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那が思案した事由は、こうだ。
十数年前、呉爾羅は既に、白亜紀からジュラ紀へと至る「爾来遡行」のプロセスを開始していたのではないか。
高次存在ζによる、過去の地球環境条件の現在への重畳と、遡行の前段階。
マントル深部では異常熱対流が発生し、世界各地で火山帯が連鎖的活性化を始める。
俗に、「第二次スーパープリューム」と呼ばれるものである。
日本列島では、関東平野に座する標高三千に近い超高高度活火山・
其れは単なる自然災害として報道されたが、後年、NEO:GQ内部では「地球年代層の変質兆候」であった可能性が指摘されている。
南邦御威山の噴火――砂座間 那が友人を喪った、嘗ての場所。
そして、富士嶽噴火を契機とした、地震波観測機関であるNEO:GQの発足。
其れら全ては、呉爾羅の干渉が起因なのか。
「…伊藤さん」
故に、那は訊いた。
「教えてください」
彼女の、過去に至る実を。
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其の日、空は煤けた鼠色に塗り潰されていた。
短く切り揃えられたチャコールグレーの髪は、都市の排気ガスと煤塵に塗れ、僅かに霞みを見せる。
幾度となく袖を通した薄汚れた白いワイシャツは、彼女の輪郭を社会の背景へと溶け込ませていた。
彼女は、都市という巨大な機構の隙間を漂流する、紛れなき
繁華街の喧騒の中、彼女は常に、世界に対して「名付け得ぬ違和感」を抱いていた。
行き交う人々の足音、電子音、大気の振動。其れら全てが、本来あるべき位相から僅かにズレているような、不快な和音。
陽の光が水溜まりに反射する時の、不自然な屈折。
普遍的な意味を持たないスマホの
此の世には、理解しているようでいて、名前が付けられていない事象が各所に存在していた。
突如、街頭の巨大モニターが、物理的な断末魔を上げるかのように明滅する。
画面に映し出されたのは、人智を超えた暴力の萌芽。
関東平野の最奥に鎮座する霊峰・富士嶽の、準破局的噴火の第一報であった。
火山ガスの不完全発泡に伴う爆発的な膨圧《ぼうあつが、山体を内側から粉砕し、赤熱化した
「……あ…っ」
伊藤は立ち止まり、首を不自然な角度に曲げて、其れを見上げた。
周囲の悲鳴、避難を促す機械的な警報音。
其れらが、遠い水底の音のように遠のいていく。
彼女の瞳に映るのは、単なる自然災害の光景ではなかった。
それは、地球という惑星が、自らの身に纏った「現代」という薄皮を剥ぎ取ろうとする、壮大な自己解体の胎動。
地球は、何を始めようとしているのか。
この噴火は、未来へと続く惨禍なのか。
それとも、遠い過去へと引き戻すための
其の思索を、形にもならぬ予感として脳裏に浮かべた、其の瞬間であった。
彼女の脳髄の、最も深き
其れは、既存の五感では知覚し得ぬ、超次元的な干渉。
瞬時、網膜の裏側で、三次元的な視覚情報を拒絶する、説明不能なハイパー・ジオメトリが、爆発的に展開された。
球体でありながら平面で在り。
記号でありながら文字で在り。
重力井戸のように全てを呑み込みながら、折り畳まれた高次の数理として屹立する、異形の曼荼羅の奔流が、彼女の思考を埋め尽くす。
色彩はスペクトルを無視して混濁し、時間軸は螺旋状に捩じ切られる。
そのヴィジョンの中心を貫くのは、生物的な意匠と数理的な公理が融合した、悍ましくも美しい「背鰭」の連続であった。
幾重にも重なり、地平を埋め尽くす――背鰭、背鰭、背鰭の連続。
それらは、現世の如何なる古生物の
限りない水平線の向こう側、宇宙の様に拡がる其のヴィジョンの最果てで、微かな、しかし絶対的な命令権を持った言語野が、彼女の脳細胞を支配した。
「
其の文字は、音ではなく、純粋な「定義」として彼女の精神に刻印された。
それは、高次存在が放った最初の、そして唯一の「問い」であった。
伊藤の視界には、二度、先の景色が戻り来ていた。
