ζ(Zeta)   作:AllZ:M

31 / 36
グレイの廻考 第壱

 

 

---

 

那が思案した事由は、こうだ。

 

十数年前、呉爾羅は既に、白亜紀からジュラ紀へと至る「爾来遡行」のプロセスを開始していたのではないか。

 

高次存在ζによる、過去の地球環境条件の現在への重畳と、遡行の前段階。

マントル深部では異常熱対流が発生し、世界各地で火山帯が連鎖的活性化を始める。

 

俗に、「第二次スーパープリューム」と呼ばれるものである。

 

日本列島では、関東平野に座する標高三千に近い超高高度活火山・富士嶽(ふじのみたけ)が、S県・南海海溝方面での群発地震を起因とする火山ガスの不完全発泡によって、準破局的噴火を引き起こした。

 

其れは単なる自然災害として報道されたが、後年、NEO:GQ内部では「地球年代層の変質兆候」であった可能性が指摘されている。

 

南邦御威山の噴火――砂座間 那が友人を喪った、嘗ての場所。

そして、富士嶽噴火を契機とした、地震波観測機関であるNEO:GQの発足。

其れら全ては、呉爾羅の干渉が起因なのか。

 

「…伊藤さん」

故に、那は訊いた。

「教えてください」

 

彼女の、過去に至る実を。

 

---

 

其の日、空は煤けた鼠色に塗り潰されていた。

 

伊藤 庵(いとう いおり)には、元来、帰るべき場所も、温もりを想起させる「家」すら存在しない。

短く切り揃えられたチャコールグレーの髪は、都市の排気ガスと煤塵に塗れ、僅かに霞みを見せる。

幾度となく袖を通した薄汚れた白いワイシャツは、彼女の輪郭を社会の背景へと溶け込ませていた。

 

彼女は、都市という巨大な機構の隙間を漂流する、紛れなき流浪者(バガボンド)であった。

 

繁華街の喧騒の中、彼女は常に、世界に対して「名付け得ぬ違和感」を抱いていた。

行き交う人々の足音、電子音、大気の振動。其れら全てが、本来あるべき位相から僅かにズレているような、不快な和音。

陽の光が水溜まりに反射する時の、不自然な屈折。

普遍的な意味を持たないスマホの砂嵐(グリッヂ)

此の世には、理解しているようでいて、名前が付けられていない事象が各所に存在していた。

 

突如、街頭の巨大モニターが、物理的な断末魔を上げるかのように明滅する。

 

画面に映し出されたのは、人智を超えた暴力の萌芽。

関東平野の最奥に鎮座する霊峰・富士嶽の、準破局的噴火の第一報であった。

 

標高(ひょうこう)三千メートルに迫るその超高高度活火山は、深海に眠る南海海溝の群発地震という微細な引鉄によって、その深奥(しんおう)に貯留された火成岩漿を噴き上げた。

火山ガスの不完全発泡に伴う爆発的な膨圧《ぼうあつが、山体を内側から粉砕し、赤熱化した砕屑物(さいせつぶつ)が空を埋め尽くす。

 

「……あ…っ」

 

伊藤は立ち止まり、首を不自然な角度に曲げて、其れを見上げた。

周囲の悲鳴、避難を促す機械的な警報音。

其れらが、遠い水底の音のように遠のいていく。

 

彼女の瞳に映るのは、単なる自然災害の光景ではなかった。

それは、地球という惑星が、自らの身に纏った「現代」という薄皮を剥ぎ取ろうとする、壮大な自己解体の胎動。

 

地球は、何を始めようとしているのか。

この噴火は、未来へと続く惨禍なのか。

それとも、遠い過去へと引き戻すための(くさび)なのか。

 

其の思索を、形にもならぬ予感として脳裏に浮かべた、其の瞬間であった。

彼女の脳髄の、最も深き領域(ドメイン)に、何かが──「触れた」。

 

其れは、既存の五感では知覚し得ぬ、超次元的な干渉。

瞬時、網膜の裏側で、三次元的な視覚情報を拒絶する、説明不能なハイパー・ジオメトリが、爆発的に展開された。

 

球体でありながら平面で在り。

記号でありながら文字で在り。

重力井戸のように全てを呑み込みながら、折り畳まれた高次の数理として屹立する、異形の曼荼羅の奔流が、彼女の思考を埋め尽くす。

 

色彩はスペクトルを無視して混濁し、時間軸は螺旋状に捩じ切られる。

そのヴィジョンの中心を貫くのは、生物的な意匠と数理的な公理が融合した、悍ましくも美しい「背鰭」の連続であった。

幾重にも重なり、地平を埋め尽くす――背鰭、背鰭、背鰭の連続。

それらは、現世の如何なる古生物の系譜(リネージ)にも属さぬ、高次の物理作用によって編み上げられた外殻。

 

限りない水平線の向こう側、宇宙の様に拡がる其のヴィジョンの最果てで、微かな、しかし絶対的な命令権を持った言語野が、彼女の脳細胞を支配した。

 

ζ(ゼータ)」。

其の文字は、音ではなく、純粋な「定義」として彼女の精神に刻印された。

 

