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其の孤独な記述の円環が変革を迎えたのは、地殻の咆哮が閾値を超えようとしていた朝のことであった。
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数日前より、槻御輿村を囲む阿蘇外輪の火山活動は
伊藤は、其の変動プロセスを個人的な系として再解釈するため、概念生物を介した非線形式を用いて、早朝の河川敷で事象の記述を試みていた。
「…ファイの
乾燥した唇から、数理的な譫言が漏れる。
其の刹那、背後に確かな質量を伴った威圧──人としての気配を感じ取った。
「…おはようございます。何をされているのですか?」
「えっ、あ、ぇ、ええっ、あ、っ、えええっ!?」
外界を遮断し、高次の観測に没入していた伊藤は、眼球が
其の出会いを転機として、伊藤と那の間に「対話」という名の情報交換が開始する。
概念生物を唯一の理解者としてきた彼女にとって、生身の人間と語らうという行為は、もはや遠い前世の記憶に等しい。
故に、発声器官は正常な駆動を拒絶し、不規則な吃りが沈黙を埋めた。
だが、目の前の青年は、彼女の支離滅裂な理論を、排除すべきノイズではなく、解読すべき福音として熱心に清聴した。
時に鋭い疑問を投げかけ、理解の深度を深めていこうとする彼の真摯な姿勢は、伊藤の凍結した精神を僅かに融解させた。
然し、其の平穏は、権力という名の観測者──箪笥 凱らの介入によって、脆くも崩れ去る。
刑事職という現世の法を象徴する者たちによる事情聴取。
彼らが向ける怪訝な思惑と、自らを社会の異分子として定義する冷徹な視線。
伊藤は、生きた心地を剥奪されたかのように
セダン車パトカーによる移動中も。
派出所という狭小な空間での尋問の最中にも。
彼女の意識を支配するのは、あの幾何学的なフラクタル構造と、全てを飲み込む黒い瞳のヴィジョンのみであった。
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然して、時は満ちる。
彼女の知覚野が、本能的な恐怖と共に「其れ」の接近を捉えた。
あらわれ──顕現、其の実体化の予兆。
高次存在が、現世への本格的な
薄々、彼女は勘付いていたのだ。
頻発する地震、火山の噴火。
何より、十数年前の富士嶽噴火の直後、脳裏を直接蹂躙した、あの名の濁声。
此の不気味な絵を描き続けたのは、あのアビスそのものである彼を、呼び戻すための儀式であったのか。
私は、取り返しのつかない恐ろしい事象を記述してしまったのではないか。
「…ぁ、ぁ、…き、来たっ、
派出所を激震が襲い、物理的な現実が崩壊を開始する只中、彼女はその実感を血の味がするほどに噛み締めていた。
那に導かれ、戸外で巨大な噴煙の柱を視認したその瞬間、脳裏のスクリーンが塗り替えられる。
――此の地に、描き出せ。
「…っ、私っ、わたしが…っ?で、でも…っ!そんな、数理、モデルは…っ、まだ未完成で…っ!」
――命の顔料で、描き切れ。
「…っ!?痛いのは、嫌、ですけど…っ!でも、書かなきゃ…記述、しなきゃ、此処に定着、できない…っ?」
──描け。
此の「
伊藤の脳は、断片的な事象をそう翻案した。
「はああっ、はいいぃ…っ!!わ、わかりましたあぁ…っ!」
彼女は、反射的に路上へと膝を突いた。
其の姿は、絶対的な神に祈りを捧げる信徒のようでもあり、同時に、抗えぬ絶望に叩き伏せられ、人格を粉砕された屈服者のようでもあった。
彼女は、痙攣する右手を伸ばし、自らの指先を、ザラザラとした粗いアスファルトの表面に全力で叩きつけた。
此れが、私という存在に与えられた唯一の役割。
自らの皮膚が裂け、爪が剥がれ、熱い液体が地面を濡らす感覚。
疑念に近い強烈な畏怖に身を浸しながらも、彼女は、命を削り出した筆致で、血の曼荼羅を描き終えた。
其の瞬間、曼荼羅は情報の胎動を開始し、高次存在と現世を繋ぐ、不可逆な「扉」となったのである。
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刻は、現在へと回帰する。
伊藤 庵の口から語られた、十数年に及ぶ記述と、狂気の独白。
それを聴いていた三名は、現世の論理を根底から転覆させる超常の起因を、沈黙の中で噛み締め続けていた。
