ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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けだものよ、死なば諸共(みらいにさちあれ)

 

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遠方、上色見神宮付近の倒れた針葉樹の隙間より、朱に染まる焔の色が、ふつふつと沸き立ちつつある。

周囲の低周波による微振動は、地殻の連続的な崩壊を予告していた。

 

呉爾羅の肉体は、依然として物質的組成の最中にあったが、やがて其れは着実に骨と肉の隙間を埋め、現世の幾何学を拒絶する完全たるケロイドの組織で構成されていた。

瞳は依然として存在しない。

瞳孔がある筈の窪んだ部位からは、今なお時空を強制置換するチェレンコフの眩い青色が、びがりと不気味な明滅を繰り返している。

 

其の様相を、オクヤスは手に保持した双眼鏡の焦点距離を狂わせながら、辛うじて確認した。

「伊藤さんッ! 此処からまたウチの派出所に行くんですよね!?」

「ええ…っ、鎖を、撃ち込むのは…っ、確度が一番、高い…っ、完全に乾き切った曼荼羅でないと、いけないから…っ!」

伊藤は、未だ血液の滴る自らの右の掌の指先を凝視しながら、窶れた声色の中に絶対的な数理の公理を乗せて言葉を返した。

那の衣服で手当てされた擬似的な包帯が、僅かに紅色に滲んでいる。

「上色見神宮の此の曼荼羅では…カメーバ君と、アンちゃんを留めるだけで、系の容量が飽和してしまう…っ。呉爾羅の全質量を現在に緊縛するには、あそこに遺した、あの完全に乾き切った論理回路でなければ…機能しない…っ!」

ボンネットに腰掛けていた凱が、その言葉の終了を待つまでもなく、過酷な駆動によって熱を帯びたセダン車の運転席へと足早に乗り込まんとする。

ドアの鐡板が、荒々しい挙動に伴って鈍い金属音を響かせた。

「…了解だ、伊藤さん!砂座間さんも早く乗りなさいな!」

然し、那は其の一声を聞くや否や、車体の方へと歩を進めることなく、背後の崩壊しかけた社殿を振り向いて叫んだ。

「…少しだけ、待っていてください!」

「はあ!?」

凱の驚嘆を孕んだ濁った声に、那は僅かに申し訳なさそうな表情を見せた。

だが、その両足は既に次の移動座標を捉えて停止していない。

「呉爾羅が既に其処まで来てる!万全を喫する為には今しかない!」

「だからこそです!」

那の声色には、先ほど第零次元の空白で芹沢から受容した、確かな予感と確信が孕んでいた。

「三分だけっ、三分だけ待機を!」

そう言うと、那は完全に背を向けて走り出し、半壊した鳥居を潜り抜け、針葉樹の残骸が散乱する拝殿へと足早に駆け上がった。

 

「し、正気の沙汰、ですか…」

オクヤスが双眼鏡を首に掛け直し、茫然とした呟きを漏らす。

「或いは、若気の至り…だな」

その間の抜けた疑問符に対し、凱はハンドルの革を強く握り締めながら、信頼ゆえの微かな微笑を浮かべていた。

「やはり、複雑怪奇をいたく、よく理解している」

其の凱のつぶやきを固有の言語野として正確に認識したのか、背後に待機していたアンが、甲高い咆哮を天に掲げる。

四肢の爪が地表を抉り、土煙がじわり、と舞った。

 

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拝殿の中は、数百年における老朽の蓄積で、僅かに煤けた雰囲気を醸していた。

現世の時間軸の堆積が、埃とカビの臭気となって閉鎖的な空間に充満している。

 

ほんの、数刻前の事である。

伊藤が、那の掌を強く握った時に感じた、あの精神的同調回路の違和感と、強烈な光景。

第零次元の深淵に足を踏み入れたことで、そのヴィジョンは今や、明確な座標データとして那の脳内にマッピングされていた。

 

拝殿右端の放置された榊の隣に座する戸棚の、上段より三列目。

其れが何を意味するか、具体的な数理項までは汲めなかった。

だが、那の脳裏には、其れが何かの決定打になる、という確信だけが残っている。

芹沢が遺した、可能性世界のけだものを記述するための失われた一項が、そこに配置されている筈であった。

 

足早に其の位置へと駆け寄ると──確かに、其の位相は存在していた。

不自然に周囲の光を吸収するような、古い漆塗りの木箱。

那は眉唾を呑み込んだあと、躊躇なくその棚を開く。

建具の擦れる不快な摩擦音が、無人の拝殿に反響した。

 

其処に存在したのは、一冊の紙であった。

経年劣化によって茶褐色に変色した、和紙の束。

「…写経、用紙…?」

那はそれを引き抜き、視線を落とした。

 

其処に書かれていたのは、整然と並びながらも、ある種の狂気を孕んで増殖する活漢字の奔流である。

那の記憶の底から、薄らと覚えのある感覚が呼び覚まされる。

 

嘗て焔に呑まれた友人の――執り行われた葬儀の場で、網膜の端に垣間見た経本の一節に酷似した、文体の規則的な羅列。

完全にそのものではない。

現世の仏教的な宗教記号の枠組みに完璧に写されているわけではない。

だが、其処に意味はある。

 

「答えは、問いの中に…」

芹沢の幻影が遺したあの言語。

現世を賛美し、高次存在の暴威を受け入れるための古代の詩。

この配列そのものが、呉爾羅という理不尽な問いに対し、我々の存在を記述し返すための絶対的な武器となる。

 

那は其の用紙を懐へと押し込み、破砕された木床を蹴って足早に歩を戻した。

 

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「戻ったか!」

凱の威勢のいい声が、セダン車の排気音を切り裂いて場に響く。

那は其方を視認して短く手を挙げると、セダン車の傍らに座するアンを一瞥した。

其の巨獣の瞳は、人間の其れのようであって、然しながら畏敬を感じざるを得ない高次の果てさ、冷徹な理知に満ちている。

 

那は一歩近付き、今、此の世界に確かな肉体となって定着したアンの鼻先の、無数の鋭利な突起に覆われた突出した角を、そっと撫で下ろした。

硬質な甲殻の質感が、手のひらを通じて現世の質量として伝わってくる。

 

那は、僅かに擦り寄るようにして頭部を傾け、呼応した其れの行動を見て、再び微かな笑顔を見せた。

 

「此の子には…私の血も、混ざってる」

──アンがスキュラと激しい位相衝突を繰り広げたあの時、自らの肉体を内側から蝕んだ、右腕の引き裂かれるような鈍痛を思い返す。

 

彼の笑みには、今後のプロセスにおいて考えうる限り最悪の顛末──自己の存在確率の完全な消失を明確に想起し、そして、仮にそうなったとしても、其れを記述者として受け止められるだけの、冷徹な覚覚が芽生えていた。

 

「…大丈夫。死なば諸共、だよ」

其れでも洒落にならないな、と思いつつも、眼前の高次存在に其の言の葉を投げかけると、那は反転し、アイドリングを続けるセダン車へと迷いのない歩を進めた。

 

アンは其の背を見据えると、二度、けたたましい金切りの叫びで、彼に応えた。

 

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