ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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先代独立観測者・芹沢 其参

 

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其処は、白磁に包まれた、唯ならぬ『無』の位相であった。

上下左右の概念すらも消失した、完全なる空白。

那は、引き込まれるようにして空間の亀裂から其の絶対的な記述の零地帯へと足を踏み入れた。

 

存在の連続性を保証する一切の座標軸を剥奪された空間において、自己の輪郭を維持すること自体が、精神の極限たる演算強度を要求していた。

然して、ぜえ、ぜえと肺胞に残る僅かな酸素を貪るように、荒い息を漏らす。

 

眼前に存在した『彼れ』――呉爾羅(ゴジラ)が、自らに向けて純白の白熱光を放ち、現世の因果律ごと牙を剥く、其の瞬間の圧倒的な戦慄が、数理的な連続性を断たれた今なお、神経系の最奥から消え去ることはない。

 

苦しいまでに鈍重な頭をゆっくりと上げると、其の白磁の位相の只中に、ひとりの人間が直立していた。

右眼に藍黒の眼帯が当てられ、幾度もの演算と観測の歴史を物語る、着古した白衣を身に纏った男。

那は、彼の生気の少ない、しかし深淵を見据える瞳から、いわくありげな雰囲気を感じ取る。

 

齢は、那とさして変わりない――或いは、少し歳上、といったところであろうか。

肌の表面には細胞代謝の揺らぎが見られず、ただ静謐な情報の均衡体として、其処に在った。

「…間に合ったようだ」

其の男の薄色の肌が、緊迫した次元の相転移による摩擦のせいか、少し汗ばんでいる。

その微小な水滴のみが、彼という存在がかつて有機生命体の系に属していたことの、唯一の物質的証明であった。

 

那は、其の男の容貌に確かな見覚えがあった。

以前、伊藤の掌を強く握り返し、互いの精神的結合回路が確立されたとき――。

脳裏を過った薄霧のヴィジョンの中に存在した、一人の男性。

「答えは問いの中に」という、あの時に受容した断片的な言語。

其の言語が発せられた位相と、眼前に立つ存在の座標が、今、完全に合致する。

 

――であれば、此の男は。

槻御輿縁記残録という名の高次論理体系を綴り、今、まさに、那の持つ現世への楔たる鎖を編み出した、その張本人に他ならない。

 

「…芹沢さん、ですね」

躊躇いなしに、那は其の名前を口にした。

観測者として、事実の確定を急ぐように。

音波は空気の振動を介さず、白磁の位相へ直接論理値として記録されていく。

 

「…そうだ」

其の男――芹沢が、低く、しかし空間の基底を揺るがすような明瞭な音声で呼応を返す。

 

此の空間が何であるか、未だ那の脳細胞には理解し難かった。

現実の時間軸において、物理的な『芹沢』は、数百年前の大戸村に存在した独立観測者である筈だ。

上色見神宮にあの三本の鎖を遺した後、事切れたものだと思い込んでいたが、眼前の現実はその仮説を容赦なく否定している。

時間という一方向のベクトルが、この位相においては完全に無効化されているのだ。

 

「芹沢さん…貴方は」

「聞きたい事はわかる。今の私が、君の脳が見せる幻影なのか、それとも歴史の襞に残留した情報の記述なのか、あるいは細胞組織を伴った人間としての実体構成であるのか…」

芹沢は、自らの眼帯に触れることなく、ただ一つの左眼で、那の存在を見つめた。

 

「今の私は、少なくとも…生物的な生き死にに関しては無関の存在に等しいのかも知れない」

那はごくり、と喉奥で唾を飲み込んだ。

余りにも形容し難い、現世の死生観を根底から無効化するような浮世の如き言の葉。

生と死という二進法の分類自体が、この高次領域においては何の意味も持たない。

「…それは、どういう理屈ですか」

「此の第零次元では、時間の流れに相当するパラメータが存在しない。すべての可能性世界が沈殿する低層であり、同時に全体を内包する高次であるが故に、其の流れは物理的に堰き止められ、次元圧によって圧殺させられ続ける」