人々がモニタを眺め、不安げに見据える都会の光景。
思考のなか、代わりに立ち現れるのは、煮えくり返るような熱気を帯びた、原始の
呉爾羅という、時空を喰らう一個体による、白亜紀・ジュラ紀へと至る「
其れが、此の瞬間、一人の少女を依り代として現世との接合を行った。
「…っ、う、あ゛…ぁ゛あ……っ!」
伊藤は路上に膝をつき、両手で自らの頭部を抱え込んだ。
彼女の脳内では、現在と白亜紀の気候条件が重畳し、演算処理の限界を超えたニューロンが悲鳴を上げている。
大気の組成が、酸素濃度が、磁場の方向が。
其れの意志に従い、世界が「あるべき過去」へと書き換えられていく。
薄れゆく意識の中で、伊藤は理解した。
自分という存在は、もはや「流浪者」の限りではない。
この高次元の獣を、身をもって知るという、動機。
「ぜ、ぜーた…っ」
彼女の唇が、震えながらその名をなぞる。
周囲の騒乱は、もはや彼女の関与すべき事象ではなかった。
此れが、すべての始まり。
血の曼荼羅へと至る、狂気と記述の、最初の産声。
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以後、伊藤の精神構造には、不可逆かつ
脳裏には常に、高次の位相幾何学に基づいた数式が、反転と重畳を無限に繰り返しながら、投影され続ける。
床に就き、束の間の
それは単なる視覚情報の汚染に留まらず、世界の解像度そのものを解体していく。
街を彩る街路灯の明滅。
雨上がりのアスファルトに澱む水溜まり。
無機質な鉄骨の骨組み、天を衝く鉄塔。
規則的に並ぶ電柱に至るまで。
彼女の視神経が捉える万物は、三次元的な質量を喪失し、何らかの巨大な構造体の断面図、或いは
現世という皮膚の下に隠された、剥き出しの数理的骨格が、彼女を包囲していた。
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刻は、二年前へと遡行する。
太平洋上の
インフラの壊滅、経済の連鎖的崩壊。
国政は、以前より遷都候補地として秘匿されていた東海中部・G県への機能移転を、選択の余地なく執行するに至る。
政府直轄の観測機関「NEO:GQ」が、地質学的な絶滅兆候を看取り、その前哨観測拠点の数を増殖させていた頃である。
灰に埋もれた関東甲信域は、度重なる噴火災害と火山灰による
伊藤は、その死にゆく街の
アトリエは存在しない。
湿ったコンクリートが剥き出しのトンネル、巨大な重力に耐えかねて沈下した高架下。
或いは、不規則に隆起し崩落したアスファルトの残骸。
彼女は放棄された車両やガレージから、半ば錆びついた廃棄スプレー缶を掻き集めた。
それを規則的な動作で振り、壁面へと異様な曼荼羅を刻印し続ける。
其れは何れも、生物学的な「瞳」の意匠に近似していた。
幾何学的に細分化された虹彩と、
それは彼女の内側に居座る「何か」の視座を、現世へ出力する行為。
そして、其の頃からである。
彼女の聴覚野には、絶え間ないノイズに混じって、地鳴りのような濁声が、微かに、しかし明瞭に響き始めていた。
──如何なる定義の集積か。
──自滅の焔を自らの掌から手放さぬのか。
──種の存続に文明は、果たして、必要なのか。
其の濁声は、明確な言語野の形を形容していなかった。
そう思案しているかのような、断片的な意識の欠片の片鱗。
地殻変動そのものが発する、外部存在からの不可避な通信か。
彼女は次第に、自らの思考と、その濁声の境界線が融解していく恐怖に
やがて、その思索に沈む濁声は、ひたに絵を綴り続ける其の思考を停止させる、断片的な指令を発した。
来い、と。
其れは招待、であるか。
強制的な召喚であるか。
「…っ、あ」
伊藤は、手に持っていたスプレー缶を落とした。
乾いたアスファルトの上で、虚しいまでの金属音が、灰色の廃墟の中に響き渡った。
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