ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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現世(うつしよ)の落し子

 

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那の自我を押し潰さんとしていたカメーバの圧倒的な情報の圧は、ある明確な一点において、その物理的ベクトルを不自然に反転させた。

 

暗黒の空間、言葉という記号による伝達を一切拒絶した高次演算領域の只中。

那は対峙する老亀の巨大な構造体から、明確な『(うけたま)』の波動を受け取っていた。

 

それは人間の情緒的な合意ではなく、数式の一項が正確に等号で結ばれたかのような、絶対的な受容のプロセス。

私という不完全な観測者が提示した、現世の因果律の証明。

それをカメーバは、自らの羅針盤の軸を固定するための妥当な変数として算入したのだ。

 

「信じて…くれるんだね」

那の喉奥から漏れた声は、緩やかで柔らかであった。

眼前の存在がもたらした確かな肯定の感覚に、那は極限まで張り詰めていた思考の糸を僅かに緩め、自らの表情に微かな綻びを生じさせていた。

その深層意識と情報的に通じ合えたという事実が、那の内に奇妙な安堵を確立させる。

 

那はふと、無機質な思案を脳内に走らせる。

此の暗闇の中に座する、数理的な質量そのものである存在に、もし直接触れてみることができたなら。

文字の撃ち込みや鎖による仲介ではなく、『私』という肉体的な観測器そのものを接触させたなら。

 

好奇心と、記述への渇欲が、那の右腕を動かした。

那が虚空に向けて手を伸ばし、カメーバの存在確率の核心へとその指先を接触させた、その瞬間であった。

 

世界が、不可逆な位相的変換を起こして、一変する。

 

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「退けっ、そこを退けッ!」

 

どこからともなく、鼓膜を直接引き裂くような濁った罵声が浴びせられた直後、那の背部に、強烈な物理的衝撃に伴う激痛が走った。

堅牢な肉塊、あるいは人間の質量が衝突したことによる鈍痛。

「がっ…は…っ!?」

那は前方にのめり込み、泥塗れの地面に両膝を突きながら、激しい喘鳴を漏らした。

背骨に沿って走る鈍痛に耐えながら、那は眩暈の残像を振り払い、眼前の光景を視認するために瞬きを繰り返した。

 

先の痛みは、錯覚ではなく。

自らの身体を乱暴に押し退け、前方へと死に物狂いで逃げ惑う、数多の人間たちの肉体的な接触によるものであった。

 

視界が急速に解像度を上げていく。

足元は、上色見神宮の硬質な石材や土砂ではない。

泥と不衛生な水分が混ざり合った、未舗装の粗悪な土路面。

 

周囲を埋め尽くす逃げ惑う人々の姿が、やがてはっきりと網膜に投射される。

彼らの衣服は、現代の繊維技術によって製造されたものでは明らかにない。

粗末な木綿や、泥に汚れた旧時代の作業着。

恐怖に顔を歪め、互いを踏み付けんばかりの勢いで敗走を続ける民衆の群れ。

 

先刻まで、間違いなく上色見神宮に居た筈であった。

伊藤が指先を血に染めて曼荼羅を加筆し、カメーバとの交信を行っていた筈の空間。

だが、今にして那の眼前に広がっているのは、明らかに数百年前に退行した、旧い木造建築が雑然と並ぶ見知らぬ街の世相である。

茅葺きの屋根や、歪な木造の家屋が、不自然な夜の闇の中に沈んでいた。

 

夢を見ているかのようで。

脳細胞の機能不全がもたらした、精巧な幻覚。

 

だが、只の夢ではない。

 

五感が受容している情報の密度は、明晰夢が知覚できる神経系の合成データを明らかに逸脱していた。

空気中に充満する、家屋が燃焼した際の不純な煙の臭気。皮膚を刺す、異常なまでの熱量を含んだ夜気の湿度。

地表を駆ける何百もの足音がもたらす地鳴りの低周波は、現実の質量そのものがそこに存在していることを、那の脳髄に強制的に肯定させていた。

 

