に体」で転がっていた。
「…っ」
乱堂はもはや、首を動かすことさえ叶わない。
蛾のコロニーは、獲物の生命活動が停止段階に入ったことを察知したのか、あるいは那の持つ「鎖」の圧力に気圧されたのか、不気味な旋回を続けながらも一時的な静寂を保った。
伊藤が、震える足取りで乱堂の傍らに膝をつく。
「…なんで、こんな…無茶な解析を」
乱堂は、血の混じった泡を口端から溢れさせながら、僅かに、本当に僅かに口角を吊り上げた。
その瞳は、既に此の世の光を捉えてはいない。
代わりに、彼が見つめているのは、網膜の裏側に焼き付いた、真理の断片。
「…彼れは私が来ずとも…ッ、遅かれ、早かれ…此処に、あらわれていた」
男の掠れた声は、まるで地獄の底から響く通奏低音の様で。
「…之は……ζは、『ふたたび生きること』を望んでいる…うん。死を…時間の逆流によって、無効化し…此の世界という『器』への受精を望んでいる」
乱堂の残った左手が、泥と血に塗れたまま、那の首元で鈍く光る鎖を指差そうとして力なく落ちた。
「…一方的に選ばれた人間、自ら破滅を望んだヒト、死に体のホモ・サピエンスに、何が出来るか、其れを…三途の河辺から傍聴させてもらうよ」
其れは、救いでも助言でもない。
自らの探究心の果てに破滅した男が、生き残った者たちに遺した、呪いにも似た「言霊」。
知ってしまったという事実は、もはや無知という安寧には戻れないことを意味する。
乱堂は、自分が踏み越えてしまった一線を、那と伊藤の魂に強引に刻みつけたのだ。
「…嗚呼、計算通りだ…」
「ッ!?」
そう言うと、かれの肉体は、物理的な質量を維持することを唐突に放棄した。
彼の傷口から溢れ出していた鮮血が、一瞬にして青白いリン光へと変貌する。
肉が、骨が、白衣の繊維が、現実の位相から
後に残されたのは、男の形に焼け焦げたアスファルト。
那は、右腕の痺れが一段と強くなるのを感じながら、乱堂が消えた空白を凝視した。
或い意味での、思想的な敵対者であり、何より出会った許りの存在の消滅。
本格的な「あらわれ」の刻が、一秒の猶予もなく迫っていることを告げる号砲に他ならない。
鐡の蛾たちが、再び羽音を高く響かせ始める。
曼荼羅の中心が、乱堂の死という「情報の供物」を得て、どす黒い拍動を一段と激しくした。
伊藤の喉から、空気そのものが引き千切られたかのような音が漏れた。
かつて彼女が、孤独の中で、あるいは熱病のような創作的衝動の果てに、無垢な指先でかなぐりだしたはずの
其れが今、ひとりの人間の命を無慈悲に「殺めた」という事実。
その重みが、現世の物理的質量を超えた
那は、右腕を苛む痺れを殺し、鎖を握る拳を白く染めながら、伊藤の肩を強く抱き寄せる。
乱堂の遺した「呪い」が、肺の奥底で消えない残り火となって燻っている。
死に体のホモ・サピエンスに、何ができるか。
その問いへの回答を模索するための時間は、砂時計の最後の一粒が落ちるのを待つまでもなく、既に潰えていた。
「…っ、だ、あ゛ぁっ…!」
伊藤の喘鳴は、那の腕の中で激しさを増していく。
彼女の脳裏を埋め尽くしているのは、自らが「観測」し、「定義」してしまった情報の曼荼羅が、他ならぬ乱堂という個体の存在そのものを情報の海へと融解させ、抹消したという戦慄だ。
彼女の指先が、空を掻くように彷徨う。
「ふ、那…くん…、…曼荼羅が…、乾いて、る…っ」
彼女の声は、湿り気を失っている。
那が「しっかりしてください」と促そうとした、その刹那。
再び、世界が、その骨組みから軋み始めた。
派出所周辺を埋め尽くしていた鐡の蛾の大群が、申し合わせたかのように一斉に空中に離散する。
其れらは羽撃く毎に、その銀灰色の肉体を中空へと溶かし込み、あたかも最初から存在しなかったかのように、背景へと透過していく。