男の語る数理は、冷徹なまでに現世の熱力学の第二法則を否定していた。

エントロピーの増大による崩壊から隔離された領域。

それゆえに、変質も腐食も存在しない。

 

時間の流れが存在しないのであれば、今こうして非対称な言語を交わせている事実は何であるか。

では、此の男が数百年の歳月を経てもなお、老化を一切していないという事実の辻褄も、これで完全に合うのではないか。

無限の静止の中に、彼の記述は凍結されている。

 

次々と湧いてくる『問い』の奔流が、那の中に幾何級数的に蓄積される。

観測者としての性分が、これまで抑えに抑えていた好奇が、彼の思考体系を急激に支配していく。

意識の全容量が、高次元の謎を解明せんとする衝動によって飽和しつつあった。

「芹沢さん」

那は、逃げ惑う民衆の記憶を脳内から排斥しながら、静かに訊いた。

「…先のあの、空間は……何ですか」

那は、先程まで直視していた――呉爾羅が、旧き木造の街並みを燃やし尽くすあの凄惨な光景が如何なる事実であるかを、彼に問い詰める。

眼底に焼き付いた純白の閃光と、融解する鉄塔の物理的記述の根拠を求めて。

 

芹沢は、いっときだけ口を噤み、白磁の空間に己の影が投影されないことを確認するように俯いていたが、やがて那に向き直って話し始めた。

その挙動には、時間の経過を伴わない、純粋な論理の遷移だけが存在していた。

「…君が、第零次元の深層に触れた結果だ。数百年前に起因する、私が居た時代の、史実の一端。其れをあの怪物、いや――」

 

彼は言葉を濁し、何らかの論理を憚るような様子を見せる。

何か、後ろめたい事由があるのか。

――それの名前を口にすることが、それだけ高次の畏怖の対象であるのか。

「──ゴジラが、自らの歴史に介入し──潜在的に己の進化を阻害する脅威と位置づけられる存在を、因果のレベルで排斥しようとしたのかも知れない」

「呉爾羅…とは、一体、何なのですか」

那は、主語の転換を試みながら、次に次にと疑問の問いを巡らせる。

存在の定義そのものを簒奪しなければ、此の破局的な事象に対処する数式は完成しない。

 

「…私の、知る限りでは」

芹沢は再び俯き、自らの記憶という名のデータベースを浚うように呟き始めた。

その音声は、多層のノイズを含んだ古い記録媒体の再生音に酷似している。

「私と、君が居る世界──其の外側で『死んだ』存在が、何らかの事由で第零次元、すなわち世界の外側という名の記述の墓場に流れ着き、其処で進化を果たした末の存在、と仮定している」

「其の出自を、貴方は知っているのですか」

「第零次元を幾度となく観測し、其れと断片的に通ううちに、本能的にわかった事があるのだが」

 

芹沢は、天井であるのか、果てしない穹であるのかも知覚出来ない、其の無限大の上方を仰ぎ見た。

「…其れは、唯一疋の『けだもの』であり、同時に『落し子』でもあった」

「…けだもの」

「人類の業が生み出し、然して人類の業で敗れた其れの肉体が、肉の塊から、やがて骨となり、無となり…。其のような、ある可能性世界における終焉の光景を、断片的に夢で仰ぎ見た記憶が、今も残っている。現世という記述の底に沈んだ、もう一つの歴史の残滓だ」

芹沢は那に向き直ったあと、其の視線を遥かに逸らした。那もつられて、芹沢の片眼が視認する方位へと視線を泳がせた。

 

断片的な映像の片鱗が、幻影のように白磁の空間に現れ、眼前へと流れゆく。

肉塊となり、やがて白い骨となり、特殊な液体の中に溶けていく巨獣の肉体、其の凄惨なプロセスの、時間を無視した再生。

それは、ある並行世界における完全な消滅の記録であり、物質が情報の最小単位へと還元されていくプロセスそのもの。

 

