ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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調停(ちょうてい)(たもと)をわかつ

 

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セダン車は、古生代の密林と化した旧街道の緑苔を撥ね飛ばしながら、遂に、因果の特異点──かつての松中派出所が存在した座標へと躍り出た。

其の地表はもはや近代の舗装は残されておらず、天へと強狂に直立するメタセコイアの巨根によって、周囲の空間は完全に歪曲させられていた。

 

「見えたぞ!あそこが派出所のあった…ッ」

凱の叫び声が車内に響いた、まさにその瞬間。

上空の不自然な緑蓋を突き破り、先ほど信号弾のノイズによって軌道を乱されていた鐡の蛾の第二陣──より高密度に圧縮された数理項の群体が、セダン車へと目掛けて垂直に急降下した。

其の数は第一陣の数倍に及び、翅の摩擦音はもはや耳を圧する高周波ではなく、地殻そのものを振動させる破壊的な低周波のうねりとなって、車体の鉄板を激しく共振させる。

 

「──凱さん、上ッ!!」

オクヤスがフロントガラス越しに、空間の完全な歪曲を視認して悲鳴を上げた。

 

回避の余地は無く。

鐡の蛾の群体は、生物的な接触を目的とせず、その存在確率の重畳による『質量的な兵器』として、セダン車のルーフへと直接、物理的に固定された。

 

大気の破裂音を伴う、絶望的な破砕音が炸裂する。

セダン車のルーフが、一瞬にして内側へとV字型に圧潰した。

支柱が次々とへし折れ、強化ガラスの窓は全方位に向かって不連続な微粒子となって爆散する。

那の直上にまで迫った天井の鉄板が、彼の背部へと強烈な質量を以て衝突した。

 

「…っ、がはッ…!」

肺胞の中の酸素を強制的にすべて叩き出され、那の視界が急速に暗転しかける。

瞬時、那は掌に握られた鎖を、いまいちど握り締めた。

「…那くんッ…!」

フロントガラスの破片が降り注ぐ前席から、伊藤の悲痛な叫びが、鼓膜の記述を強引に揺り動かす。

車体は、上空から叩き付けられた鐡の蛾の圧倒的な質量圧に抗えず、不自然に車軸をへし折られながら、古生代の腐植土へと激しく斜めに滑り込んでいった。

 

路面の隆起したメタセコイアの巨根は、セダン車のフロントマスクを容赦なく破壊し、エンジンブロックが爆発的な白煙を上げながら大破する。

車内には、座席のクッションが裂けたウレタンの異臭と、ラジエーターから噴出した沸騰水の熱気が、一瞬にして充満した。

 

「…く、そ…ッ、動け…っ!」

凱が歪んだステアリングに胸部を強打されながらも、なおも前進の因果を掴み取ろうと、血の滲む手でシフトレバーを動かそうとする。

だが、トランスミッションは既に粉砕され、鐡の塊と化した車体は、二度と駆動の波形を取り戻すことはなかった。

オクヤスは、助手席のドアが内側にひしゃげ、右半身を強固に挟まれた状態で、苦悶の声を漏らしている。

 

「砂座間…さん…伊藤、さん…っ、早く、外へ…っ!」

那は、背部に加わった鉄板の衝撃波による鈍痛で、肺の機能を一時的に麻痺させられながらも、泥塗れの床面へと這い出た。

割れたリヤウィンドウの枠から、這うようにして外界の湿った空気の中へと自らの肉体を押し出す。

掌に触れるのは、かつて近代の科学が施したアスファルトの質感ではなく、ぬめりを持った、古生代の巨大な苔類の感触であった。

 

那に続いて、後部座席の反対側から伊藤が、ひしゃげたドアの隙間を無理に抉じ開けて外へと這い出してきた。

彼女の衣服は各所が裂け、露出した皮膚には割れたガラスの微粒子による無数の切り傷が、朱色の点描となって刻まれている。

「…那くん…っ、大丈夫…っ!?」

伊藤は泥濘に両手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら那の安否を確認する。

那は、背部を圧潰した鉄板の凄惨な質量による痛覚を脳の隅へと押しやり、ただ無言で顎を引いた。

声帯が一時的な衝撃で固着し、正常な発声を拒んでいる。

 

