ζ(Zeta)   作:AllZ:M

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あらわれ顕現す

 

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四分五十八秒。五十九秒。

 

松中派出所(まつなかはしゅつじょ)の内部を支配していたのは、真空を思わせる、絶対的な静謐(せいしつ)であった。

 

机の上に自立していた鉛筆が、不可視の力に押されるようにして側方へと傾斜した。

重力に従い、木製の軸がスチール机の表面に接触し――カタン、と乾いた音を立てる。

 

それが、既存の物理法則が終焉を迎え、新たな「問い(ζ)」がこの世界に介入を開始した合図であった。

 

刹那、足裏から脳髄を直接揺さぶるような、鋭い縦揺れ――初期微動(P波)が到達した。

建物の構造材が、許容範囲を超えた応力(おうりょく)に悲鳴を上げ、窓ガラスがサッシの中で激しく暴れる。

 

那は瞬時に思考の演算速度を最大へと引き上げ、状況を冷静に走査(スキャン)した。

震源の距離、P波の到達時間、そしてその背後に控える主要動(S波)の破壊的質量。

「伊藤さんっ――頭をっ、守って!」

「っ――!? あ、ぁ、…っ!」

那は自らの身体をパイプ椅子から滑り込ませ、机の下という唯一の安全地帯を確保した。

隣で呆然としていた伊藤の細い肩を力強く掴み、無理やりその狭い空間へと引き摺り込む。

 

直後、大地は猛り狂った。

横揺れの振幅は那の予測を遥かに凌駕し、派出所の床が不規則な楕円を描いてのたうつ。

壁に備え付けられた棚から溢れ出した書類が、情報の雪崩となって床を覆い、安っぽい蛍光灯が激しい点滅の果てに――内部のフィラメントを焼き切った。

 

「ひ、ひ、いっ……あ、ああ……っ! しぃざ…さんっ!?守って、守ってぇ……っ!」

腕の中で震える伊藤の低い体温を感じながら、那は机の脚を折れるほどの力で握りしめた。

揺れは減衰するどころか、地下深くから這い上がる重低音を伴ってその苛烈(かれつ)さを増していく。

 

その時――那の視界の端、激しく揺れる窓の外に、ある「異常」が映り込んだ。

 

南南東。

阿蘇外輪の稜線から外れた、本来ならば噴火口など存在しないはずの山腹が、内部からの圧力に耐えかねたように弾け飛んだ。

 

噴き出したのは、赤熱した溶岩ではない。

 

それは、光を一切透過しない、どす黒い噴煙(プルーム)

空を覆い尽くし、太陽の光を物理的に遮断する、灰の群れ。

 

---

 

「……っ、あ」

那の肺から、酸素が物理的に奪われた。

 

窓の向こうで膨れ上がるその灰色の雲。

かつて眼前の友を飲み込み、世界から色彩を完全に奪い去ったあの「絶望(ヴェール)」と、全く同じ質感を伴って迫り来る。

 

喉の奥が石灰を流し込まれたように熱い。

呼吸が浅く、鋭い痙攣となって胸腔を突き上げる。

心拍数は生理的限界を超え、視界が白濁していく。

脳裏で橙色の鮮烈な色味が、火花のように散る。

 

那は自分の指先が感覚を失い、冷たい末端壊死(まったんえし)のような感覚に陥っていくのを自覚する。

 

精神を塗り潰す泥(イマジナリーズ・ヘドリューム)――。

押し寄せる火砕流と噴煙は、那の脳内でそのように翻訳され、終わりのない地獄の円環(ループ)として反芻される。

 

---

 

「はっ、……あ、……はっ……」

呼吸ができない。灰が、あの時の灰が、喉の奥まで詰まっている。

そんな錯覚が那の意識を支配し、彼は膝を突いたまま、闇の中で激しく喘いだ。

 

揺れが、嘘のような不気味な静寂を伴って収束した。

だが、その静寂は以前のそれとは決定的に異なる質を持っていた。

屋外からは、村の避難を告げるサイレンが不協和音となって響き渡り、遠方で家屋が倒壊した際の衝撃音が、地鳴りの余韻に混じって届く。

 

「……は、あ、っ……は、あ……っ」

那は這い出すようにして机の下から脱出した。

膝は笑い、立っていることさえ困難な状態にある。

 

だが、外で何が「顕現(あらわれ)」たのかを確認することに対する、生存本能に近い好奇心は、先のパニックで既に臨界点を超えていた。

埃の舞う派出所のドアを押し開け、彼らは外の空気の中へと飛び出した。

「…っ、何だ、これは……!」

 

