ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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客観の代理

 

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「此の星の位相(いそう)は、こっちの――」

伊藤がクロッキー帳に描かれた其れを説明しようとした、刹那である。

 

「おおい! 其処で何してるッ!」

鋭く、そしてどこか大袈裟な声量(ボイス)が、静まり返った河岸の道から響き渡った。

その瞬間、那の身体がびくり、と跳ね上がる。

想定していない第三者の介入は、他者との境界線(ボーダー)を可能な限り薄く保ちたい彼にとって、絶対的な忌避的事象であった。

 

社会の背景に溶け込むという生存戦略の「(きん)」。

それが、無遠慮な音響によって破られたのだ。

 

那と伊藤は同時に振り向く。 歩道橋の(たもと)から、二人の男が早足で近づいてくるのが見えた。

 

一人は、皺の深いスーツを無造作に着込んだ、精悍な面持ちの中年男。

もう一人は、制服を律儀に着崩した若者で、髪を短く刈り上げており、目つきは鋭いが、どこか頼りなげな残像(アフターイメージ)を漂わせている。

 

中年男はベンチ付近に歩み寄ると、立ち止まり、那と伊藤を射抜くように鋭く見据えた。

その視線は、対象を寸分の隙もなく走査する。

背後の文脈まで読み取ろうとする、彼の職業的性分(デカのさが)そのものに見えた。

 

「あのさぁ…ッ」

彼は見掛け通りの渋い声で、しかしどこか茶目っ気(ユーモア)を滲ませた口調で言葉を繋いだ。

「朝っぱらから、ベンチに(もた)れて、こぢんまりとして、ねぇ……特に其処の女性!」

「ひいっ、い、い……っ!?」

伊藤が悲鳴にも近い金切り声を上げ、肩をすくめた。 那は、彼女の予期せぬ反応の鋭さに思わず驚き、自らも半歩退いてしまう。

 

「遠方から見てる分には世間的な会話にも見えなくもない、とは思った。だがよく見てみりゃあ、其の(なり)――ボロボロの衣類と無造作な髪、蔵書の一部と隣には青年!」

中年男は、那の胸元に記された衣服のロゴを一瞬だけ一瞥し、やれやれと首を振る。

「『若人に怪しい宗教の勧誘でもしてんじゃねえか』って思う光景でな、思わず声をかけちまった、という訳だ」

男が胸ポケットから何かを取り出した。 薄々、その形状から属性を勘づいてはいたが、那はそれでも自身の「輪郭」を強張らせずにはいられなかった。

 

「――(がい)箪笥 凱(たんす がい)だ。と言っても、槻御輿(つきみこし)ではそこそこ顔の割れた草臥れ刑事でね」

警察、刑事。――それは、平静的で客観を貫く那が、最も日常生活において関わるはずのない属性の人間だった。

 

後ろに立つ若い巡査――奥求易(おくやす)が、凱の言葉に合わせるように威勢よく那と伊藤を指差した。

「そ、そうだぞーっ! 不審です! めっちゃ不審です! この時間に、こんなところで怪しいノートを広げて!」

彼の話し方は、九十年代映画に出てくる中坊不良の舎弟(チンピラ)のような、勢いはあるが中身の伴わない威嚇である。

しかし、その視線は、伊藤のボロボロの服装と、傍らに置かれた巨大なリュックサックに強く釘付けになっていた。

 

自称・草臥れ刑事こと箪笥 凱は、オクヤスの肩をぽんと軽く叩き、制するように前に出た。

「まあまあ、落ち着け『オクヤス』。まずは事情を聞こうじゃねえか」

凱は、那と伊藤のパーソナルスペースの限界まで歩を進めた。 その目は、伊藤が抱える、夥しい数式(すうしき)図形(ずけい)が蠢くクロッキー帳に一瞬留まった。

「……見た感じ、聖書的なものではないようだが…で? お二人は、どういう関係で、ここで何を?」

那は、迅速に脳内での状況分析を実行した。

尋常でない時間に、見知らぬ者同士が密談しているように見えたのだろう。 特に伊藤の風体(ふうてい)は、一般社会のフィルターを通せば「浮浪者」と誤解されかねない。

 

ここで誤解を解かなければ、自身が最も忌避する「不必要なトラブル」という乱雑さ(エントロピー)の増大を招く。

 