──来る。
那の直感が、警鐘を乱打した。
瞬間、地鳴り。
其れは、あの忌まわしき日。
山が火を噴き、友人の存在が世界から消え去った、あの日の震動と同じ周波数を持っていた。
那の脳裏に、降り注ぐ灰。
二度と繋がることのなかった手の感触。
瞬時、以前に伊藤が予言した『あらわれ』の地点──曼荼羅の心臓部から、鋭く、けたたましい、大気を引き裂くような爆発音が走る。
直後、曼荼羅を中心とした半径数メートルの空間が、不自然なほど「白く」塗り潰された。
物質そのものが、この宇宙の原子・分子レベルの結合を拒絶し、強制的に解離され、プラズマ化していく現象。
乱堂好景の肉体があった地点の地面、彼を包んでいた重苦しい空気、足元のアスファルトの路面。そのすべてが一瞬にしてイオンと電子の雲へと変じ、青白い光が奔流となって周囲を薙ぎ払った。
現象は、瞬きの間に終息する。
光が収束したとき、乱堂が立っていた場所には、何も残されていなかった。
いや、正確には、直径数メートル、深さ数十センチの「半球状の窪み」が、抉り取られたように存在していた。
窪みの表面は、極限の熱量によってガラス質に溶けて固化し、鏡のように月光を跳ね返している。
局所的に発生した数千度の高温は、この場所の「存在理由」を根底から消し去っていた。
一瞬の、耳を劈くような静寂。
「……あ…」
オクヤスが、魂の抜けたような声を漏らす。
次の瞬間、絶叫が、夜の帳を切り裂いた。
「あ゛あ゛あああッ!!!?」
伊藤が、自らの右腕を抱えて膝をついた。
彼女の腕から首にかけて、衣服が焼け焦げ、剥き出しになった皮膚が禍々しい赤色に腫れ上がっている。
乱堂が「蒸発」した際に放射された高エネルギーの余波か、あるいは何らかの粒子が、彼女の肉体を直接的に侵食したのか。
「…っ、ッ゛あ、ああ…っ!」
激痛に顔を歪める彼女の呼吸は、もはや正常なリズムを失っていた。
吃りが酷くなり、必死に紡ごうとする言葉は、意味を成さない音の断片となって零れ落ちる。
「い、伊藤さんッ!?」
「伊藤さん…ッ!」
「…伊藤さんっ…!」
三人の慟哭が走る。
那は、自らの腕の痺れも顧みず、彼女を支えようと手を伸ばす。
だが、その指先が触れるより早く、黒い鎖が──那の首に巻かれた、あの先代観測者の遺産が、今までで最も激しい、黄金の脈動を開始した。
鎖は、主の危機に応えるかのように、あるいは目前に迫った「真のあらわれ」を感知したかのように、生き物のような唸り声を上げている。
伊藤の火傷を負った皮膚から、青白い微粒子が立ち昇り始める。
それは乱堂の時と同じ、「喪失」の予兆。
「まだ、逝くな……ッ!」
那の喉奥から迸ったのは、言霊としての機能を喪失しかけた、純粋な生存への執着であった。
叫びか、祈りか、あるいは不条理な因果への激昂か。
その音節を鼓膜で受容した伊藤は、全身の痙攣を意志の力で圧殺し、那の掌を、骨が軋むほどの膂力で握り返した。
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瞬間、那のニューロンを、現世の言語体系では記述不可能な情報の
「存在しないいきもの、時空を喰らうもの、曼荼羅を編み直すもの、答えは問いそのものの中に」
「答えは問いの中に」
「答えは問いの中に」
反芻されるフレーズは、論理的な思考を介さず、脳幹に直接的な刻印を残していく。
現実に意識の座標が還流する刹那、那の視界の端に、眼帯を付けた白衣の男の輪郭が、観測ミスのように一瞬だけ明滅した。
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凱、そしてオクヤスの視線は、既に派出所から数キロメートル離れた新火口付近に固定されていた。
