ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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ζの使命

 

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「…名前を、お伺いしても?」

那は、自らの存在が相手の領分(りょうぶん)を侵食しないように、慎重に言葉の端を削って問いかけた。

 

「――いと、伊藤、ですっ」

「端的に聞きますが、貴方がやっている事について教えてくれますか?」

 

那は改まって、訊いた。嫌われることへの根源的(こんげんてき)な恐怖を、知覚(ちかく)の奥底に押し込めて。

その真摯な眼差しに、伊藤は僅かに視線を揺らし、薄い口元をすぼめた。

彼女は細い掌を絡め、数コンマ秒だけ指先を捏ねくり回す。

 

その(まよ)い、或いは思考の編纂(へんさん)のあと、此方に向き直り――抱え込んだクロッキー帳を、震える指で指し示した。

 

「――ζ(ゼータ)の、観測……或いはっ、抽出(ちゅうしゅつ)を、していて…っ」

「……ギリシア文字? …抽出?」

那の声色は僅かに揺らいだ。彼女が指を指したのは、紙に描かれた曼荼羅(まんだら)的文様――其の中心に座する「ζ(ゼータ)」の文字だった。

 

ギリシア文字のゼータ、或いはリーマンのζ関数(ゼータかんすう)

僅かに耳にした、或いは知識の断片として保持していた記号たちが、那の脳内で再起動(リブート)される。

其の文字は前者より拝借したものであろうが、彼女の構想としては後者――より高度な数理的幾何学(すうりてききかがく)に近いのではないか、という予感が那の背筋を走った。

 

「世界には名前のない現象が、たくさんある。見えるけどっ、説明できない、…関係性。例えば、…あのベンチの木の年輪と、遠くの山鳴(やまな)り。渡り鳥の行先(ゆきさき)と、方位磁(ほういじ)の微細な撹乱の同期、…っ。それらを、既存の生物学や地学の、…枠組みで説明しようとすると、難しい、な…っ。つまり、だから…っ」

伊藤は頭をわしゃわしゃと掻いたあと、那に射抜(いぬ)くような視線を向けた。

 

「新しい『言葉』が必要なの。新しい…『けだもの』として、概念を定義して、育ててっ、その生態を観察することで、見えてくる『答え』があるはずだって……」

 

那は目を見開いた。其れは知見と言うよりは、情報量の暴力に往復(おうふく)ビンタを喰らって、頭の中が混濁(スクラム)状態になったかのような衝撃だった。

 

捕食(ほしょく)したり、共生(きょうせい)したり、突然変異を起こしたり、……その力学(ダイナミクス)をシミュレーションするのが、私の……仕事」

彼女は、那をまっすぐ見た。その目は狂気というよりは、深遠な純粋さに満ちている。

 

「そして昨夜の、ゼータ…外部からの『問い』は、この系に、新しい振る舞いを、……誘発したの。だから、私はここに来たっ……この『問い』の、発生源を…記録しにっ」

那は、自分が非常に奇妙な会話の渦中(かちゅう)にいることを、衝動的(しょうどうてき)な相対の羅列のなかで、ようやく理解しようとしていた。

 

しかし、同時に、久しぶりに身体の奥底から湧出(ゆうしゅつ)するものがあった。

 

──好奇心(こうきしん)

伊藤の言葉は難解で、その探求が現実のものかどうかも疑わしい。

何より先述の、「絵を描き」其れを「縛り付け」て「シミュレーションする」というプロセスを、創作の一端だと認識していた先程までの心構えでは、到底処理しきれない事象(ファクト)たちだ。

しかしそこには、確固たる「内側の論理」があった。

 

那が長年避けてきた、他者への深い関与の危険性をはらみながらも、この女性の内面世界は、ある種の美しさ――複雑系の数学が持つ、抽象的な美しさを湛えているように思えた。

 

彼女の中では、あの「カメーバ」も「アン」と呼ばれたものも、単なる妄想の産物ではない。

この不安定な世界を繋ぎ止めるための、血の通った演算子(オペレーター)なのだ。

 

那は、自分を拒絶するかもしれない恐怖を横に退け、より深く、この「深淵(しんえん)」へと踏み込む決意を固めた。

「……その、探し求めている『問い』の発生源。それは、あの地震…微小な地殻変位(ちかくへんい)と関係があるのですか?」

 

那の問いかけに、伊藤は一瞬だけ吃驚(ききょう)したように肩を揺らしたが、すぐに自らのクロッキー帳に視線を落とした。

嫌われることを恐れていたはずの那の指先が、今は無意識に、彼女の描く「星々(ゴラス・データ)」をなぞろうとしていた。

 

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