ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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菩薩ヶ組曲(ぎぎたるしらべ) 心経拝謁(ここにてかたる) 空想祝詞(ゆめゆめのりと) / 魏怒羅(ギドラ)

 

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呉爾羅は、既に其の体制を整えていた。

顎が垂直に裂け、口腔の最深部から放たれる青白き光条が、大気圧を不連続に変調させながら派出所の跡地へと殺到する。

現世の如何なる物質的防壁をも一瞬で無へと帰す、絶対的な破滅の波動。

 

直撃まで、コンマ数秒。

 

其の時である。

「……っ!」

ζの記述を見据えていた那が携えていた鎖が、微かな発光をきたした。

 

「…まさかっ、芹沢、さん…!?」

その瞬間、血の曼荼羅の記述権──かつて鐡の蛾の群体によって強硬に強奪されていた派出所跡地の主導権が、時空を超えた絶対的な『公理』の介入によって、元の記述者へと強引に引き戻された。

 

那は思案する。

第零次元のかなたより、先代の独立観測者が、其の力を私達に貸さんとしていると。

 

空間の位相が、爆発的に反転する。

 

「だ、ああ…ッ!?」

それまでセダン車の残骸を包囲し、凱やオクヤスを死の閾値へと追い詰めていた鐡の蛾の第二陣が、存在の正当性を完全に剥奪され、不気味なグリッヂを伴いながら一斉に霧散、消滅していった。

「き、消え…ッ」

 

記述の奪還は、それだけに留まらない。

派出所の血の曼荼羅から発生した強烈な拒絶の波動が、かつてその座標に土着していた一疋の守護獣(けだもの)の影を、現世へと強制的に召喚する。

 

呉爾羅の熱線が放たれんとした、其の瞬間であった。

 

伊藤は、激しい予感を感じる。

微かな温もりと、信頼の残り香。

 

「――シーザさん…っ!!」

瞬間、放たれた熱線は、十数キロほど離れた木々の節目へと、光の速さで突き抜けていく。

然し、其の奔流は、発射地点より中間にあたる位相で、完全に跳ね返された。

 

其処に、在る。

曼荼羅の幾何学的復権に伴い、空間の断層を物理的な肉体へと置換したシーザの威容が、確固たる質量を伴って顕現していた。

その獅子の如き頑強な四肢と、六に及ぶ眼圧は、原始の泥濘へと深く、厳格に固定されている。

 

シーザは、自らの双眸に宿る紅蓮の結晶構造を限界まで励起させ、押し寄せる熱線の指向性を正面から強制的に歪曲させていた。

高次エネルギーを光学的・位相的に屈折させる独自の機能が、その眼力によって体現される。

反転した熱線の一筋は、不連続な軌道を成して、放つ側であった呉爾羅の巨大な右胸部へと正確に撃ち返された。

 

超音速のブラストを伴う、凄惨な爆破音が上色見神宮の一帯を震撼させる。

自らの放った絶対的な熱量を至近距離で浴びた呉爾羅のケロイド組織が、青白い閃光の中に激しく爆ぜ、数万トンの質量が僅かに後方へと揺らぐ。

絶対的な一撃の直撃を受け、呉爾羅の全体意識の中に、未だかつてない巨大な「揺らぎ」が齎された。

 

彼れが自らの存在確率を確固たるものにせんと、現世の時空を白亜紀の組成へと強制置換するその出力に、一瞬の非対称な隙が生じる。

其の認識のブレに呼応するかのように、呉爾羅の肉体から蛆のように這い出た其れらの存在が、次々と現出し始めた。

 

上色見神宮から松中派出所へと至る空間の各所において、時空の不連続な断層が次々と裂け、其処から古生代とも異なる、別の可能性世界において呉爾羅に付き従っていた怪獣たちの輪郭が、次々と実体化を開始する。

 

天蓋を割って現出せるは、巨大なる三対の翅を持つ蟷螂(カマキリ)の、凶禍なる群勢。

地殻を垂直に割り、数理的な死の網を紡ぐ巨大なる蜘蛛(クモ)の硬質な肢。

 

そして、熱線の残光を浴びながら、針葉樹林の灰煙の向こうから不吉な風切音を伴って飛来する、巨大なる双頭の翼竜(ラドン)の、超音速の影。

現実と虚構のはざまにて、呉爾羅より産まれ出でた其れらは、一斉に呉爾羅に対して、其の奔流を浴びせ始めた。

 

その光景を、蠢く船虫の隙間から見据えていた伊藤の網膜が、知的な狂気と共にその数理的意味を瞬時に看破する。

「…っ、ま、まさか…っ、わ、私たちの、味方を…っ?」

伊藤が推察したのは、『利害一致による徒党』の一幕であった。

 

呉爾羅が『再び存在を確固としたい』という願望の捻出によって、現に此処で爾来を遡している事実。

伊藤らが『呉爾羅の存在を押し返さず、凍結して現実の肉体のまま残し、対話を続ける』という、方法は違えども、奇しくも彼れの願いを果たさんとする策。

其の奇妙なまでの因果に呼応した怪獣(けだのもの)達が、呉爾羅へと立ち向かっていく。

 

しかし、世界の改竄そのものを本能とする爾来派の軍勢もまた、この座標の崩壊を許しはしなかった。

地殻の裂け目から、巨大な薔薇(ビオラ)の触腕が狂暴に這い出、天空からは呉爾羅の細胞を色濃く受け継いだ、藍の鋼色の眷属(セルヴァム)の群れが、現世の記述を貪り尽くすべく飛来する。