派出所周辺を支配する空気は、二十キロ先で活動を開始した巨躯の影響により、物理的な重圧を伴って肺胞を圧迫している。
依然として、規則的な重低の響音と激しい揺れが、定期的に其の場へと到達していた。
――呉爾羅が、槻御輿の地に足を付け、移動を開始したのである。
凱は、額に滲む汗を拭うことさえ忘れ、眼前の非現実的な事象を既存の捜査論理の枠組みに無理やり押し込め、冷静な分析を試みていた。
「…つまり、だ。此の世界の基軸、その物理的な整合性が瓦解し始めたのは、総て其の
一方のオクヤスは、余りにも果てしない事実の奔流に、受容の限界を完全に超過していた。
只、震える唇から無意味な音節が零れる。
「…で、でで…っ、そんな、そんなバカな話が…ッ?世界を丸ごと作り替えるなんて、其れはもう、生き物の領分じゃないでしょう…っ」
「…此れをどう見る、砂座間さん」
凱は、思考の深淵に沈んでいた那の方へと、鋭い視線をくばせた。
那の脳裏には、未だに網膜に焼き付いて離れない光景があった。
あの、忌い噴火。
火砕流が全てを呑み込み、友人の存在が因果の彼方へと消え失せた、あの瞬間の絶望。
其れ自体が──否、此の十数年間、人類を取り巻いてきた世界の体系そのものが、呉爾羅という高次個体による「生態系改竄」のプロセスに過ぎなかったのか。
目に見えぬ巨大な因果の歯車に、那は本能的な恐怖を覚えていた。
あの怪物の気紛れな行為により、友人が喪われたという断定的な恨みこそは抱かずとも、全人類がその掌の上で転がされているという事実がある。
其処に、背筋が凍るような戦慄を禁じ得ない。
何故、呉爾羅は、数多の人間の中から「彼女」を選別したのか。
客神である巨大な獣が、脆弱な一人の少女に干渉し、記述者として仕立て上げた、其の真の事由。
「…呉爾羅は」
那は、喉の奥に張り付いた乾いた空気と共に、言葉を捻り出した。
「…人間に…っ、問いを、与え…」
鮮烈に繰り返されるトラウマの残像に眉を顰めながらも、彼は思考の糸を手繰り寄せ、言葉を継ぐ。
「…其の回答を…っ、我々の答えを…待っているのではないですか」
其の手引きが、仮に生態系改竄という暴力的な強行の誘引であるとするならば、そこに慈悲の余地はない。
だが、もしも呉爾羅が人類に「記述」という猶予を与えていたのだとしたら。
生かすも、殺すも、あるいは土着による共存すらも。
其れら全ての選択肢を見越した上で、人間に『問い』としての選択を与えるまでに、其れの知覚が収斂進化を遂げていたとしたなら。
「…呉爾羅は、少なくとも…進化の極致において、私達と双方向に、答案を通わせる事が出来るのかもしれない。今、この惨状すらも、我々がどのような『解』を出すかを観測するための過程だとしたら…」
「はああ…っ?」
凱が、思わず剥き出しの疑問を露呈させた。
「砂座間さん、アンタは…あの大怪獣に、人間と意思疎通を図るような知性、あるいは精神性が持てると思うか?災害の具現化の最たるものだろう、あの巨体は」
「…伊藤さんも、先程仰っていましたよね?進化の末に、完璧な意識の応対…其の可能性が残されているって。現に、彼女は『指令』を受け取っている」
那は、脳内の知識アーカイブから情報を掻き集め、目前の状況と照合する。
「…以前に拝見した、数百年前の独立観測者…芹沢さんの
「
伊藤が、記憶の深層から浮上した言葉を、欠けたパズルを嵌めるように照合する。
「今は巨大な獣の形をしていても、其の思考は、伊藤さんの頭の中に断片的な『令』を出す段階にまで、既に進化を果たしている。それは、我々の論理体系を奴が理解し始めている証拠です」
言葉を紡ぎ続ける那の胸中には、既に一つの確信が芽生えていた。
──好奇心。
此処に至って、彼の飽くなき探求欲と、観測者としての根源的な性分が、恐怖を燃料にして燃え上がり始めたのである。
「だから…伊藤さん。貴方が彼れを信じるなら、そして、若しも『土着』による凍結が可能ならば、試してみる価値はあると思うんです。ただ滅ぼされるのを待つのではなく、我々の『回答』を奴に叩きつける」
伊藤に向き直った那は、絶望の最中にありながら、此れまでにない晴れた表情を見せていた。
「其の、土着に至るための計算上の極値を、私達に教えてください。我々が何を成すべきか、その記述を」
恐るる巨獣の跫音が響く只中にあったが、いまだ、希望は潰えていなかった。
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