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セダン車は年季の入った国産車。
その内部には、幾星霜もの
運転席には凱が、助手席にはオクヤスが陣取り、後部座席の左右には那と伊藤が、それぞれの窓際に押し込められるように座らされた。
「さあ、シートベルトはしっかりな。生命を守る基本兵装というやつだ。最近は後部座席だからって油断して付けない輩もいるもんだから、此方としても一言置いておく事にしている」
凱がイグニッションを回し、エンジンを始動させながら声をかける。
低く安定したアイドリング音が車内に響く。
「この車は右後ろのドアの立て付けが非常に御粗末。乱暴に開閉を繰り返すと、次の開け閉めでガタが来る仕組みなので…」
凱はバックミラーの角度を微調整し、後部座席に鎮座する伊藤の巨大な鞄へと視線を這わせた。
「気配りを頼むよ、特に荷物が多い君」
伊藤は挙動を歪めながらも、重厚なリュックを膝の上に抱え直し、ドアを慎重に閉めようと試みた。しかし、その時――。
「よし…っああっ!?」
不意に吹き込んだ風に煽られ、半開きのドアが物理的質量を伴って急速に閉じようとする。
バランスを崩し、車外へと投げ出されそうになった伊藤の細い肩を、隣に座る那が咄嗟に、かつ静かに支えた。
「…大丈夫ですか?お気を付けて…」
那の問いかけに対し、伊藤は数回、小刻みに頷くことで感謝の意を示した。
那の指先に残る彼女の体温は、驚くほど低い。
ゆっくりと発進した車が、慣れ親しんだ村道を抜け、幹線道路へと向かう。
窓の外には、朝日に照らされた
那は、この空間に存在すること自体が、自分の好奇心が起こした一連の行いへの一種の
「波風を立てず、背景に溶け込む」ことを生存戦略としてきた自分が、補導や任意同行に近い状況下に置かれている。
この事実が、彼の内面にあるアイデンティティ激しく磨耗させていた。
ふと、那は隣の伊藤を視認した。
彼女は極限まで身を縮こませ、クロッキー帳を
「…シーザさんっ……守って……っ」
酷く掠れた、湿り気を帯びた声色。
「クロッキー帳」という物質的な媒体に向かって、小声で懇願し続ける彼女の光景が、那の知覚と聴覚を同時に揺さぶる。
那は僅かに心配するように首を傾げたが、それ以上、彼女に対して何らかの言語を投げかけることはしなかった。
――と言うよりは、出来なかったと定義すべきか。
自らの思考体系の範疇を遥かに超越し、高次へと接続された個体との対話。その予後に、今更ながら、根源的な
「……何を呟いている?」
凱が怪訝そうにミラー越しに伊藤を注視する。
「――ひっ!? い、いえっ!」
伊藤はびくびくと全身を震わせ、さらに自らを収縮させるように縮こまった。
那もまた、自らの存在を透明化させるかのように項垂れて俯く。
車道をセダンのタイヤが蹴る駆動音と、一定の速度で流れゆく景色。
こんな時に限って紺碧に澄み渡った空を、那はただ、無力な「観察者」として眺める他なかったのだ。
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安っぽい蛍光灯が発する微細な
那はその狭小な空間に押し込められ、パイプ椅子の硬い感触を臀部で受け止めながら、自身の
正面には、先程の草臥れた刑事、
彼は手慣れた動作でメモ帳を開き、胸ポケットから取り出した使い古されたボールペンの芯を、カチリと乾いた音を立てて出した。
その隣では、巡査の
「さて。まずは確認だ。住所、氏名、年齢。それから現在の職業を」
凱の声は、車内での茶目っ気を削ぎ落とした、
二十四歳、フリーランスのライター、砂座間 那。
自らの属性を定義する言葉を吐き出すたびに、それらが公的な記録という
「…貴方、成人されてらっしゃったのね。…よし砂座間さん、単刀直入に伺おう」
「……はい……」
「あの早朝の河岸で、君たちは何をしていた? 其の女性と君の関係、そして其処で行われていた
凱の視線が、那の瞳の奥を
「先にアクションを掛けたのは、どちらだ? それから、何故だ? 何故、君は彼女に接触した?」
那の喉の奥で、乾いた唾液が