それは、高次存在が放った最初の、そして唯一の「問い」であった。

 

伊藤の視界には、二度、先の景色が戻り来ていた。

人々がモニタを眺め、不安げに見据える都会の光景。

思考のなか、代わりに立ち現れるのは、煮えくり返るような熱気を帯びた、原始の泥濘(でいねい)

呉爾羅という、時空を喰らう一個体による、白亜紀・ジュラ紀へと至る「爾来遡行(じらいそこう)」のプロセス。

 

其れが、此の瞬間、一人の少女を依り代として現世との接合を行った。

 

「…っ、う、あ゛…ぁ゛あ……っ!」

伊藤は路上に膝をつき、両手で自らの頭部を抱え込んだ。

彼女の脳内では、現在と白亜紀の気候条件が重畳し、演算処理の限界を超えたニューロンが悲鳴を上げている。

 

大気の組成が、酸素濃度が、磁場の方向が。

其れの意志に従い、世界が「あるべき過去」へと書き換えられていく。

 

薄れゆく意識の中で、伊藤は理解した。

自分という存在は、もはや「流浪者」の限りではない。

この高次元の獣を、身をもって知るという、動機。

 

「ぜ、ぜーた…っ」

 

彼女の唇が、震えながらその名をなぞる。

周囲の騒乱は、もはや彼女の関与すべき事象ではなかった。

 

此れが、すべての始まり。

血の曼荼羅へと至る、狂気と記述の、最初の産声。

 

---

 

以後、伊藤の精神構造には、不可逆かつ劇甚(げきじん)な変容が生じていた。

 

脳裏には常に、高次の位相幾何学に基づいた数式が、反転と重畳を無限に繰り返しながら、投影され続ける。

床に就き、束の間の仮睡(かすい)を貪ろうとすれば、球面と平面が交互に変換されるメタ的な座標軸が、暗膜の裏側に焼き付いて離れない。

 

それは単なる視覚情報の汚染に留まらず、世界の解像度そのものを解体していく。

 

街を彩る街路灯の明滅。

雨上がりのアスファルトに澱む水溜まり。

無機質な鉄骨の骨組み、天を衝く鉄塔。

規則的に並ぶ電柱に至るまで。

 

彼女の視神経が捉える万物は、三次元的な質量を喪失し、何らかの巨大な構造体の断面図、或いは設計図面(ブループリント)の断片として再構成され始める。

現世という皮膚の下に隠された、剥き出しの数理的骨格が、彼女を包囲していた。

 

---

 

刻は、二年前へと遡行する。

太平洋上の豆緯山(とういざん)、そして富士嶽に近い座標に位置する箱ノ根岳(はこのねだけ)の再噴火は、帝都・T都の中枢機能を完全に機能不全へと追い込む結果となった。

インフラの壊滅、経済の連鎖的崩壊。

国政は、以前より遷都候補地として秘匿されていた東海中部・G県への機能移転を、選択の余地なく執行するに至る。

政府直轄の観測機関「NEO:GQ」が、地質学的な絶滅兆候を看取り、その前哨観測拠点の数を増殖させていた頃である。

 

灰に埋もれた関東甲信域は、度重なる噴火災害と火山灰による閉塞(へいそく)を経て、文明の熱を失った広大な廃墟街へと変貌を遂げていた。

 

伊藤は、その死にゆく街の静域(サイレンス)の中で、独り、絵を描いていた。

 

アトリエは存在しない。

湿ったコンクリートが剥き出しのトンネル、巨大な重力に耐えかねて沈下した高架下。

或いは、不規則に隆起し崩落したアスファルトの残骸。

彼女は放棄された車両やガレージから、半ば錆びついた廃棄スプレー缶を掻き集めた。

それを規則的な動作で振り、壁面へと異様な曼荼羅を刻印し続ける。

其れは何れも、生物学的な「瞳」の意匠に近似していた。

 

幾何学的に細分化された虹彩と、深淵(アビス)から見る者を観測し返すような、光を吸収する暗黒の瞳孔。

それは彼女の内側に居座る「何か」の視座を、現世へ出力する行為。

 

そして、其の頃からである。

彼女の聴覚野には、絶え間ないノイズに混じって、地鳴りのような濁声が、微かに、しかし明瞭に響き始めていた。

 

──如何なる定義の集積か。

──自滅の焔を自らの掌から手放さぬのか。

──種の存続に文明は、果たして、必要なのか。

 

 

其の濁声は、明確な言語野の形を形容していなかった。

そう思案しているかのような、断片的な意識の欠片の片鱗。

地殻変動そのものが発する、外部存在からの不可避な通信か。

 

彼女は次第に、自らの思考と、その濁声の境界線が融解していく恐怖に曝露(ばくろ)されていく。

やがて、その思索に沈む濁声は、ひたに絵を綴り続ける其の思考を停止させる、断片的な指令を発した。

 

来い、と。

 

其れは招待、であるか。

強制的な召喚であるか。

 

「…っ、あ」

伊藤は、手に持っていたスプレー缶を落とした。

乾いたアスファルトの上で、虚しいまでの金属音が、灰色の廃墟の中に響き渡った。

 

---

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。