ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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グレイの邂逅 第弐

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伊藤は其の言葉を聞くや否や、強迫的な衝動に突き動かされるまま、灰に塗れた指で古びた地図を広げた。

 

上色見(かみしきみ)」──その四文字を、脳内の演算と照合するように詮索する。

 

九州、阿蘇郡、槻御輿村(つきみこしむら)

聞いたこともない地名。

本来ならば、荒唐無稽な妄執として切り捨てるべき文字列。

だが、彼女の理性の歯止めは、脳裏を焼き尽くす高次の数式によって既に融解し、消失していた。

 

「…行かなきゃ、行かなきゃ、行かなきゃ、行かなきゃ…っ!」

 

譫言のように繰り返される其の呟きは、もはや彼女自身の意志ではなく、肉体という器に注ぎ込まれた指向性、其のもの。

其処に何が在るのか、何故向かうのかという論理的な帰結すら持たぬまま、彼女は北関東の廃墟街を後にし、徒歩を以て西への移動を開始した。

 

繁華街跡の壁面に描かれた数多の絵画の堆積(グラフィティ)が、微かに呼応したような感覚を感じながら。

 

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其れは、人類の文明の微かな崩壊の軌跡と、其処からの再起の境界線をなぞる、孤独な流浪であった。

 

視界を塞ぐのは、火山灰に埋没し、色の概念を失った静止した町。

高速道路の路肩には、持ち主を失った鋼鉄(クルマ)の残骸が不規則に並び、崩落した高架橋は重力に従い、無残な断層を見せている。

遠方では、複数の火山が休むことなく噴煙を上げ、成層圏を黒く染め上げていた。

 

彼女は時に、辛うじて稼働を続ける無人の貨物輸送車両への便乗を強行した。

茂る針葉樹の野山すら、其の脚で越えた。

 

数十日の経過。約千キロメートルに及ぶ過酷な行軍(こうぐん)

 

伊藤の肉体は減衰(げんすい)し、精神は磨耗し切っていたが、其の歩みが止まることはなかった。

彼女は、強大な磁場に引き寄せられる無機質な鉄片の様で、或いは巨大な渦汐(うずしお)に呑み込まれる塵のように、一点の座標を目指して移動を続けた。

 

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「…っ、こ、此処だ…っ」

上色見神宮と呼称される其の聖域は、異質な霞に包まれていた。

霧の深淵へと続く石段が、垂直に近い角度で数百段と連なっている。

 

球体を囲う不自然な括弧のような造形の石燈籠が、数学的な規則性を以て左右に鎮座していた。

 

伊藤は歩く。一歩、また一歩と。

歩を進める。

此れまでの道成(みちなり)で堆積した脚部の鈍痛を噛み締めながら、歩み続ける。

 

進める

…歩を、進める。

進めている、筈、なのだが。

 

然し、目的の地へは一向に辿り着けない。

 

視界の先方に見えているはずの御殿との距離は、一歩踏み出すたびに同一の比率で遠退(とおの)いていく。

空間其のものが、彼女の移動量に比例して拡張され、折り畳まれている。

 

無限に続く線分。

軸を失ったかのような平面的移動。

 

その決定的な違和感に、伊藤は俯いていた視線を持ち上げた。

 

其処に、在った。

石段の中空に、あるいは空間の亀裂に、巨大な「瞳」の誉の影(ヴィジョン)が浮かんでいた。

 

光を一切反射せず、周辺の景色を視覚的に飲み込む、ドス黒い獣の眼球。

それは夢の残影でも、病理的な幻覚でもない。

現世という皮膚を内側から突き破り、彼女を「観測」し返す高次の視座。

 

瞬時、彼女の視界を、びがり、びがりと。

網膜を灼く鮮烈な稲光が、蹂躙した。

 

大気中の電子が強制的に励起され、青白い閃光が迸る。

其れは、核分裂の瞬間に発せられるチェレンコフ光に酷似した、死のスペクトルであった。

 

次の瞬間、自らの肉体内部、脊髄から末梢神経に至るまでを、超高圧の熱流が走り抜けた。

 

「──あ゛、がぁ゛ぁ……ッ゛!?」

 

絶叫と共に、伊藤は重力に突き落とされ、石段を転落していく。

堅牢な石材に肉体が衝突し、鈍い衝撃音が連続して響く。

 

踊り場で静止した彼女は、狼狽えるように喘鳴と叫び咽びを繰り返し、自らの顔を、汚れた掌で狂ったように擦った。

 

「い、痛い……痛い、い゛たいいた゛いいたい゛……ッ!?」

鼻腔、口腔の粘膜から溢れ出した鮮血。

掌を、石段を、そして汚れ濁した衣服を、べったりと朱に染め上げていく。

 