其の瞬間であった。

びがり、と。

 

白磁の空間に投影されたプロジェクトが、異質なエネルギーの露光によって不気味に明滅した。

眩い光と共に、幻影の只中にあった其れの首の骨の一端──三対の突起を持つ頸椎の構造体が、空間の歪みに吸い込まれるようにして、一対のみ、物理的な軌跡を残さずに『消失』した。

因果の連鎖から一要素が強制的に引き抜かれるような、幾何学的な不連続。

「…あれは」

「巨大な因果を取り巻く運命の螺旋が、死という絶対的な破綻によって綻んだとき、第零次元は其の記述の口を開いた」

芹沢は淡々と、現世の物理学では説明のつかない独自の論理を告げていく。

「ゴジラは、其の圧倒的なまでの肉体の膂力(りょりょく)と、死をも超越する生命力を糧にして、高次の情報空間で其の肉体を再定義、再生しようとしたのだ」

那の脳裏に、先ほどまでカメーバが存在した、あの仄暗い空間と同じビジョンが強制的に想起される。

其の暗黒の空間に漂う、消失した筈の首の骨の一部──三つの頭部を構成するための雛形であるかのような骨格から、ぐじゅり、と不気味な細胞の増殖音と共に、生々しい肉片が突出した。

本来交わることのない遺伝子情報と高次の数式が、その骨の周囲で異質に結合し、新たな『形態』の記述を開始している。

 

「然して…其れの、ゴジラの肉体は、第零次元という無限の演算資源を持つ領域で、其の進化を重ね続けた」

「呉爾羅の…進化」

「やがてその情報構造は、鼠算式に個体数を増やし、進化を重ね、分岐を重ね、やがてに此の次元では、既に三次元的な肉体すらも必要としなくなり──」

二人の眼前に顕るは、芹沢がかつて槻御輿縁記残録の血の曼荼羅の周囲に筆記した、あの鋭利で不規則な背鰭の意匠の数々。

それらが独立した数理モデルとして、白磁の空間に幾重にも投射されていく。

その形状は、一つ一つが異なる進化の分岐点を示し、現世の幾何学を拒絶するような鋭利さを備えていた。

「分岐した思案の断片は、今もなお、肉体となって数多の平行世界に顕れ、生態系を改竄し、自らの存在を――其の圧倒的な猛威を、奮っている。『もう一度、存在したい』という、生物としての本能を超えた、存在の意義に近い巨大な思考体系を掲げながら」

那は、白磁の空間に浮遊する背鰭の記述群を凝視しながら、思考の焦点を芹沢へと戻した。

 

「…私は、今より遥か前の時代の君達と同じ世界で、一方的に顕現を押し進めてきた呉爾羅を『倒す』為に、研究を続けてきた」

芹沢の其の表情は、後悔にも近い念を感じさせるもので。

その唯一の眼窩に宿る光は、自己の演算がもたらした帰結への重い評価を含んでいた。

「友人共々に至るまでを巻き込んで…其の研究を只管、高次存在の誅殺の為に推し量り続けた」

僅かに拳を握り締めたあと、芹沢は那に向き等る。

白衣の布地が、存在の緊迫感によって微かに擦れる音を立てた。

「だが…彼れの怒りは、其の存在が存在しない世界がある限り、数多を食い尽くすまで、決して止まらない!」

 

芹沢は、那の手許からじゃらり、と垂れる其の鎖を視認すると、はっ、とした表情を浮かべた。

その眼光が、冷徹な金属の環に集束していく。

「私達は、故に彼れを──呉爾羅を、完全に排斥せず、土着凍結を施して、対話を続けていこうと思案しています」

那は、僅かに苦渋を浮かべた声色と表情で、彼に訊いた。

「あの鎖は…上色見神宮の、あの鎖は…一体、何の為に造られたものなのですか」

芹沢は那が差し出した鎖を、そのただ一つの眼窩で冷徹に射貫いた。

白磁の空間に、金属が擦れ合う微小な波形だけが不自然に反響し、減衰していく。

 

