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那は、歪んだ車体の後部座席へと足早に乗り込んだ。
車内には、過酷な走行によるオイルの焼ける異臭と、外界の電離したオゾンの臭気が充満している。
「……来たな、じゃあ走らすぞ!」
凱の威勢のいい号令と共に、セダン車が乾いた空ぶかしを一度行い、其の険しい山道を、地割れを跳ね飛ばしながら再び猛烈な速度で駆け抜けていく。
後輪が巻き上げる土砂が、半壊した社殿の鐡の鳥居に幾度も衝突する音を残し、四人の因果を乗せた鉄塊は松中派出所の座標へと遠ざかっていった。
完全なる顕現を果たし、此の世に命を受けた完全平面球体型暴竜──アンの漆黒のまなこは、その去りゆく鉄塊の軌跡を冷徹に注視していた。
だが、その視線が移動する速度よりも早く、正面から押し寄せる大質量の圧力は増幅を続けている。
眼前に存在するは、圧倒的な巨躯の侵攻。
大地の不連続な畝りと、針葉樹林を一瞬で灰白色の消炭へと変える森林火災を引き連れながら、此方へと真っ直ぐに向かってくる、其の存在。
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アンを構成する多次元の情報記憶、其の一遍には、幾重にも分岐した平行世界における呉爾羅の存在が、僅かながら焼き付いていた。
死斗を喫し、その強靭な歯によって、喉許を物理的に食い破られた消滅の記憶。
又は、其の忠実な下僕たる「精兵」として、世界を記述し直そうとする人間の強大たる概念へと反旗を翻した、隷属の記憶。
高次領域において、未来は今であり、過去は今であり、其の記憶に始まりも終わりも存在しない。
すべての非対称な因果律は重畳され、並行的な事実となって、現在の肉体体系に焼き付き続けている。
第零次元という無限の演算資源の墓場において、ふたたび甦った其れは、呉爾羅に『概念生物』たる命を受け、その不測の伏兵として、今も数多の並行的世界の只中で、呉爾羅と伴に其の破滅の運命を屯している。
其の思案の分裂は全次元で同時に存在し、其の幾万幾垓の分岐のさなか。
其れでも呉爾羅は、世界への生態系改竄──爾来遡行による『自己存在の確固』を冷徹に推し量り、現世を白亜紀の組成へと強制置換し続けている。
──然し、此の世界の位相は、他のいずれの分岐とも異なる異質さを備えていた。
少なくとも、アンの意識と肉体が高次的な概念生物と化して以来、自らが唯一『自己のエゴ』──那の血による加筆という固有の公理によって駆動し、『呉爾羅』に完全に屈服を喫していない可能性の一片である。
『呉爾羅』の全体意識は、何十大数にも及ぶ無数の分岐の中で、最早、一個としての凝固は存在しない。
ただ「存在の肯定」という原初の本能のみに分散した
アンは、背後に横たわるカメーバの巨躯をその強固な側面甲殻で完全に遮蔽するようにして、一歩、泥濘へと四肢の爪を撃ち込んだ。
呉爾羅は、其れに呼応するようにして、其の視野をアンに差し向けると――劈くばかりの大音声を、其の場に響かせた。
アンは背後に座するカメーバの巨躯を一瞥すると、上色見神宮付近の針葉樹の堆積を、足早に駆け抜け始める。
現在、呉爾羅の身長は凡そで二百五十メートル、或いは其れを超越した超大質量を、其の場に土着させていた。
対するアンは、頭頂から尾の先端に至るまでを約二十五メートルとする、怪獣としてはやや小規模な体躯を内包している。
故に、真正面からの対峙は分が悪い。
成るだけカメーバの存在から意識を遠ざけつつ、其の小型の肉体ゆえの、意表を突く動きを体現するしかないと、其れは認識していた。
アンの体内に位置する、全身に張り巡らされた脳髄の一端が、其の演算を加速させる事により、険しい山道でも俊敏な奔りを維持している。
遮蔽があれば、其の遮蔽を『事前情報』として察知し、コンマ数秒のずれもなく、規則的な回避を繰り返す。
事前に調弦されたような幾何学的な動きで、アンは呉爾羅の足許へと駆け抜けていく。
