---
其は、天を揺るがす。
其は、理を砕き、捻り潰す。
圧倒的な質量と、超常的な物理作用を以て現世に顕現した其れ──
奇しくも、常勤として此の場に居合わせていた
此の世に存在し得ない筈の質量が、今、眼前に在るという
──此れ程迄の、異質な生物が居るなんて。
「……生物というのも、最早」
悟りにも近い
通信は途絶し、観測機器は瞬時に蒸発した。
---
那らの視点へと戻る。
現在地である血の曼荼羅の筆跡地点──松中派出所前から呉爾羅の出現地点までは、約二十数キロメートルの位置関係に在り、遠景からも其の巨躯は、境界線を侵食する暗い影として認識する事が出来た。
伊藤の右腕から首に及ぶ火傷の損傷を、那は
「…冷やします、我慢して」
手近な自動販売機から確保したペットボトルの流水を、震える皮膚に慎重に注ぐ。
「…ぅ」
水が患部に触れるたび、伊藤の喉からは細い悲鳴が漏れた。
那は自らの衣服の裾を躊躇なく引き破り、湿らせた布で熱を帯びた傷を手際良く、且つ此れ以上の汚染を防ぐように手当てを施していく。
布が朱に染まるのを視界の外に追いやり、那は彼女の意識をこちらへ繋ぎ止めることに注力した。
伊藤の意識が混濁の底から表層へと浮上してきたのを確認すると、那は再び噴火口の方面を見据えた。
「…大き、過ぎる」
那が
其の体躯は、露出した髄の部分だけでも約数十メートルを優に超えるであろうか。
未だ
オクヤスは、暫く其の光景に
「……ッ」
彼は、膝の
伊藤は那の傍ら、曼荼羅の熱波によって焼けた腕を摩り込みながら、其の巨躯を見据えていた。
呉爾羅の外郭が完全に形成し終えた頃、遂に其れは、噴出する火砕流を無造作に掻き分けつつ、ゆっくりと地上への動路を進め始めている。
地殻を直接的に踏み締める重厚な
其れが遥かな距離を越えて、那たちの足底を直接的に揺さぶる。
「…伊藤さん」
那が、低い、しかし切迫した声で呼びかける。
「…アレの…呉爾羅の、進路は」
「紛うこと、なく…上色見神宮、です…っ」
那の言葉に、伊藤は即答した。
痛みに耐えるための
「で、でも…っ、此の曼荼羅から、離れる訳には…い、いかないっ」
「策があるのか」
伊藤の苦渋に満ちた声色に、凱は鋭い反応を見せる。
「以前、話した事がありましたよね…っ?彼の、肉体を…っ、どうするかに、ついて……っ」
──若し、其れが真に世の理を乱す存在であるのならば、第零次元に押し返す。
然し、その限りで無い場合は。
「…ああ、憶えている」
凱が答える。
「土着…ですね」
那も言葉を続けた。
「あれは、文字通りに…彼を此の世界に留める、という手順の事を、指します…っ」
あの質量の生物を、破壊的な生物を、此の世界に留める。
正に与太の如き、浮世を離れた絵空事。
─だが、伊藤には思うところがあるようだと、那は解釈した。
「…野放しだとしたら、無策だ。其れに、何より貴方を見限って顕れたヤツを…ヌケヌケと、此の世界に遺しておいて…いいんですか」
オクヤスが不安げな面持ちで、恐る恐る、しかし核心を突くように訊く。
「…ど、土着とはっ、必ずしも生態的行動を伴った状態で留めるわけじゃ…なくてっ」
伊藤は手元の鎖を、今一度見つめ直す。
「…肉体を、停止させて…其の、肉体の中で…っ、彼の進化によって『問い』が成熟するまでの猶予を、私達が…稼ぐんです」
「…私、達が」
那は無意識に、伊藤の言葉を反芻する。
その言葉の重みが、己の流した血の意味と重なる。
「…つまり、彼が破壊の
既に、修羅場は幾度となく潜り抜けてきた。
其れでも──あの大質量を、如何な方法で、果たして抑え込めるものか。