「…其れは、高次の令を現世の物理定数へと強制置換するための、一種の増幅回路」

 男の音声は、感情の起伏を一切排した数式の証明のように、淡々と白磁の位相へ刻印されていく。

 

「かつて私が大戸村の基底現実において、ゴジラという記述の絶対的な暴威に直面したとき、私はその存在を完全に『消去』する術を模索した」

芹沢の声が、震える。

「物質の結合を分子レベルで解体し、あらゆる生命の記述を分解し、無に帰す、現世にあってはならない論理の兵器――高次構素破壊剤(デストロイヤー)を」

「其れを…使ったのですか」

那の問いに、芹沢の左眼が僅かに陰った。

その陰影が、絶対的な破壊の重みを裏付けている。

「試作型を一度だけ行使した。その結果、大戸村に座したゴジラの肉体記述は完全に無へと帰結し、第零次元に押し返された」

芹沢の発言、其の一挙手一投足が、槻御輿縁記残録の記述と完全にリンクしていく。

紙背に隠された文字の重みが、那の意識を直接圧迫する。

 

「だが、それは破滅の始まりに過ぎなかった。存在を完全に消去するという行為そのものが、第零次元における因果の反作用を引き起こしたのだ」

彼の言葉は、深い後悔に苛まれていた。記号の抹消は、系の欠損ではなく、より強大な否定のエネルギーの蓄積を招いたのだ。

「消去された質量は、高次の領域で『問い』として再定義され、其の分岐が概念的な生物を副産させた。肝心のゴジラに関しては、其の怒りを更に増幅させる始末となってしまった」

芹沢はゆっくりと、那へと歩み寄った。

床面を持たぬ白磁を渡る彼の足取りは、決定された因果律の歩行そのものであった。

 

「答えは、問いの中にあったのだ。消去ではなく、受容。排斥ではなく、固定が必要なのだと」

「…では、此の鎖は」

「そうだ。其れは『位相の固定』の為に、最後の最後で私が君達の世界で編み出した、所謂『(タカ)』の鎖だよ」

其の言葉に呼応するように、鎖はぼんやりと淡い、黄金に近い光を帯び始めていた。

金属の各環が、高次情報を受容するための共振周波数を確立し、微細に震えを帯びていく。

 

白磁の位相を満たしていた絶対的な静寂が、突如として、幾何学的なひび割れを伴って崩壊を始めた。

現世の因果律が、那の肉体という特異点を強引に引き戻さんとする引力が発生している。

 

「時間のようだ。現世の因果が、君を呼び戻そうとしている」

芹沢の姿が、細分化された記述の配列へと分散し、薄れ始める。

彼の輪郭を構成していた其れが、一つの項ごとに解体され、第零次元の深層へと再沈殿していく。

「私は此処に残り、因果の底を支える。君は君の時間軸で、その鎖を曼荼羅へ撃ち込んでくれないか?」

白く眩い光を帯びていく辺りの景色を、那は認識する。感覚器官が再び物理的な三次元の情報を処理し始めるための相転移。

 

「其の鎖には、私が平行世界の観測情景から象った意匠をもとに、ゴジラに相対するに相応しい形態へと、自律的に変換されるようになっている」

「…変、換…?」

「君達の健闘を、此の第零次元のかなたから、私は見守っているからな」

男の最後の言葉が、情報の残響として那の脳髄に刻まれる。

 

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ホワイトアウトが最高に達した瞬間、那の意識は、完全に現実へと引き戻された。

鼻腔を突くオゾンの悪臭、崩落した石段の泥の冷たさ。

そして、手元に握られた、不気味に熱量を帯びた鎖。

那の網膜は、激しい明滅を繰り返しながら、再び上色見神宮の凄惨な光景へと焦点を結び始めた。

 

呉爾羅の猛威は、既に神宮へと迫りつつあったが――。

 

其の時、那の背後を、甲高く気高き、既に耳馴染みのある咆哮が劈いた。

 

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