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伊藤の
派出所の安っぽい事務机の上に置かれたクロッキー帳には、先程那が垣間見たのと酷似した、多数の架空生物と数理モデルが
だが、その紙面の中央には、先程までは存在しなかった未知の図形が、暴力的な筆致で追加されていた。
それは幾何学的な断層モデルと、そこから
各分岐点には、微細な生物たちが配置され、それぞれが異なる方向へと「
「これがっ…応力のっ、局所的集中と、解放のっ…潜在的な経路をっ、しっ、シミュレートした…ものですっ」
伊藤は、内側に潜む熱を、言語野の不全を突き破るようにして吐き出した。
「この、十字架の子…っ、カメーバ君がっ、いる節点。ここが現在の観測点ですっ。それは、現実の、
凱は、無言でそのページを数秒間見つめた。そこには、巨大な十字架を背負い、時の重みに耐えかねたように蹲る老亀――カメーバが、緻密なハッチングによって描かれている。
「…とどのつまり、だ。君はこの絵を描くことで、地震がどこで、どのような規模で起こるか予測できる、と言いたいのか?」
「…厳密にはっ、既に決められた問いの、収束値をっ、探して、いるんです」
彼女の指が、ページの右下にある、複雑に絡み合った線の中の、一つの「
そこには、極小の文字で「
「ここが、次の、
オクヤスが、耐えきれないといった風に鼻で笑い、深い溜息を吐き出した。
「はあ…? あのですねえ。この辺り、火山性微動は日常茶飯事ですよ。ご存知ないんですか? 阿蘇外輪付近は比較的頻繁に噴火事象が――」
「頻度は本題では、ありませんっ、もっとも近い、あの存在に最も近い場所に、……っ!」
伊藤の、吃音を孕んだ言葉に、生理的な
凱は、手にしたボールペンの先端で、軽く机の角をトントンと叩いた。
その反復される硬質な音が、小部屋の停滞した空気の中に波紋のように響き渡る。
「……伊藤さん。あなたの話は、非常に興味深い。世辞抜きで、知的好奇心を刺激されるよ、本当に。だが貴女のスケッチは、どんなに複雑で難解なものであっても、現在の私の視点では、芸術的創作作品の域を出ていない」
凱はゆっくりと立ち上がり、薄汚れ、視界が掠れた窓越しに外の景色を眺めた。
遠方には、木々の深い緑に覆われた
「…ええ、結論を話す。あくまで創作的活動の一端であるならば、どれほど不審であれ、他者への信仰の押し付けでもない限り、法的な事件性はないと判断できる。砂座間さん、伊藤さん。今日はもうお帰り頂いて結構だ。手間を取らせたな」
凱が背を向けたままそう呟くと、伊藤が、不意に机の上に置かれた鉛筆へと細い指を伸ばした。
彼女は、意識を外界から遮断したかのような
鉛筆は、中心軸を失うことなく、わずかに揺れながらも――
――既存の重力法則を無視するように、自立した。
「……っ! 何を?」
那は条件反射的に問いかけた。その異質な動作には、単なる
伊藤の表情は、深く、暗い集中の中に沈んでいた。
彼女の瞳は、鉛筆の先端ではなく、机の表面――あるいは、その向こう側に広がる広大な大地そのものを透視しているようであった。
「…時間が、ない」
伊藤が、地を這うような
「ん?」
凱が鋭く振り返る。
「……この鉛筆が、倒れる、前にっ、揺れが、来ますっ」
部屋の空気が、瞬時に絶対零度へと凍りついた。
その静寂に耐えかねたのか、オクヤスは堪え切れず、不自然な笑みを浮かべて吹き出した。
「はははっ! ……ほほ〜う! 次は鉛筆占いの時間ですか?」
しかし、凱は笑わなかった。
彼は、伊藤の
机の上で、鉛筆がごく微かに、肉眼では捉えきれないほどの微小な振幅で振動しているように、那の目には映った。
それは気のせいなのか、あるいは世界の層が
「…どれくらいで来る?」 凱の声は、氷点下まで低められていた。
「……五分、以内」 伊藤の目が、虚空の一点を見つめる。
「…そして、その揺れは、単なる、余震では、ないのです…っ。あれの
オクヤスは未だヘラヘラと唇を歪めていたが、その微笑は徐々に焦燥を帯び始め、引き攣っていった。
真剣な眼差しで伊藤の手元を観察する凱の、峻厳な横顔を視認してしまったからだろう。
「凱さん、まさか信じないですよね? こんな、非科学的な…」
凱は、無言で左腕の腕時計に目を落とした。
そして、ゆっくりと重厚な椅子に座り直す。
彼は、伊藤をじっと射抜き、次に那へと視線を走らせる。
彼の瞳は、伊藤と、静止したままの鉛筆を交互に走査していた。
「……いいだろう」
凱が静かに、宣告するように言った。
「五分だ。ここで待とう。もし何も起こらなければ、伊藤さん、君はただの高度な妄想癖を持つ人物として、然るべき場所での適切なケアが必要だと判断せざるを得ない。だが、もし本当にこの大地が揺れたとしたら」
凱は、その先の言葉を吐き出すことを禁じた。その代わりに、彼は机の上の鉛筆と、自身の腕時計に刻まれる秒針へと視線を固定した。
部屋には、時計の秒針が刻む一定の
窓の外では、何事もない平穏な日常が、皮肉なほどに淡々と続いていた。
時折通り過ぎる車のエンジン音、遠くで鳴く鳥の囀り。
那は、自身の鼓動が耳管の中で巨大な太鼓のように打ち鳴らされるのを感じていた。
伊藤の予言が、救いようのない単なる妄想であってほしいと心の底から願いながらも、彼女が纏う、絶対的な確信に、抗いようもなく精神が引き摺り込まれていくのを感じていた。
伊藤は、静かに瞼を閉じた。
そして、ほとんど聞き取れないほど微かな、湿り気を帯びた声で其れを待つように、一秒ずつを数え始めた。
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