二人が泥土の上で辛うじて上体を起こした瞬間、背後の鐡の蛾の群体が、再びその金属質の翅を激しく震動(ふる)わせ始めた。

セダン車を完全に破壊し、その駆動系を沈黙させただけでは、彼らの排除プログラムは完了していない。

主たる呉爾羅の爾来遡行を阻む因子──那の掌にある『魏』の鎖を完全に破砕するまで、その数理的な殺意が減衰することはなかった。

 

「…おい、オクヤス!起きろ起きろ!」

大破した車内から、凱の掠れた怒号が響く。

「…ッ、でも、足が挟まって…動けない…っ!」

オクヤスの悲痛な音声が、変形したフレームの隙間から漏れ出す。

凱は、自身の胸部の痛みを無視して、助手席のシートを強引に引き剥がそうと、血塗れの腕で文字通り肉体を酷使していた。

 

数疋の鐡の蛾が、完全にひしゃげたボンネットの上へと、不連続な軌跡を描いて着地した。

翅から放出されるチェレンコフの青白い残光が、ラジエーターから噴出する白煙と混ざり合い、周囲の古生代の密林を怪異な色彩で照らし出す。

彼らの口腔が再び垂直に裂け、空間を焼き切るパルス光の充填が開始された。

 

「…待って…っ!!」

伊藤は、其の腕を目一杯に伸ばして、蛾を制止した。

一瞬のあいだ、ボンネットの上に静止した鐡の蛾の群れの動きが、奇妙な硬直を見せる。

 

「…わ、わたしは…っ」

決死の表情で、眼前の異形へと歩を進める。

「わたしたちは…っ、あなたたちの主君を…っ、殺そう、なんて…っ、思っていない…の…っ!!」

その言葉は、古生代の濃密な大気の中へ、悲痛な論理値として放たれた。

伊藤の叫びは、生物的な対話を求める哀願ではなく、観測者として、そして調停者として、系の破綻を回避せんとする絶対的な意思の表出であった。

「あなたたちが…っ、わたしに、意味を与えてくれた…っ、あなたたちが、だいすき、だから…っ!」

彼らの角で充填されつつあったチェレンコフ光の明滅波形が、不規則なグリッヂを伴って一瞬だけ減衰した。

「…だから、おねがい…っ」

伊藤は泥に塗れた両膝を震わせながら、なおも視線を逸らさずに異形を凝視(みつ)め続ける。

彼女の朱に染まった目尻からは、極限の精神圧によって涙が滲み、泥と血の混じる頬を伝って地表へと滴り落ちていた。

 

凄惨なまでに、張り詰めた静寂。

然し、それも刹那の猶予に過ぎなかった。

 

びぎ、と。

ボンネットに直立する鐡の蛾の結晶構造をした発光体が、再び冷徹な赤色の光度を増幅させ始めた。

 

主たる呉爾羅の生態系改竄──其の絶対的な宿願を遂行するプログラムにとって、人間の感情という不確定因子は、排除すべき数理のエラーでしかなかった。

「…伊藤さん、駄目だ…っ!下がって…っ!」

那が、掠れた声で叫ぶ。

背部の鈍痛が神経系を苛烈に蹂躙(じゅうりん)する。

其れでもなお、泥濘に両手を突き、這うようにして伊藤の細い足元へと自らの肉体を近付けた。

 

瞬時、鐡の蛾の翅が激しく擦れ合い、地殻を震わせる低周波のうねりが再び周囲のシダ植物の葉を激しく揺らした。

減衰しかけたパルス光が、より純度の高い青色へと急激に相転移を起こしていく。

 

――もう、制止の論理は通じない。

 

「ここまで来てからに…ッ!!」

大破したセダン車の内部から、肉体の限界を遥かに超越した、凱の怒号が響き渡った。

変形したフレームの隙間から、血塗れの凱の右腕が突き出された。

その手には、先ほどオクヤスが投げ出した、金属製の重厚な双眼鏡の筒身が握られている。

凱はシートの破片に自らの肉体を擦り付けながら、割れたフロントガラスの枠から上半身を強引に乗り出し、ボンネットの上の鐡の蛾へ向けて、その鐡塊を渾身の力で叩き付けた。

鈍い破砕音が響き、直撃を受けた一疋の頭部結晶が木っ端微塵に爆散する。

 