「…散歩中です」

那は、簡潔に、しかし礼儀を欠かさない平坦(フラット)な口調で答えた。

 

「この方とは、偶然ここで出会って。それで…少し、話をしていました」

「話?」 凱は、伊藤の顔を、網膜に焼き付けるように凝視した。

「で、あなたは?」

伊藤は、突然の介入に明らかに動揺(どうよう)していた。

顔は青ざめ、口元が微かに震える。 彼女は、自身の思考の集大成であるクロッキー帳を強く胸に押し当て、視線を地面へと落とした。 吃音は、不安の増大に比例して顕著になった。

 

「……私は、記録を、継続しなければ、ならない……っ」

「記録?」 オクヤスが首をかしげた。

「なんの記録ですか。密告スパイ活動?」

「おいおい…」

凱は苦笑いを一つ見せたが、其の目は一切にして笑っていなかった。

刑事としての「(こたえ)」を求めて、彼は追求を続ける。

 

「もっと、はっきり話してもらえませんかね…お名前は? この辺りのご住人ですか?」

「う、ううっ……!」

伊藤は、うつむいたまま、弱々しく首を振った。 言葉が喉の奥で物理的に絡まり、出てこない。 焦りが彼女の全身を剛直(ごうちょく)させている。

那は、思わず口を挟んだ。

「この方は、研究者のような方です。…手法はどうあれ、地質や、自然現象の観察をされていて」

「研究者?」 凱の眉がわずかに跳ね上がった。

「どこの所属だ? 身分証明書は持ってるか?」

伊藤は、慌ててリュックサックを漁り、中から、擦り切れた革のケースを取り出した。 開くと、古い学生証と、何枚かのボロボロの名刺が入っていた。

名刺には「独立観測者」とだけ記され、連絡先は存在しない。

 

凱は、それを受け取り、じっくりと観察(スキャン)した。

オクヤスが背後から覗き込む。

「独立……観測者? なんじゃそりゃ。職業として成立してるんかい?持続的な収入はありますか?」

「オクヤス、余計なこと聞くな」

凱は、名刺を伊藤に返し、重いため息をついた。

「…取り敢えず、ここでの立ち話もなんだ。署まで来てもらおうか。ちゃんとした事情聴取をさせてもらう。お互いのためだ」

「…っ!」

那の心臓が、鋭い衝撃波を受けたように一拍、強く打った。

署へ連行される。 それは、那が最も避けたい「社会への過剰な露出」の最たるものだった。

「…私たち、何も悪いことはしていません」

那は、平静を装って、震えを殺した言葉を紡いだ。

「わかる。気持ちは汲む。だが不審な行動は事情を確認する義務があるんだ」

凱の口調は柔らかいが、その意志は地殻(ちかく)のように鉄く硬かった。

 

「特に、あなたは若く見える。下手すりゃ未成年とも捉えられる。保護者の同意なしに、こんな時間に、見知らぬ人物と会っているとなれば……心配するのも当然だろう」

那は其の言葉を脳裏で反芻し、眉を顰めた。

――確かに、那はその見た目や顔立ち、髪型において、齢を低く見積もられる傾向にあった。

オクヤスが「うん、うん」と、得意げに頷き始める。

「そうですよ! 迷える子羊を、この不審な魔女(まじょ)から守るのが、我々の使命です!」

 

凱は、オクヤスの後頭部を軽くはたいた。オクヤスは僅かに「いでっ」と譫言を漏らす。

 

「…魔女ってなあ…」

「凱さんッ!愛ゆえの小突きにしてもですねえ、加減ってもんが…ッ!」

「あんな、此の国の刑事たるもの、軽口はよしておけ?時代錯誤もいいとこだ」

その諭しに、オクヤスは僅かに萎縮するような素振りを見せ、とぼとぼと歩いていった。

 

「…まあまあ、とにかく、二人さん、ついて来てくれ。車はあそこだ」

凱は、歩道橋の向こうに停めた地味な国産セダン(パトカー)を指差した。

伊藤は、那を見た。 その目は、未知の存在への恐怖と、何か別の――切迫(せっぱく)した予感に満ちていた。

 

彼女は、かすかな声で呟く。

 

「…まずい……『()』が、乱される……早く、記録を、継続、しなければぁ…っ…」

其の言葉には、確かな焦りが芽吹いていた。

 

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