「彼は今でも…っ、第零次元で、進化の只中に在ります…っ」
伊藤は乾いた
「然して、恐らく現在の目的は…自らが安定して存在を確立出来るように『生態系を改竄』する事、なんです…っ」
生態系の、改竄。
聞き慣れぬ言葉に、凱らは思わず
「…奴は、具体的に…何をしようとしている」
「元来の、肉体…つまり、元の世界にあった肉体が…っ、安定して、棲息出来た時代まで…爾来を
那の脳裏で、点と線が繋がり始める。
上色見神宮付近で見た、時間の遡り。
山々や河の流れの異常性。
其れら全ての目的を、
「…世界其のものの生態系を、原始の恐龍時代まで退行させる?」
「…恐らくは」
那の出した考察に、伊藤は肯首した。
──其処までの行為が可能ならば、其れは最早、生物の範疇に足り得るのであろうか。
悍ましいまでの気の張り詰めが、那の肌に
「其の場合、俺達はどうなる」
「そうですよ…!いきなり恐竜がワーワー闊歩する時代になる訳じゃないですよね…?」
凱らの切実な質問に、伊藤は一瞬、口を噤んだ。
「…恐らく、大気の組成から植物の
「何だと?」
「今直ぐには、生物のヒエラルキーが立ち代るような、じ、事象は…っ、起きない筈、ですが…っ、『今、起きない』だけです…っ、あれを放置していたら…っ、何時かは」
「…ジワジワと…ッ?」
オクヤスが恐怖で声色を引き攣らせるが、伊藤は冷静に言葉を紡いでいく。
「…彼の遡りが此の世界に追い着くか、私達の対応が、早期に実現するか、其処は…賭け、です…っ」
世界の存亡を股に掛ける此の事象を前に、巨大な怪物と未然な人間が、速度で雌雄を決さんとする構図。
「ひえ…ッ」
其の無謀さを理解したオクヤスは思わず、二度、其の場にへたり込んでしまった。
「…伊藤さん、アンタ…博打打ち過ぎる」
「…自信は、あの縁記残録を前にして…確固と、なったので…っ、ふ、ふふっ…」
伊藤は、僅かな笑みを零した。
自嘲なのか、或いは自信によるものか。
「…でも、勝算は…あります…っ」
「……っ」
那の脳裏、然して眼前の光景には、依然として火山の噴出の様子が張り付き続けていた。
思案する。
以前、海外文献の翻訳記事を書く際にあった、白亜の時代の、或る現象――スーパープリュームによる、第五次の大量絶滅現象論についてだ。
以前より、此の国、此の大陸では、十数年前より、火山活動が頻発している。
関東平野では、富士嶽が爆発的な準破局噴火を引き起こし、其れが皮切りとなって、世界中の活火山の連続噴火が誘発された。
他の地域でも、アイスランドから環太平洋造山帯に至るまで、様々な場所で大規模な噴火が発生していたとされる。
那が友人を喪った彼の日の火山──KS県、
もしも、其れらが意図的に──具体的には、呉爾羅の引き起こした、爾来の遡りによって引き起こされていたとしたら。
白亜紀の
其の内なる疑問に対する探究の欲求を、内に秘匿しておけるわけもなく。
「…伊藤さん」
那は、火山を見据えるのを一旦止め、伊藤へと向き直った。
「貴女が…高次存在、ζ…いえ、呉爾羅と断片的な対話を、始めたのは…っ、何時から、ですか」
若しも、其れが十数年前だとしたなら。
在の日の、天変地異すらも。
「…っ」
「伊藤さん?」
伊藤は、眉を顰めて俯き、たじろいだ後、那の瞳を見据えて呟いた。
「…少し昔、関東で、大きな噴火が…あった、でしょう…っ?」
---
記憶というものは、整然とした年代順のアルバムのように、
丁重に綴じられているわけでは無い。
高次存在との対話。
上色見での、最初の邂逅。
記憶の断片のデコードが、伊藤の脳裏で始まろうとしていた。
---