 

蜘蛛が、薔薇の触手を噛み千切る。

中空で、翼竜と眷属が衝突する。

蟷螂が、溢れ出る船虫の奔流に呑まれていく。

 

己の肯定のために分裂した怪獣たちが、互いの実在を賭けて喰らい合う総進撃のさまが、今、此処に在った。

 

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那と伊藤は、周囲の空間が怪獣たちの絶望的な質量衝突によって(きし)むのを網膜の端に捉えながらも、「ζ」の座標を見据え続けていた。

吸血を続ける船虫の群れが、彼らの肉体の組織を削ぎ落とさんばかりに飢餓の口器を突き刺してくる。

その凄惨な痛覚情報と、船虫の必死の吸血は、いまや好奇と決心の前では、既に徒労となっていた。

 

「…伊藤さん、今ですッ!!」

那の叫び声と同時に、二人は互いの血液と泥濘が混じった掌で、鎖を握りしめる。

瞬間――「ζ」の文字へと同時に撃ち付けた。

 

瞬間、那の手元に残留していた三本の鎖が、派出所跡地の完全に乾き切った回路へと吸い込まれるようにして、地脈へと突き刺さった。

 

その結合の瞬間、那は懐から、先ほど拝殿の棚から回収した一枚の紙──芹沢の遺した、活漢字の奔流たる写経用紙を毟り取るようにして引き抜く。

紙面に、船虫に噛み砕かれた指先の血液が付着する。

「伊藤さん…此れを、一緒に!」

那の言葉に、伊藤は朱に染まった目尻を大きく見開いて、激しく顎を引いた。

二人は、古生代の濃密な大気と怪獣たちの咆哮が混ざり合う狂暴な空間へと、その声帯の全出力を以て、其のプロセスを開始した。

 

時至明暁(じしめいぎょう) 五蘊皆空(ごうんかいくう)

夜明けとともに、すべてはうつろい、

 

度一切大災(どいっさいだいさい) 自此光明(じしこうみょう)

凡ゆるわざわいを乗り越えて、此処に光となるそれは、

 

不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)

はじまりもなく、けがれもなく、うしなわれることもなく。

 

二人の声が重なるにつれ、松中派出所の座標から上色見神宮の崩落地に至る全域の地殻が、これまでにない固有振動数を伴って激しく震動し始めた。

吸血を続けていた船虫の群れが、その不可逆な論理の詠唱に耐え切れず、一疋、また一疋と甲殻を自壊させながら地表へと崩れ落ちていく。

 

無無明(むーむーみょう)

一切合切の迷いなき、ゆえに、

 

亦無無明(やくむーむーみょう)

この『明け』は滅ぶことがなく、

 

波羅(はら)

のち、彼岸へと至る。

 

是故空中(ぜこくうちゅう)

ゆえ、ここに在る世態は、

 

無色無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)

なにものにもかえがたき。

 

詠唱の熱量は限界値を超え、引き裂かれた衣服の隙間から覗く二人の皮膚が、微かな光を帯びていく。

 

遠方の上色見神宮に座する呉爾羅は、自らの『存在の肯定』を根本から再記述せんとするこの論理の奔流を明確に感知し、押し寄せる反逆派の怪獣たちを巨大な尾の一撃で薙ぎ払いながら、凄惨な咆哮を全方位へと轟かせた。

衝撃波で肉体を破砕された薔薇の花弁が舞い上がり、血と肉の奔流とともに、大量の蟲達が空へ投げ出される。

尾に薙ぎ払われた翼竜と眷属の群れが、其の数を減らし、失墜していく。

 

唯有極夜(ゆいうごくや) 将尽黎明(しょうじんれいめい)

空想のいきをはなれ、

 

遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟明暁(くきょうめいぎょう)

すべてのまぼろしは、常世へときはなたれ――

 

 

全ての因果が、此処に集約される。

 

観測に徹していたはずの彼は、世界を救わんと命を賭す。

観測に徹していたはずの彼女は、世界を救わんと詩を紡ぐ。

 

今、此の生の実感にて、其の後悔も、

積年の苛みすらも、愚かしき功罪すらも、

 

すべてが、かれらの、実在の証となる。

 

 

 

阿耨多羅(あのくたら)あ゛あああ―――――――――ッッ゛!!!!」

 

 

最後の数理項が、空間へと撃ち込まれた。

 

 

 

 

 

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呉爾羅の、巨大な両足の直下。

上色見神宮の崩落した石段の最深部に刻まれていた血の曼荼羅から、現世の物理定数を完全に凌駕した、激しい光の粒子の奔流が、爆発的に噴出した。

 

其の光輝の奔流が舞う。

大蛇が穹へと烈しく這い登るが如き、非ユークリッド的な軌跡を空間に描く。

呉爾羅の二百五十メートルを超える超大質量を、足元から頭頂に至るまで雁字搦めに縛り上げていく。

 

光の鎖が収束するその先端には、呉爾羅の輪郭に酷似しながらも、より凶禍にして高次の意匠を持った「頭部」が急激に形成される。

 

然して、各々が独立した知性を以て、駆動を開始した。

 

其処に顕れた菩薩の存在は、芹沢の残した言葉どおりの『相対するに相応しき』形態となり、対峙する呉爾羅の存在を、より確固たる所在へと帰依させていた。

 

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