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「此の星の
伊藤がクロッキー帳に描かれた其れを説明しようとした、刹那である。
「おおい! 其処で何してるッ!」
鋭く、そしてどこか大袈裟な
その瞬間、那の身体がびくり、と跳ね上がる。
想定していない第三者の介入は、他者との
社会の背景に溶け込むという生存戦略の「
それが、無遠慮な音響によって破られたのだ。
那と伊藤は同時に振り向く。 歩道橋の
一人は、皺の深いスーツを無造作に着込んだ、精悍な面持ちの中年男。
もう一人は、制服を律儀に着崩した若者で、髪を短く刈り上げており、目つきは鋭いが、どこか頼りなげな
中年男はベンチ付近に歩み寄ると、立ち止まり、那と伊藤を射抜くように鋭く見据えた。
その視線は、対象を寸分の隙もなく走査する。
背後の文脈まで読み取ろうとする、彼の
「あのさぁ…ッ」
彼は見掛け通りの渋い声で、しかしどこか
「朝っぱらから、ベンチに
「ひいっ、い、い……っ!?」
伊藤が悲鳴にも近い金切り声を上げ、肩をすくめた。 那は、彼女の予期せぬ反応の鋭さに思わず驚き、自らも半歩退いてしまう。
「遠方から見てる分には世間的な会話にも見えなくもない、とは思った。だがよく見てみりゃあ、其の
中年男は、那の胸元に記された衣服のロゴを一瞬だけ一瞥し、やれやれと首を振る。
「『若人に怪しい宗教の勧誘でもしてんじゃねえか』って思う光景でな、思わず声をかけちまった、という訳だ」
男が胸ポケットから何かを取り出した。 薄々、その形状から属性を勘づいてはいたが、那はそれでも自身の「輪郭」を強張らせずにはいられなかった。
「――
警察、刑事。――それは、平静的で客観を貫く那が、最も日常生活において関わるはずのない属性の人間だった。
後ろに立つ若い巡査――
「そ、そうだぞーっ! 不審です! めっちゃ不審です! この時間に、こんなところで怪しいノートを広げて!」
彼の話し方は、九十年代映画に出てくる
しかし、その視線は、伊藤のボロボロの服装と、傍らに置かれた巨大なリュックサックに強く釘付けになっていた。
自称・草臥れ刑事こと箪笥 凱は、オクヤスの肩をぽんと軽く叩き、制するように前に出た。
「まあまあ、落ち着け『オクヤス』。まずは事情を聞こうじゃねえか」
凱は、那と伊藤のパーソナルスペースの限界まで歩を進めた。 その目は、伊藤が抱える、夥しい
「……見た感じ、聖書的なものではないようだが…で? お二人は、どういう関係で、ここで何を?」
那は、迅速に脳内での状況分析を実行した。
尋常でない時間に、見知らぬ者同士が密談しているように見えたのだろう。 特に伊藤の
ここで誤解を解かなければ、自身が最も忌避する「不必要なトラブル」という
「…散歩中です」
那は、簡潔に、しかし礼儀を欠かさない
「この方とは、偶然ここで出会って。それで…少し、話をしていました」
「話?」 凱は、伊藤の顔を、網膜に焼き付けるように凝視した。
「で、あなたは?」
伊藤は、突然の介入に明らかに
顔は青ざめ、口元が微かに震える。 彼女は、自身の思考の集大成であるクロッキー帳を強く胸に押し当て、視線を地面へと落とした。 吃音は、不安の増大に比例して顕著になった。
「……私は、記録を、継続しなければ、ならない……っ」
「記録?」 オクヤスが首をかしげた。
「なんの記録ですか。密告スパイ活動?」
「おいおい…」
凱は苦笑いを一つ見せたが、其の目は一切にして笑っていなかった。
刑事としての「
「もっと、はっきり話してもらえませんかね…お名前は? この辺りのご住人ですか?」
「う、ううっ……!」
伊藤は、うつむいたまま、弱々しく首を振った。 言葉が喉の奥で物理的に絡まり、出てこない。 焦りが彼女の全身を
那は、思わず口を挟んだ。
「この方は、研究者のような方です。…手法はどうあれ、地質や、自然現象の観察をされていて」
「研究者?」 凱の眉がわずかに跳ね上がった。
「どこの所属だ? 身分証明書は持ってるか?」
伊藤は、慌ててリュックサックを漁り、中から、擦り切れた革のケースを取り出した。 開くと、古い学生証と、何枚かのボロボロの名刺が入っていた。
名刺には「独立観測者」とだけ記され、連絡先は存在しない。
凱は、それを受け取り、じっくりと
オクヤスが背後から覗き込む。
「独立……観測者? なんじゃそりゃ。職業として成立してるんかい?持続的な収入はありますか?」
「オクヤス、余計なこと聞くな」
凱は、名刺を伊藤に返し、重いため息をついた。
「…取り敢えず、ここでの立ち話もなんだ。署まで来てもらおうか。ちゃんとした事情聴取をさせてもらう。お互いのためだ」
「…っ!」
那の心臓が、鋭い衝撃波を受けたように一拍、強く打った。
署へ連行される。 それは、那が最も避けたい「社会への過剰な露出」の最たるものだった。
「…私たち、何も悪いことはしていません」
那は、平静を装って、震えを殺した言葉を紡いだ。
「わかる。気持ちは汲む。だが不審な行動は事情を確認する義務があるんだ」
凱の口調は柔らかいが、その意志は
「特に、あなたは若く見える。下手すりゃ未成年とも捉えられる。保護者の同意なしに、こんな時間に、見知らぬ人物と会っているとなれば……心配するのも当然だろう」
那は其の言葉を脳裏で反芻し、眉を顰めた。
――確かに、那はその見た目や顔立ち、髪型において、齢を低く見積もられる傾向にあった。
オクヤスが「うん、うん」と、得意げに頷き始める。
「そうですよ! 迷える子羊を、この不審な
凱は、オクヤスの後頭部を軽くはたいた。オクヤスは僅かに「いでっ」と譫言を漏らす。
「…魔女ってなあ…」
「凱さんッ!愛ゆえの小突きにしてもですねえ、加減ってもんが…ッ!」
「あんな、此の国の刑事たるもの、軽口はよしておけ?時代錯誤もいいとこだ」
その諭しに、オクヤスは僅かに萎縮するような素振りを見せ、とぼとぼと歩いていった。
「…まあまあ、とにかく、二人さん、ついて来てくれ。車はあそこだ」
凱は、歩道橋の向こうに停めた地味な
伊藤は、那を見た。 その目は、未知の存在への恐怖と、何か別の――
彼女は、かすかな声で呟く。
「…まずい……『
其の言葉には、確かな焦りが芽吹いていた。
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