「……先に声をかけたのは、私です」
絞り出すような声だった。
自分が原因であると認めること。
それは、あの「規則」を破る行為に等しい。
自分から他者の領域に踏み込み、結果としてこのような「場の乱れ」を引き起こした。その事実が、那の自意識を鋭く
「ほう。君からか。見たところ、君は自分から進んで他人に話しかけるタイプには見えないがね」
凱が僅かに目を細める。
「意外ですね。砂座間さん、あんたさんみたいなタイプは普通、不審な奴がいたら
オクヤスの余計な口出しを、凱が肘打ちで制す。
「オクヤス、黙ってろ。……続けて。砂座間さん。君はなぜ、彼女に声をかけた?」
「それは……っ」
那は、言葉を探した。
好奇心。そう言ってしまえば簡単だ。
しかし、厳密には彼の中にあったのは、もっと
あの地震の予感、皮膚を走った微細な電流。
そして、その後に目撃した、世界を
もし、ここで正直に「彼女の描く概念生物に興味を持った」などと言えば、自分まで彼女と同類の「異常者」として分類されるのではないか。
警察という「
那の脳裏に、かつて火山灰に消えた友人の橙色のジャケットが
「…彼女が、あまりにも熱心に何かを書き留めていたので。ライターとしての……職業的な興味、と言い換えてもいいかもしれません」
「ライターの、興味、ねえ……」
凱は、その回答の背後にある「空白」を見逃さなかった。
彼は那の顔を覗き込むように身を乗り出す。
「突拍子もない話を書けば、其れこそオカルトゴシップ。だが砂座間さん…貴方の思考では、此れに納得できる理論があった、ということになる。……確証が欲しい」
那の横に俯いて鎮座していた伊藤に向かって、凱は言葉を投げた。
「……此方を向いて、ええと……」
「…っ! い、伊藤っ、ですっ」
伊藤は吃音を必死に抑えながら、泳ぐ目線で凱を捉えようとする。
「…伊藤さんね。独立観測者という名刺は見せていただいたが、貴女のスケッチの方はまだチラ見程度だ。念の為、見せて貰えないか」
「――っ!?」
伊藤は焦った素振りで、椅子の下に置かれていた鞄をせせくり出した。
「…っ、ない、ないっ、どこだっ、どこに…っ」
其の手際の悪さに、オクヤスは僅かに眉を顰めたが、直ぐに平静を装う。
やがて伊藤は、目当ての品を取り出した。
「っ…あった! ええ、見せますっ、今から……っ、私が、大事だと思っている所だけ……!」
「…悪いが全部だ。其のクロッキー帳に何か如何わしい意匠があったとしたら、別側面の問題になるからな」
「いい……ぃっ!? そんなの描いてないですぅう……っ!……っ、わ、わかりましたっ、どうぞ……っ」
伊藤はクロッキー帳を、そっと凱に差し出す。那は僅かに肩を震わせた。
――もう一度、あれを此の眼で見たいという感覚が、まだ疼いている。
凱はページを流し見しながらパラパラと捲っていく。数式や曼荼羅的な意匠が描かれ、時に
数式の数々や幾何学的に描かれた線を見て、オクヤスが口を開く。
「……正直、すげえです。僕の小学五年時代の自由帳ノートを『1』とすると、此方は多分概算で四桁級になると思いますわ」
「……判り難い例えで場を掻き乱している自覚を持てよ」
「……は、はあ……ッ、手厳しいッ」
冷や汗を浮かべるオクヤス。余計な口を挟む癖というのは、些か矯正しにくいものだと再認識したようだ。凱は視線を帳面から外さず、低く呟く。
「…正直、私には此の数式が正しいのか否なのかまで判断は出来ない。見るに、此れは貴女の趣味でのスケッチドローイングの範疇を抜きん出ないものに見えるが」
「…っ! ちがいますっ!」
凱の言葉に、意外にも伊藤は強く出た。那は思案する――ああ、やはり此の女性にとって「此の絵」は「現実の延長」に他ならないのだと。
「私は……っ、此処に来た理由が、ちゃんとありますっ」
「仲間を募っていたのか? 其の一端が砂座間さんへの『オカルト研究部』への勧誘という事か?」
「……だからっ! わたし……私はっ、
伊藤の声が、派出所の停滞した空気を鋭く切り裂いた。
彼女の瞳には、先程までの怯えとは異なる、
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