「砂座間さん!伊藤さんを連れて早くそこを離れろッ!」

「しかし…っ!」

「…クサい台詞を言うようで申し訳ないが、砂座間さん、此方は俺達が引き受ける!」

物理的な奇襲によって演算を乱された群体が、一斉に不連続な軌跡を描いて中空へと舞い上がった。

口腔から放たれた数筋のパルス光が、標道を狂わせたままセダン車のボンネットを直線状に貫く。

一瞬にして沸騰したラジエーターの液が、激しい白煙となって周囲の視界を完全に遮断した。

 

「…っ、オクヤスさん!凱さん…っ!」

那は、白煙の向こうで未だひしゃげた鉄板と格闘している二人の座標を網膜に焼き付けながらも、伊藤の泥塗れの細い手首を強く掴んだ。

「まだ…きっと、残っています…っ!」

伊藤は朱に染まった目尻を大きく見開いて那を見た。

彼女の瞳には、自らの調停が拒絶されたことへの絶望と、それでもなお現世の記述を維持せんとする観測者の光が、複雑に交錯している。

「…うん…っ、うん…っ!!」

二人は、メタセコイアの巨根が不条理にのたうつ腐植土を、其の掌を紡いで、足早に駆け出し始めた。

背後からは、セダン車の残骸を完全に溶解せんと、鐡の蛾の第二陣が放つチェレンコフ光の凄惨な明滅が、白煙を青白く透過して迫りつつあった。

 

---

 

「しっかりしろ、オクヤス、根性据えろッ!この鐡板を引っぱるぞ!」

凱は、自身の右腕を酷使して変形した助手席のフレームを強引に牽引(けんいん)し、摩擦による火花で掌の皮膚を焼きながらも、なおも叫び声を挙げていた。

「凱さん…っ、駄目だ、視界が青に、染まって──」

オクヤスは、右半身を強固に緊縛する鋼鉄の質量圧と、窓外に密集する鐡の蛾の金属翅が放つうねりに脳組織の演算領域を直接侵食され、半狂乱のままに視界を白濁させていた。

数疋の鐡の蛾が、完全にひしゃげたルーフの上でその口腔を垂直に割裂させ、高次パルスの指向性波動を車内へと直接放射せんとする。

 

「舐めるんじゃあねえ、こんの侍り蛾ッ!!」

凱は、手元に残留していた重厚な双眼鏡の筒身を、最も近接した個体の頭部の結晶へと再び叩き付けた。

 

その間に、那と伊藤はメタセコイアの不条理な巨根がのたうつ泥濘を、互いの掌を固く結び付けたまま、足早に駆け抜けていた。

やがて、二人の網膜が現世の座標系における松中派出所の存在した絶対位置を捉える。

 

其処は、巨大な船虫(ふなむし)の巣窟と化していた。

天へと強狂に直立する巨木の根元、かつて血の曼荼羅が記述された不連続面の全域において、十数センチメートルに及ぶ硬質の甲殻を持った蟲の群れが、現世の物理定数を冒涜する密度で蠢動している。

 

それは、かつて芹沢が『槻御輿縁記残録(つきみこしえんきざんろく)』の記述に遺した、曼荼羅の周囲を埋め尽くす蛾と船虫の列挙、そのものの再現。

高次存在の顕現に伴い、数百年前に退行した太古の皮膚が、この派出所の座標に完全なる物質的実証を以て、確固として定着していたのだ。

 

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同時刻、上色見神宮の崩落地に座するカメーバの巨躯は、系の許容量を完全に超越した情報圧に晒され、その存在確率の維持が閾値へと近付いていた。

空間の液状化を一時的に無効化していた彼の絶対的な質量が、呉爾羅の進攻に伴って生じる時空の引き裂き運動に耐え切れず、不連続な亀裂の波形をその甲羅へと刻み始める。

 

呉爾羅は、自らの爾来遡行を阻害する絶対的な錨──カメーバの存在を明確に感知し、其れを完全に捻り潰さんと、その巨大な質量を神宮の最下層へと差し向けた。

大気を引き裂く、劈くばかりの怒号が空間を暴力的に支配する。

 

