ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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魏魏(ぎぎ)たる憤怒(ふんど)()菩薩(ぼさつ)
羅針盤の老亀(カメーバ)


 

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呉爾羅の進路を物理的に先回りしながら、凱の操るセダン車は槻御輿村の山道を猛烈な速度で駆け抜けていく。

車体を構成する鐡の骨組みが、地殻変動による道路の不連続な段差を拾うたびに耳障りな金属音を立てている。

 

那が、窓から外の景色に視線を投じる。

河川の流れは重力加速の公理を無視して上流へと逆流し、周囲の野草は細胞分裂のサイクルを反転させ、萎縮するようにして、其の成長を数理的に退行させている。

 

其れは、単なる破壊ではない。

生命の、そして地球の時系列を強制的に巻き戻していく生態系の改竄――爾来の遡行。

そのプロセスの果てしなさと、人類の記述が及ばぬ高次元の論理に対する、如何許りの恐怖心――そして、同時に、それを紐解かんとする観測者としての好奇の念が、那の思考回路に黒い澱のように蓄積していた。

 

今の那は、恐怖によってではなく、未知なる数式への渇望によって駆動している。

 

「此処…だよな?」

凱が油圧ブレーキを踏み込み、激しい制動音と共にセダン車を泥塗れの路肩に停車させた。

 

数刻前まで異質な濃霧に包まれていた上色見神宮の面影は、此処に到達した時点で完全に変貌を遂げていた。

嘗てのアンとスキュラの戦闘による位相衝突の痕跡、それらがもたらした石段の破局的な崩壊。

さらに、周囲を取り囲んでいた針葉樹がドミノ倒しの如き連鎖で倒壊し、土砂と共に押し寄せた山雪崩によって、境内は惨憺たる状況へと零落していた。

 

「…行きましょう…っ」

伊藤が、窶れた顔から絞り出すようにして合図を出し、各員に降車を促す。

彼女の手には、未だあの冷徹な金属光沢を放つ鎖が握られていた。

「那くんの曼荼羅の記述が…っ、まだ此処に、の、残っていると…いいけど…っ」

那は扉を開け、地表へと足を下ろした。

大気は既に電離し、鼻腔を突くオゾンの臭気が、彼という存在の輪郭を削り取ろうと迫っていた。

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崩落した石段の最下層、土砂と砕けた石材の隙間に、那が嘗て穿った血の曼荼羅の残滓(ざんし)が、辛うじてその幾何学的なトポロジーを維持している。

然し、地殻の連続的な狂振により、その記述は定着性を失い、泥の粒子と同化しかけていた。

 

「…消えかけてる…っ、これじゃ、情報の、受容体が、機能しない…っ」

伊藤は、その視線に焦燥ではなく、純然たる義務感を宿らせて路面に跪く。

彼女は迷うことなく、右手の指先を、鋭利な石英の混じる硬質な泥土へと再び力強く押し付けた。

 

肉を削る微細な摩擦音が大気の軋みに紛れる。

 

擦れによる再度の出血と、生々しい赤黒い液体。

爪の隙間から、そして破れた指腹から溢れ出したそれが、大地の割れ目を埋めていく。

 

伊藤は、肉体が自壊を始める恐怖など、とうに脳内の演算回路から消去していた。

指腹から溢れ出す鮮血を躊躇なく路面に塗抹し、泥に埋もれかけた幾何学模様を、強迫的な軌跡で補完していく。

 

那が描き切れなかったツナギの妖星(ゴラス・データ)の再記述、完全なる簒奪(さんだつ)の儀式。

指先が鋭利な石英に抉られ、骨に達するほどの摩擦抵抗が指神経を直撃するが、彼女の表情に変化はない。

網膜の奥に焼き付いた、黒い瞳のヴィジョンに従う。

失われた数理モデルの項を一つずつ、自らの生命というインクで埋めていく。

 

「カメーバ君…っ、答えて……っ、現世(うつしよ)の、座標を…此処に、留めて…っ!」

修復された曼荼羅が、鉄錆の臭気と共に、高次の位相でびち、びちと脈動を開始する。

泥土に刻まれた血の線が、周囲の大気圧を不自然に固定し、崩壊しつつあった神宮境内の空間に、擬似的な安定をもたらしていく。

 

「…那くん」

記述の器が完成し、伊藤が呼びかけた其の瞬間、那は自らの手元に引き寄せていた冷徹な鎖を強く握り締めた。

金属の冷たさが、浸食されかけた精神の輪郭を辛うじて現世へと繋ぎ止める。

 

那は一歩を踏み出し、未だ生々しい熱量を放つ血の曼荼羅の幾何学的中心へと、その鎖の末端を接触させた。

 

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刹那。

那の意識は、物理的な三次元空間から完全に剥離(はくり)し、高次情報空間の深淵へと叩き落とされる。

 

只、暗黒の中に、言葉を持たぬ超巨大量の情報塊が座していた。

 

概念生物・羅針盤の老亀(カメーバ)

其れは、数理の海に浮かぶ古利根の如き、鈍重で、かつ圧倒的な質量を持つ『羅針盤』の具現であり、十字架を象った甲羅と、嗄れた肉体の堆積である。

 

言語を介さない、純粋な概念と概念の対峙。

カメーバの深層意識は、人間の脆弱な論理体系を拒絶するように、膨大な「空間の不変性」を記述する数式を、那の精神へ直接的に放射した。

 

脳髄が沸騰するような錯覚。那の喉奥から、声にならぬ喘鳴が漏れる。

 

カメーバの意識は、ただ絶対的な事実として、其処に存在していた。

彼れにとって、人間も、呉爾羅も、世界という系を構成する一部の変数に過ぎない。

何故、己の陣営に就かねばならぬのか──問いすら成立しない高次の沈黙が、那の自我を圧殺せんと迫る。

 

だが、那は退かない。

鎖を通じて、自らの血脈の記憶を、噴火で喪われた友の確率を。

全て、カメーバの巨大な思考体系へと叩きつける。

 

観測者としてのコンタクトを、ひたに紡いでいく。

微かに、其の老亀の位相が、僅かな揺らぎを見せつつあった。

 

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