「やめて、壊れる…ッ」

彼女の髪は、超常的な現象に曝された影響か、僅かに、ちり、ちりと変色を始めた。

くすんだチャコールグレーであった毛髪は、先端から根元にかけて、深い藍黒色の蒼へと変質していく。

 

まあの石段で視神経に焼き付けた、チェレンコフ残光の色をそのまま肉体に定着させたかのような。

忌まわしくも、壮麗な、蒼へと。

 

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意識を再起動させた時、伊藤は依然として、上色見神宮の石段の只中に横たわっていた。

 

先程、視界を蹂躙した青白い閃光(チェレンコフ)の正体は何であったのか。

脳細胞の演算回路に生じた致命的な機能不全か、あるいは現実其のものが、物理的な損壊を起こしたのか。

 

自らの肉体が、原子・分子レベルで不可逆な変容を遂げたという確信だけが、重く湿った石段の冷気を通じて背筋を這い上がってくる。

 

間もなく、脳裏──意識の最深部、言語野の領域において、濁声が――否、文字としての指令が再び翻る。

それは鼓膜を震わせる音波ではなく、神経系を直接的に駆動させる純粋な命令情報の重畳。

 

描け、名を与えろ。

此の世の、現世の物理的な辻褄合わせとなる、其の名前を定義しろ。

 

数理的な必然性を持ったその指令が、彼女の全精神を支配する。

此の数カ月の流浪の中、廃墟街の瓦礫の下から拾い上げ、ボロ布のように成り果てたバッグの底に沈めていた、一冊のクロッキー帳。

其の存在を思考が捉えた瞬間、抗い難い、猛烈な衝動が彼女の四肢を突き動かし始めた。

 

描きたい、描かせて欲しい。

描かねばならない、描かなければならない。

此の高次のヴォイドに、実体という名の重力を持たせなければならない。

 

手漁りでバッグの奥を掻き回し、歪な形状に摩耗したクロッキー帳を奪い取るような手癖で取り出す。

だが、肝心の筆記具は、度重なる移動と転落の衝撃によって、既に失われていた。

「…そうだ…っ」

伊藤は、逡巡することなく、自らの指先を石段の脇の湿った土へと叩きつけた。

爪の間に土を食い込ませ、指を泥に塗らす。

その無機質な泥濘(でいねい)を顔料とし、彼女は震える手で白い頁へと線を刻み始めた。

 

球体であり、同時に平面としての性質を保持するもの。

既存の生物学的形態を無視しながらも、どこか恐竜を彷彿とさせる獰猛な輪郭を持つ、異形の何か。

 

完全平面球体型暴竜──アン。

頁いっぱいに描き出された、頭部を天へと掲げるその影。

泥の線が、木漏れ日のような陽光を反射し、金属性の光沢を帯びて、発光したかのように見えた。

 

其の瞬間であった。

彼女の之までの人生において一度も訪れたことのない、圧倒的な多幸感が全身の血管を駆け巡った。

 

かつて、都市の隙間で受けてきた人々の視線は、ただの嫌悪の集積でしかなかった。

他者から観測されるという行為は、自らの存在を値踏みされ、切り取られる、絶え間ない苦痛の連続であった。

だが、彼れの、あの巨大な瞳は違っう。

拒絶ではなく、ただ絶対的な事実として、私という個体を定義してくれた。

 

私へ、この歪んだ世界の記述者としての意味を与えた。

命を燃焼させるための、渇欲という名の燃料を注ぎ込んでくれた。

 

其れが、堪らなく嬉しかった。

 

精神の崩壊と引き換えに得たその充足は、彼女をこの現世の論理から完全に切り離した。

 

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以後、伊藤は、自らを「独立観測者」と定義し、称し始める。

拾い集めた僅かな硬貨を掌の中に握り締め、彼女は廃墟街に奇跡的に稼働を続けていた証明写真機の中へと入り込んだ。

 

カーテンの隙間から漏れる、無機質な照明。

長く不規則に伸び、蒼黒く変色した髪。

栄養失調によって、窶れ果てた頬。

だが、レンズを見据える彼女の瞳に、後ろめたさや迷いの色は一切存在しない。

 

吐き出された写真を、クロッキー帳の余白に合わせて幾何学的に切り取る。

拾い上げた万年筆のカートリッジを抉り出し、道端の草と土、道端のアスファルトですり減らした指から滴る血を磨り合わせた、粗雑で粘調な顔料インクを注ぎ込む。

 

然して、震える筆致で、自らの新たな公理を書き記した。

 

『独立観測者 伊藤』と。

 

――既に、己の下の名さえ、忘却の彼方へと消失しかけていた事さえ、彼女が気付くことは無かった。

只、其れの記述者であれば、それで良かったのだ。

 

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