呉爾羅は、其の動きに勘づいたのか、長大な尾を天へと掲げると、一帯の木々を薙ぎ払いながら、其の道筋を無碍へと返していく。
其の動きも、アンの脳内では確かな予知として演算されていた。
足早に呉爾羅の尻尾の付け根より背鰭の大列へと飛びかかると、其の甲羅を背鰭へと押し当てた。
アンの身体を構成する無数の鋭利な突起が、呉爾羅の岩肌の如き強固なケロイド組織へと深く、物理的な固定点として突き刺さる。
背鰭と甲羅との間に、僅かな軋みが生まれた。
スキュラの触腕を捩じ切った、彼のエルゴ領域が、呉爾羅の背の上で、ふたたび再現されていく。
呉爾羅の背部の背鰭の一端が、ぎしぎし、と軋みを上げている。
痛覚を感じているのか、或いは怒りを露呈させているのか、呉爾羅は其の肉体を大きく捻り、唸りを上げた。
その存在しない眼窩の視野からは視認出来ない物理的な攻撃に、小癪を感じているのか。
瞬時、である。
アンが甲羅を押し当てていた呉爾羅の背鰭の一本が、激しい
青白い光と共に、パルス的な衝撃波が背部で炸裂する。
呉爾羅は、悲痛にも近い咆哮を其の喉から漏らすと、其の体躯を激しく摩耗させ――瞬時。
びがり、びがりと。
されど、何かが突出する寸前で止まる。
瞬時、呉爾羅の肉体から発生した衝撃波が、アンの肉体を軽々と吹き飛ばした。
其の体躯から放射された物理的な波動に、アンは中空へと投げ出される。
大気圧の急激な相転移がアンの甲殻を軋ませ、そのまま数百メートル後方の泥濘へと不連続に叩き付けた。
衝撃によって周囲の土砂がクレーター状に陥没し、地表に激しい泥煙が立ち込める。
吹き飛ばされながらも、アンの脳髄は次の一手への演算を停止していなかった。
呉爾羅の口腔の奥で一瞬収束しかけたあの電離の兆候──それは、高次構素を現世へと強制固定する前の、最も破滅的な指向性の体内放射的プロセスに他ならない。
一撃でも直撃すれば、カメーバの維持する擬似安定系ごと、この座標は存在の歴史から抹消される。
呉爾羅は、吹き飛ばされたアンの肉体を、其の無き眼で捉えた。
一方のアンも、内に燃える動物的な生存本能、あるいは、一疋の暴竜怪獣としての性分を、甚だ抑え切れずにいた。
幾度も、幾度となく観測してきた、其れとの闘いの記憶。
嘗て、遥かの世界で対峙した、其れとの記憶。
ふつふつと湧き上がる、平行世界の死斗の記憶が、此の世界における彼等の実在を、より確固たるものへと土着させ続けていた。
崩落した石段の最深部で、巨躯を半分泥に埋もれさせたカメーバは、その四肢を重苦しく地表に固定したまま微動だにしない。
彼という存在が発する固有の質量は、上色見神宮一帯の物理座標を現世の定数へと繋ぎ止める絶対的な錨であったが、その錨の鎖が、呉爾羅の接近に伴って生じる高次情報圧により、一本、また一本と引き千切れつつあるのを、アンは知覚していた。
大気は青白く発光し、チェレンコフ光の残光が霧状に空間を飽和させていく。
呉爾羅がその巨大な、ケロイドの岩肌に覆われた両足を一歩踏み出すたびに、地表の土砂は数百年前に退行した原始の泥濘へと相転移を起こしていく。
針葉樹の残骸が瞬時に分解され、巨大な羊歯植物のシダやメタセコイアの幼生が、不連続なグリッヂを伴って地表から噴出を始めていた。
爾来遡行のプロセスは、もはや局所的な現象ではなく、此の槻御輿村の基底現実そのものを完全に入れ替えるための不可逆な津波と化している。
アンは、四肢の爪を深く泥へと突き立て、再びその肉体を水平に構えた。
その全身に張り巡らされた高次の脳髄は、すでに限界値を超えた演算速度で呉爾羅の次動作の確率予測を開始している。
――次に来たるは、破滅の光。
ちぇれんこふ、其が破滅の汽笛。
槻御輿縁記残録の断片どおりに、呉爾羅の其の背鰭は、青白いチェレンコフの光を、仄かに内包しつつあった。
伍列に並ぶ鋭利な骨構造の深部から、大気を電離させる冷徹なエネルギーが逆流を始める。
口腔から漏れ出す青白き光条は、接近する破壊の出力を、物理的に、視覚的に、確かに証明していた。
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