まさか、まさかと。

―呉爾羅自身が、数百年前の大戸村──現在の槻御輿村の基底現実を、爾来遡行のプロセスによって此の局所空間に「再現」しつつある状態なのか。

時系列の連続性が完全に破綻し、過去の記述が現世を完全に侵食しているのか。

 

那が、冷や汗に濡れた首を強引に反転させ、自らの背後──遥か彼方の地平を見据えた瞬間、全神経が凍結した。

 

いま、まさに、地平の闇を完全に排斥する、強烈な『白熱の光』が垂直に立ち上がっていた。

それは、先ほどまで世界を侵食していたあの現代の青白いチェレンコフ光とは根本的に異なる、純粋な熱的質量を持った、純白のエネルギーの奔流。

その純白の光線が直撃した一画では、近代的なインフラシステムではない、形状の異なる旧時代の送電鉄塔が、構造の限界を待つまでもなく一瞬でドロドロの液体へと融解し、地表へ崩落していく様が、明確に記述されていた。

鉄が沸騰し、気化していく際の白煙が、夜空を覆っていく。

 

そして、その融解する鉄塔の向こう側、白熱光の余熱によって陽炎のように空間が捩れる只中に座する巨大な其れを見て、那は震え上がった。

其れは確かに、形状において「呉爾羅」と呼ばれるべき肉体形状で構成されている。

だが、これまで槻御輿村の火口から出現していたものとは、その個体としての素養が根本から異なっている。

 

そこにあるのは、爛れたケロイドの不規則な堆積。

より生物的でありながらも、同時に結晶化した公理そのもののような、完璧な形態。

何より、その眼窩の奥には、那がかつて深い夢の境界で見た、あの漆黒の瞳が確かに構築されていた。

 

感情を一切排したその暗い瞳が、

那を、逃げ惑う民衆を、

そして世界の全記述を、高い位置から静かに見下ろしている。

 

可能性世界の一点の存在か。

或いは、此の存在こそが、あらゆる分岐の起点たる、完全なる『初代(あらため)』なのか。

オリジナルとしての呉爾羅が、その強靭な顎を開き、天に向けて地鳴りの如き雄叫びを上げた。

大気が衝撃波によって不連続に圧縮され、那の鼓膜から微量の出血を促す。

 

巨獣は視線を下方へと巡らせ、その口腔の奥に再び純白の熱的エネルギーを収束させ始めた。

此方へ向けて、すべてを無に帰す白熱光(はくねつこう)を放たんとした、其の時であった。

 

「来いッ!」

突如として、空間の連続性が断裂したような隙間から、強烈な指向性を持った声が響く。

 

那の視界の端に、唐突に差し伸べられる人間の手。

時代錯誤な白い衣──白衣の袖と、手のひらの皮膚に無数の化学火傷の痕を残した、確かな人間の掌が、そこに存在していた。

 

「第零次元に長く触れ続けてはいけない!」

怒声にも近い、諭しの奔流。

 

「永ければ永い程に、其れは認識すらも蝕まんとする!」

空間の裂け目の向こう側、物理的な座標を無視した暗黒の中から、身を乗り出すようにして手を伸ばしている一人の男がいる。

 

「君の自我が消失する前に、此方へ戻れ!」

那は、思考による判断を挟む余地もなく、条件反射の連続によって其の掌を強く掴み返した。

引き上げられる瞬間、那の眼前に明確に解像したのは、不自然な白衣の質感と、そして──片眼を黒い眼帯によって完全に覆った、一人の人間の姿であった。

 

数百年前の独立観測者。

手記を遺し、高次との対話の果てに消えた男。

 

――芹沢。

その幻影、あるいはその記述の残渣か。

 

第零次元の深淵で、確かな熱が、那の腕を現世(うつしよ)へと引き戻そうとしていた。

 

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