凱が、路上の真ん中で立ち竦んでいた。

彼の視線の先、阿蘇の稜線とは全く異なる地点から、巨大な噴煙の柱が上空千数百メートルに渡って立ち昇っている。

 

それは自然の営みというよりは、巨大な針で地球の皮膚を突き刺し、内部の汚濁を無理やり引き出したかのような、禍々しい光景だった。

 

隣では、オクヤスが呆然とした表情で空を見上げていた。

彼の頭の上には、なぜか金属性の(たらい)が、彼の髪に食い込むようにして乗っている。

地震の最中、棚の上に置かれていた備品が、幸か不幸か彼の頭上に正確に落下し、そのまま奇跡的な均衡(バランス)で定着してしまったのだ。

今の彼、彼等に、そのような事柄に失笑する余裕は微塵も残されていなかった。

伊藤が、その光景を視認した瞬間、喉の奥から絞り出すような、苦渋に満ちた声を漏らした。

「……ぁ、ぁ、…き、来たっ、顕現(あらわれ)が…っはじまったっ……!だ、だめ、……このままじゃ、系の、収束が、……っ!」

彼女の瞳は、もはやこの現実の風景を見てはいなかった。

空間の歪みに耳を澄ませ、何者かの「言葉」を直接脳内に受容しているかのように、彼女の視線は虚空を激しく彷徨っている。

 

「…っ、私っ、わたしが…っ? で、でも…っ! そんな、数理、モデルは……っ!」

――何と話しているのか。

この場に座す人間は、彼女以外、誰も口を紡いでいない。

にもかかわらず、伊藤は次の「言葉」を聞き取るかのような動作を見せた後、目を丸くして戦慄した。

「…っ!? 痛いのは、それは、イヤ、ですけど…っ! でも、書かなきゃ、…記述、しなきゃ、定着、できない……っ?」

「…おい、伊藤さん…大丈夫か? しっかりしろ!」

凱が恐る恐る、彼女の肩を揺さぼろうとした。

だが、オクヤスがそれを制止する。

「……凱さん、駄目だ。完全に没入してる。今の彼女にとって、僕らの声はただのノイズに過ぎない」

「…だがっ!」

凱が反論を翻そうとした瞬間――。

 

「はああっ、はいいぃ……っ!! わ、わかりましたあぁ……っ!」

――伊藤が、突如として路上に膝を突いた。

その動きは、祈りを捧げる信徒のようでもあり、あるいは絶望に叩き伏せられた屈服者のようでもあった。

 

彼女は震える右手を伸ばし――その指先を、ザラザラとした粗いアスファルトの表面に力強く押し当てた。

 

「…っ!? 伊藤さん、何を――!」

那の制止が届くよりも早く、彼女は全力を込めて、指先を地面に擦り付けた。

皮膚が裂け、爪が剥がれかける。

鮮やかな鮮血(せんけつ)がアスファルトの隙間に染み込み、彼女の指の軌跡に合わせて、赤黒い線が描かれていく。

 

「っ――伊藤さんっ!? 血が…っ! やめっ――!」

那が駆け寄り、彼女の手首を掴んで引き剥がそうとした。

しかし、普段の彼女からは想像もつかないほどの剛力が、那の制止を容易に撥ね除ける。

「……み、みてっ!……書かなきゃいけないの!……これ、がっ、九つの層(レイヤー)を、繋ぐ、……設計図(キー)、だから……っ!」

 

彼女の指先から溢れ出す血は、アスファルトの上で単なる汚れとして広がることはなかった。

――まるで意志を持っているかのように。

 

特定の方向へと流れ、分岐し、複雑な幾何学的文様を形成していく。

それは、先程クロッキー帳に描かれていた曼荼羅を、より巨大に、より凄惨(せいさん)に再構築したものだった。

 

中央に鎮座する「ζ(ゼータ)」の文字。

その周囲を囲むように配置される、カメーバやアンの異形な輪郭(シルエット)

それらを繋ぎ止める、血のゴラス・データ(星々)

 

那は、その光景を前にして立ち竦んだ。

 

恐怖、嫌悪、そして――抗いようのない心酔(しんすい)

彼女の指から滴る血の赤。

朝日に照らされて、宝石のように不気味(まがまが)しい光を放っている。

 

「……これが、私の、……使命(やくわり)、なの……!」

伊藤は、ボロボロになった指先で曼荼羅の最後の「点」を打ち込むと、力尽きたようにその場に膝をついた。

 

那の足元に広がる、血で描かれた世界の設計図。

その向こう側で、山腹からの黒い煙は、いよいよ勢いを増して空を支配し始めている。

 

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