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天を衝くシダの巨木とメタセコイアの鬱蒼たる葉脈が、不自然な緑色の天蓋となって槻御輿村の全域を覆い尽くしていた。
数百年、あるいは数億年の時間を一瞬で跳び越えた爾来遡行の圧力は、近代の建造物の基礎を容赦なく破砕し、地表を水分に富んだ古生代の腐植土へと変貌させている。
凱は、不条理に隆起した太古の根を避けるように、セダン車のステアリングを狂暴な手つきで回した。
「ちくしょう、ナビも道もへったくれもねえッ…!」
「砂座間さん、前…前っ!」
オクヤスが双眼鏡を放り出して、フロントガラスの先を指差した。
メタセコイアの不気味な巨木の隙間、陽炎のように空間が捩れた領域から、陽炎の如き群体が飛び出した。
――鐡の蛾、
「勘づかれたか!?」
凱が声を上げた瞬間、其の群体は此方へと侵攻を開始する。
主の宿願たる爾来の遡行を――現に、呉爾羅の生体活動を妨げんとする謀反の存在を、絶対的な公理で排除せん、という、確固たる殺意のまなざしが、樹林の中を走り抜けるセダン車へと向けられる。
群体は、数理的な最適解を導き出すかのように、空間の不連続面を縫って急激にその密度を圧縮させていく。
木々の隙間から噴出した其れらは、金属質の羽ばたきを伴って、車の後方へと肉薄した。
翅に付着した超高密度の鱗粉から、びがり、びがりと、あのチェレンコフの青白い光がパルス状に放射され、周囲の巨大なシダの葉を瞬時に融解させる。
「速えッ、追いつかれますよ凱さん!」
「こんな所で…ッ、終わってたまるかってのッ!」
オクヤスの危惧を諭した凱は、泥濘と化した路面にタイヤのグリップを強引に喰い込ませ、アクセルペダルを床板まで踏み込んだ。
セダン車の排気音が、太古の密林が放つ特異な静寂を暴力的に引き裂いていく。
「…っ、ぐっ…!」
急激な加速の衝撃により、那の身体は後部座席のシートへと深く沈み込んだ。
後方から肉薄する鐡の蛾の群体は、生物的な飛翔理論を完全に無視した軌跡を描いていた。
其れらは空気抵抗という物理的な制約を排するかのように、空間の位相を滑るようにして直進し、セダン車の外装へ向けて、その金属質の翅を激しく撃ち鳴らしている。
翅の摩擦に伴って発生する高周波のノイズが、車内の鉄板を媒介にして那の鼓膜へと直接突き刺さり、脳組織の平衡感覚を不連続に麻痺させ始めた。
「凱さん、左ッ!回り込んできますッ!」
「あたぼう!」
オクヤスが不正規な悲鳴を上げると同時に、凱はステアリングを力任せに左へと捩じ切った。
車体が大きく傾ぎ、メタセコイアの幹から剥がれ落ちた巨大な樹皮を、前輪のタイヤが激しく撥ね飛ばす。
その直後、先ほどまでセダン車が直進していた空間の座標を、鐡の蛾の放った超指向性のパルス光が直線状に貫いた。
閃光が通過した部位の地表からは、水分が一瞬で沸騰し、水蒸気爆発による激しい泥煙が立ち込める。
大気圧の不連続な変動がセダン車の後部ガラスを激しく震わせ、那の視界を一時的に白濁とさせた。
「…っ、伊藤さん、策は!?」
那は、伊藤に打開の問いを投げかける。
「彼らは単なる生物じゃない…っ、呉爾羅の放つ、位相空間の
その言葉を裏付けるように、鐡の蛾の一陣が、セダン車の右側面に完全な平行軌道をとって肉薄した。
金属製の翅が、リヤフェンダーの鉄板を物理的に削り取る、凄惨な摩擦音が響き渡る。
バックミラー越しに視認できるその頭部には、複眼が存在しない。
ただ、歪な結晶構造をした発光体が、那の座る後部座席を冷徹に
「これ以上はボディーが持たねえ…ッ!砂座間さん、一か八か、鎖で叩き落とせねえのか!」
凱がバックミラー越しに怒号を飛ばす。
「無理です!」
「あんだって!?」
「ただ振り回しても、物理の系が違うとすれば、接触すらできない!」
那は膝の上に置かれた三本の鎖を、強く握り締めた。