其処では、世界の
噴火に伴う噴煙と逆光を背景に、大地という組織から「突出した髄」そのもののような巨大な構造体が、緩慢な動作で鎌首をもたげている。
「ほ、骨…ッ?あんな、バカデカい…」
オクヤスの発した震え声は、空間の
凱もまた、眼前の事象を定義するための語彙を完全に喪失していた。
突出した髄の周囲に、次いで「肉」が生成を開始する。
それは沸き立つマグマと同等の熱量を帯びた、大量の血液の奔流。
重力に逆らい、噴水の如く噴き出した赤黒い液体は、剥き出しの巨大な肋骨を、深層から表層へと、執拗に覆い尽くしていく。
細胞分裂の速度は、既存の生物学的な増殖の定義を数千倍上回り、指数関数的な速度で実体としての質量を構築していく。
やがて、其れの全容が、次元の境界を越えて現世に定着する。
背部が形成される。無数の剣山を想起させる鋭利な突起群が、天を衝くように聳え立つ。
一つ一つの突起は、極限まで圧縮されたエネルギーの漏出により、青白い輝きを放ち始めた。その発光波長は、先に鐡の蛾たちが放ったチェレンコフ光と完璧な同期を見せている。
そして、頭部が形成される。
それは巨大な頭蓋骨の形状を維持しながらも、眼球を収容すべき窩には視覚器が存在しない。
代わりに、底の見えない深淵の如き窪みが存在し、その奥底から強烈な青白い光が溢れ出している。
開放された顎の深奥には、歯ではなく結晶体に近い組織が整然と並び、大気中の電子を励起させていた。
個体は、ゆっくりと「起き上がる」動作を開始した。
大地はさらに広範囲に渡って陥没し、地殻の歪みは周辺の空間を物理的に捩じ切る。
視界は屈折し、色彩はスペクトルを無視して滲み、音波はドップラー効果を凌駕して不規則に反響する。
真昼のような照度が、突如として世界を支配した。
然し、その光は紺碧を保つことなく、ドス黒い血色へと転じ、天球を浸食していく。
遥か彼方に屹立する、その巨大な質量。
四人はその存在の圧倒的なデンシティの前に、自らの存在が希釈されていく感覚に襲われ、身を震わせる。
畏敬にも似た感情が、那と伊藤の精神構造を侵食していく。
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其れは、摂理からの復讐者。
或いは、世界そのものの具現。
絶望という言葉では到底形容し得ない、絶対的な
やがて其れは、高次からの
再び、那の耳元で、巨大なコントラバスの弦を、幾千のイバラの爪で手荒に掻きむしるような、物理的な破壊を伴う重低音を爆発させた。
伊藤は、焦点の定まらない瞳でその巨躯を凝視し、唇を震わせる。
「…彼れの、本当の名前がある」
彼女は、自らの喉を焼き切るような覚悟で、その秘匿された記述を解放する。
「余りにもっ、怖くて、口にすら出来なかった名前…っ」
「私の記述の果て、曼荼羅の最奥に」
「最初からっ…刻まれていた、名前」
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現世に顕現せしめ、今まさに活動を開始する、巨大な高次のけだもの。
因果を統べる神が、あるいは人類の潜在意識の総体が。
其れに与えた、
まことの名前は。
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「…
其の存在は、完全に起ち上がった。
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地平線を蹂躙するその影は、人類の観測し得る、世界への。
人類への、「警鐘」と「憤激」。
其の、稀ない、つづきで在った。
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