ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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ECHOES OF LOVE
何時(いつ)かの(かれ)の夢


 

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波の音が、不自然なほど規則正しい周波数を伴って、閉ざされた視界の奥へと滑り込んできた。

網膜をゆっくりと持ち上げると、其処に見慣れた木造の天井が、近代の幾何学的な正確さで張り付いているのができた。

 

港町にある実家の、六畳間の自室であった。

 

畳の隙間に溜まった微細な塵の輪郭や、窓外の防波堤に衝突する飛沫の白濁にいたるまで、現世の物理法則に則った解像度を以て、空間が網羅されている。

台所の方角からは、煮炊きを行う調度類の金属音が、生活の記号として鼓膜を震わせていた。

 

那は、上体をゆっくりと引き起こす。

寝具の木綿が擦れる音を皮膚の表面で感知しながら、自らの思考の整合性を確認する。

此れは、記憶の引き出しに仕舞い込まれていた過去の記述の再現、もとい、脳髄が死の直前に見せる精緻な夢の類ではないかという疑念が、胸腔の奥を急速に冷却していく。

 

南邦御威山へと向かう、彼の日の朝の再現であった。

 

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階下へ降りると、見慣れた肉親の顔容が、かつての時系列のままに配置されていた。

交わされる語の葉の、一音一音の抑揚すらも、過去の再現データとして完璧に合致している。

 

そのあまりの完全性が、かえって那の全身の骨格を、竦むような恐怖と嫌悪感で縛り上げていった。

 

過去の因果律の檻へと再び幽閉され、自らの実在が、あの灰色の結末へと収束していくような錯覚。

然しながら、玄関の戸を開ける。

 

瞬時にして世界の場面は転換を迎え、あの日と同じ広葉樹林の登山道へと足を踏み入れた瞬間、隣を歩く影の、快活な音調が鼓膜へと侵入してきた。

 

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「こないだ警報が解除されて、ようやく山頂まで登れるようになったって聞いた時、もう疼きが止まらなくてねえ!」

その言葉の主は、かつて那の眼前で灰の海へと消滅した、友人の肉体であった。

彼の纏う登山用ジャケットの、鮮烈な橙色(オレンジ)の色彩が、針葉樹林の木漏れ日を反射して、やや明瞭な光を帯びていた。

 

那の喉元から、当時の若々しさと、世態を知らぬがゆえの迂闊な言い回しが、規則に従って漏れ出た。

「流石は、言わずと知れた…山脈オタク?」

「…それは…褒めてる?」

友人は、歩調を緩めることなく、怪訝そうに首を傾げた。

「当たり前でしょ?この賛美を汲めないとはね」

「で〜たでた!那の世渡り下手!そんなんだから――」

「別に、僕は…ありきたりな言葉で、褒めただけだから」

 

些細な意見の相違。

登山ルートの選択や、歩行速度の不一致といった、瑣末(さまつ)な蟷螂の斧の如き諍い。

険悪な沈黙が、二人の間に流れ始める。

 

この沈黙と停滞が、避難の決断を数分遅らせる。

そして、その数分が、生死の絶対的な境界線となるのだという規則。

小さな心のひだに潜む悪意への罰として、あの濁泥(ヘドリュウム)が、友人の肉体を一瞬で視界から抹消するのだという恐怖が、那の足の質量を鉛のように重く固定しようとする。

 

――筈で、あった。

 

那の口から放たれる言葉達は、しだいに和らぎを見せていく。

泥と、自身の血液。

それが混じり合った掌の皮膚の奥に、先ほどまで限界まで握り締めていた伊藤の細い指先の、現世の実在の証としての、確かな「熱量」が残されていた。

 

その微かな脈動と温もりが、高次の情報空間を貫いて、那の精神を引き戻す。

 

此れは、過去への退行ではない。

罰としての幻覚でもない。

 

砂座間 那という一個体は、呉爾羅という理不尽な高次存在を受容し、其の上で、この第零次元の深淵へ足を踏み入れたのだという、冷徹な実情の認識。

 

確固たる実在の認識に伴い、那の精神構造と口調は、当時の幼き自己抑制から、数々の死線を調停者として潜り抜けてきた現在の形へと、急激に相転移を遂げた。

其処にある筈だった記憶は、徐々に変化の兆しを見せていく。

 

那は、自らの意思で、重力を踏みしめるようにして歩を進めた。

すると、視界を覆っていた鬱蒼たる林の輪郭が突如として歪み、空間の位相が不連続に変調する。

 

開けた山頂の座標。

其処には、あの日には存在し得なかった、不自然なほどに鮮烈な狂い咲きの河津の桜の花弁が、空間の全域を舞い散っていた。

その極彩色の中心に、橙色のジャケットを纏った友人の残像が、一切の怨嗟を削ぎ落とされた純粋な情報体として、静かに佇んでいた。

 

「…私は」

那の口から、童的な一人称が消える。

現在を生きる調停者の、静かな声が放たれた。

 

あの日、彼を救えなかったことへの積年の後悔。

他人に嫌われることを災厄の引鉄と定義し、自らの輪郭を消すことでしか生きられなかった生存戦略の功罪。

そのすべてを、一切の虚飾を排した、冷徹な言葉で打ち明けていく。

 

「私は、自らの内にある悪意と、引き寄せられる災厄の因果に怯え続けていた。けれど、今は違う。私は、現世の不条理な調停を経て、確かに此処に在る」

 

伊藤と、凱らと共に生き抜き、世界を記述し直したからこそ獲得できた、『現世を賛美し、生きていく』という、強固な生存へのエゴの宣言。

友人の残像は、その剥き出しの本心を静かに聞き終えると、多くを語ることはしなかった。

 

ただそっと、歩み寄る。

 

「知ってるよ、那がずっと、あの日から…立ち止まったまま、自分の形を削り続けていたことくらい」

然して、那の震える肉体をその両腕で抱き寄せた。

ナイロンの擦れる音が、かつての破滅の記憶ではなく、完全な安寧の記述として空間に固定される。

 

「…っ」

那の目尻から、張り詰めていた定数の決壊とともに、ぽつり、ぽつりと透明な液体が流れ出た。

友人は、その熱量を孕んだ粒を、かつて共に過ごしたあの日と変わらぬ指先を以て、そっと優しく拭い取った。

その皮膚の接触が齎す微小な摩擦抵抗こそが、那の脳髄において、過去との完全な和解を証明する物理的実証となる。

 

「…ありがとう」

那の口頭から、自らの内に残された全ての感情の出力を以て、最も伝えたかった一言が放たれた。

然して、その実在の記述をこの座標へ永久に固定するための絶対的な数理項として、彼の名前を明確に空間へと撃ち鳴らした。

 

「…英猪(えいじ)

 

その固有の識別名が呼称された瞬間、あの日から那の存在確率を縛り続けていた過去の呪縛は、その役割を完全に終えた。

精緻を極めていた山頂の夢の輪郭は、現世の定数へと還るようにして急速にその解像度を失い、白い光の粒子となって空間の各所へと霧散を開始する。

狂い咲いていた桜の彩色も、橙色のジャケットの輪郭も、不連続なぼやけの彼方へと溶けていく。

 

最後に、英猪の残像はその掌を、那の背中の中心へとそっと当てた。

現世の光り輝く明暁の地平へと、迷いのない一歩を促すための、力強き推進力の付与。

 

「往きなよ、那。君を待っている記述者のところへ」

 

背後から受けた確かな慣性の法則を感じながら、那の意識は、情報の深淵から、待つものがいる現在へと、急速に浮揚を開始していった。

 

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