芹沢から託された『魏』の鎖は、今なお現世への定着を拒むように、不気味な熱量を放ちながら静かに明滅している。
叩き込むべきは、此処ではない。
完全に乾き切った松中派出所の曼荼羅でなければ、この因果の楔は機能を発揮しないのだ。
びがり。
ふたたび、車内を青白い露光が支配した。
数匹の鐡の蛾が、セダン車のフロントガラスの直上にまで回り込み、その高次構素の放射器官である角部分が、糸を引きながら完全に開きかけていた。
直撃すれば、車体ごと因果の彼方へ消し飛ばされる。
「オクヤスさん、ダッシュボードに信号弾は!?」
那の叫び声に、オクヤスは半狂乱になりながらラッチをこじ開けた。
「これですか…ッ!?しかしあいつらに効くわけが──」
「今、発射してください!物理的な熱量で視界を遮るんじゃなく、受容体に一時的なノイズを叩き込んで『遅延』させる!」
オクヤスが震える手で信号拳銃を掴み、割れた窓からルーフ越しに引き金を引いた。
重い発射音と共に、強烈なマグネシウムの赤色光が、鐡の蛾の群れの中心で爆散する。
現世の純粋な燃焼反応による光量波形は、高次演算によって軌道を決めていた鐡の蛾の感覚器官に不連続なエラーを引き起こした。
数疋の個体が空中での姿勢制御を失い、メタセコイアの巨木の幹へと激しく衝突し、金属質の肉体を自己崩壊させていく。
「やったかっ!?」
オクヤスが歓声を上げる。
「いや、まだだ!第二陣が来るぞ!」
凱がステアリングを更に右へと切り裂いた。
古生代の泥濘を跳ね飛ばしながら、セダン車は太古の密林の出口──かつて松中派出所が存在した、あの剥き出しの因果の座標へと、決死の速度で突入していく。
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其の光景を、高次の襞のかなたから、不可視の眼が見据えていた。
何ゆえに、抗いを見せるのか。
何ゆえに、拒絶するのか。
己は、一個体の生物として存在する事すら、能わないというのか。
高次に至り、進化を重ねた呉爾羅の思考は、其れでもなお『存在を確固としたい』という、一種の強迫で塗り重ねられていた。
――眼前の小さき命達は、其れでもなお。
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アンを退けた呉爾羅の巨体は、上色見神宮の畔へと、其の歩を確かに踏み締めた。
今なお紅く染まる空を、其の存在しない瞳で視認すると、今いちど、天高く咆哮を掲げた。
不協和音が、大地に響く。
脳髄を鋭利な爪で掻き回されるような、絶対的な破壊の鐘が鳴り響く。
瞬間、呉爾羅の周辺を取り巻いていた生態系が、足元のカメーバを除いて、一変する。
呉爾羅の肉体から、巨大な
尻尾の節の隙間より、ピヨピヨピヨと、不気味な金切りの音を上げながら、
其の背鰭から、古い角質が剥離するようにして、双頭の
地表からは、多列の歯を携えた
針葉樹の隙間より出でるのは、
やがて穹に浮かびたつは、深紅の多眼を携えた、鋼たる
並行の断片より来たる、可能性の奔流。
其れはいまだ、此の世界における『現実』と呼べる定数には、存在していないのかもしれない。
或いは、これからの世界の一様を知らしめる為の、幻影的なヴィジョンなのかもしれない。
一方的な観測による視覚情報では、其の地獄ともとれる光景を、現実のものだと断定できない。
肉眼が捉える空間の歪みは、光学的錯誤の範疇に収まるものか、それとも時空そのものの変質なのか、わからない。
だが、呉爾羅の其の肉体が、今ある世界を蝕んでいく形で、其のまごう事なき四面楚歌の一様が、いま、確固たる事実へと変貌しつつあった。
存在の定義そのものが書き換えられ、周囲の物質が、大気が、悉く其の異形の進化に同調していく。
現実が侵食され、虚構が現実に成り代わるとき、
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