呉爾羅がそのケロイドの岩肌に覆われた右足を、カメーバの頭部へと踏み下ろさんとした、まさにその瞬間。

死線を視認したアンが、内に宿る動物的な生存本能を極限まで励起させ、自らの四肢を泥濘から跳ね上げた。

 

瞬時、その肉体を空中に投げやると、物理的な情報を位相ごと内側へと巻き込み始める。

一瞬、非ユークリッド的な平面の形態を経由したのち、其の位相は完全なる球体へと置き換えられていく。

高次の数理モデルを不連続に変調させながら、完全なる『怪球』の形態へと相転移を遂げた。

 

アンは、呉爾羅の巨大な脚部が描く落下の軌道へと自らの硬質な質量を弾丸の如く衝突させ、その接触面において局所的な時空の展延を引き起こした。

幾何学的に固定された棘の配列が、呉爾羅の足首の組織へと深く物理的に噛み合い、その圧倒的な下降エネルギーを強引に別次元の座標へと霧散させていく。

 

呉爾羅は、自らの進路を阻む概念生物の抵抗に明確な脅しをかけるように、その存在しない眼窩の奥、そして口腔の最深部をびがり、びがりと、最悪の青白い露光を以て明滅させ始めた。

次なる絶対的な熱線の放射プロセスが、神宮の局所空間においてカウントダウンを開始する。

 

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視点は、松中派出所の血の曼荼羅付近へと戻る。

那と伊藤は、中央に刻まれた鎖の始原たる記述へと接近すべく、蠢く船虫の大群へとその歩を進めていた。

一歩を踏み出すたびに、十数センチメートルに及ぶ蟲の硬質な甲殻が両脚の各所にまとわりつき、その物理的な重量と粘着質な分泌液によって、足取りは深い泥濘に足元を完全に奪われたかのように、非常に重たい。

 

然し、古代の船虫は其処にただ物理的な障害として存在していた訳ではない。

突如として、那の全身の神経系を、内側から脈動するような激しい鈍痛が蹂躙した。

「…っ、あ、ぐ…うう…ッ!?」

喉元から、圧搾された悲鳴が漏れ出す。

 

顕現した船虫の群れは、上空の鐡の蛾と同様に、主君たる呉爾羅の爾来遡行に仇なす記述者、独立観測者──その存在確率を抹消すべく、一斉に『吸血』の行動を開始したのだ。

かつて伊藤の右腕の裂傷を保護するために破り捨てた、那の衣服の隙間の腹背より、剥き出しになった皮膚の各所へと、蟲の鋭利な口器が容赦なく突き刺さる。

 

伊藤の肉体にも、その苛烈な猛攻は等しく伝播していた。

衣服を引き裂いて這い上がる無数の船虫が、彼女の細い肢体に纏わり付き、同時に侵食的な吸血を続けていく。

 

「…那くん…っ、わたし、は…っ、まだ、諦めない…っ!」

伊藤は、皮膚を咀嚼される激しい痛覚に視界を朱色に染めながらも、その瞳に宿る知的な光を一切失うことなく、泥に塗れた両膝を前へと進めていた。

「…っ、伊藤、さん…っ」

那は思案する。

其れでも、彼女が記述せんとする調停の道であるならば、と。

自らの右手に残された熱量を振り絞り、伊藤の掌をより一層強く握りしめた。

二人の皮膚の水分と血液が、蠢く蟲どもの隙間で混じり合い、現世の確かな熱量となってその座標に滞留する。

 

船虫の群れに指先をも深く噛み付かれ、肉を削ぎ落とされながらも、二人は執念深くその大群を掻き分け、遂に血の曼荼羅の中央が顕れる。

最初の『あらわれ』――伊藤が此処に記述した、血の曼荼羅に座する始原の数理項──「ζ」の文字を網膜に視認した。

この完全に乾き切った論理回路に三本の鎖を撃ち込めば、系の再記述は完了する。

 

──瞬間。

二人の背後、古生代の密林の境界線より、大気を完全に電離させる激しい光が、びがり、びがりと、不気味な光度を以て放射された。

 

呉爾羅が、此方の因果の特異点に気付いた、決定的な証拠。

上色見神宮でアンが展開した時間稼ぎを無視し、主たる存在の肯定を脅かす最大のエラーを排除すべく、その絶対的な熱線の放射座標が、此方へと向けられていた。

 

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