エデンの戦士が彷徨うのは間違っているだろうか 作:ノマド
応接間の扉が閉まる音は、思ったよりも静かだった。
柔らかい黄色の照明、上品な木のテーブル、壁に飾られた薬草の絵。店先で嗅いでいたポーションと薬草の匂いは、この部屋では少しだけ薄い。代わりに、淹れたばかりであろう茶の香りがほのかに漂っていた。
テーブルの向こうに立つ男性が、こちらを見て穏やかに微笑んでいる。紺色の長い髪が肩に落ち、整った顔立ちに、威圧感はまるでない。
それなのに、視線が合った瞬間、背筋にぞわりとしたものが走った。
ウラノス様の前に立ったときの、あの感覚と同じだ。重いわけでも、冷たいわけでもない。ただ、人間とは何かが根本から違うものを、肌が先に理解してしまう。部屋の空気が澄んで感じるのは、きっと気のせいではない。
(神……! しかも、この顔は……)
全身が、一瞬で硬直した。
頭の中で、記憶の中の姿と目の前の姿が、ぴたりと重なる。
(……間違いない。ミアハ神、だ)
ダンまち本編に登場する神々の中でも、数少ない、人格の破綻していない神。温厚で、優しく、眷属を家族のように慈しむ存在。薬と医療を司り、貧しい者にも手を差し伸べる、あの神だ。
とはいえ、神であることに変わりはない。ウラノス様のときがそうだったように、神と相対するというのは、人間同士の対面とはまるで違う。
こちらは初対面のはずの相手。ここで「ミアハ様ですね」と切り出すのは、不自然にも程がある。店主は「会って頂きたい方」と言っただけで、名乗りはなかったのだから。
「やあ、急に呼び立ててすまないね。どうぞ、かけてくれ」
「失礼します」
促されるまま、向かいの椅子に腰を下ろす。店主は一礼すると、静かに扉の向こうへ下がっていった。部屋には、自分とこの神の2人となる。
(……2人?)
一瞬、違和感が頭をかすめた。だが、今は目の前のことに集中すべきだ。
「改めて、自己紹介をさせてほしい。私はミアハ。この薬舗を営んでいる【ミアハ・ファミリア】の主神だ。ナァーザがいつも世話になっているね」
彼は自分から神だと名乗った。こちらから先に口にしなくて正解だった。
「【エデン・ファミリア】所属のシキと申します。こちらこそ、苔の納品でいつもお世話になっています。ご挨拶が遅れまして……」
「いや、遅れたのはこちらの方だよ」
ミアハ様は苦笑しながら首を振り、茶器を二つ並べて湯気の立つ茶を注いでくれる。薬草を混ぜているのか、ほのかに爽やかな香りが立った。
「【エデン・ファミリア】……そうか、君が。店主から名前は聞いているよ。新しくできたばかりの【ファミリア】だそうだね。エデンという神の名は、私も初めて聞いた」
「はい。ごく最近、ギルドに認めていただいたばかりでして……」
「いや、構わないよ。神にも、人にも、それぞれ事情はあるものだ。私は今日、君の主神について詮索しに来たわけじゃない」
そう言って、ミアハ様は穏やかに笑う。
「ただ、機会があれば、いつかお会いしてみたいものだね。新しい神が下界に馴染めているか、先に来た者として気になるのさ」
「……ありがとうございます。そのお気持ちは、主神にも伝わると思います」
事実の範囲で言えるのは、ここまでだ。それでも、ミアハ様は特に疑う様子もなく、茶を一口含んだ。
(新しい神様なら、名前を知らなくて当然だと思ってくれたんだな)
エデンの名を知る者は、今のオラリオにほとんどいない。ウラノス様の言葉が、こういう形で効いてくる。内心で、そっと胸を撫で下ろした。
「本当は、もっと早く礼を言いたかったんだ。ナァーザを助けてくれたと、帰ってきた彼女からも、店の者からも聞いてね。ありがとう、シキ君。あの子は私たちにとって、家族のような存在なんだ」
深く頭を下げられて、慌ててしまう。神が人間に頭を下げるなど、他の神々の間ではまず見られない光景だろう。
「頭を上げてください! あのときは、たまたま居合わせただけですし、結局は【アストレア・ファミリア】の方々が来てくださったから無事で済んだだけで……」
「それでも、あの子が無事に戻ってきたのは事実だ。謝礼は店主から渡させてもらったが、礼は本人から言ってこそだと思ってね」
顔を上げたミアハ様は、また柔らかく笑った。
「本当は、あの日のうちに会いに行くつもりだったんだ。けれど、ギルドの会合が続いていてね。ここ数日は、店に戻る時間もまともに取れなかった。今日ようやく抜けられたから、無理を言って来てもらったんだ。待たせてしまって、申し訳ない」
「いえ、そんな。お忙しいのは重々承知しています」
謝礼を受け取ったときも、店主が「主神は今、手が離せなくて」と申し訳なさそうにしていたのを思い出す。あの妙に格式ばった態度は、そういう事情もあったのかもしれない。
「会合、ですか」
「ああ。物価の件でね」
ミアハ様は茶を一口含み、少しだけ表情を引き締めた。
「君も肌で感じているだろう。魔石の相場が上がり、それに引きずられるように、あらゆる物の値が上がっている。特に冒険者にとって死活問題なのは、ポーションの類だ」
思い当たる節は、いくらでもあった。低級の
「ギルドが、各種の商業系や医療系のファミリアを集めて、対応を協議しているんだ。原料の確保、流通の安定、価格の抑制……議題は山ほどある。もっとも、顔を突き合わせて何日続けても、答えはなかなか出ないがね」
声には、疲れよりも歯がゆさが滲んでいた。闇派閥の横行で物資の流通が不安定になっている以上、会議で決められることには限りがあるのだろう。
(ギルドも、ちゃんと動いてはいるのか……)
ローズさんの講義で聞いた悪循環の一端が、こうして具体的な形で目の前に現れた気がした。
「大変なご時世ですね。自分のような駆け出しにも、ポーションの値段は堪えます」
「そうだろうね。だからこそ、君のような冒険者には感謝しているんだ。上層で、しかも丁寧に苔を採ってきてくれる人は、今はとても貴重だよ」
ミアハ様はそう言って、ふっと目を細めた。
ーー✳︎ーー✳︎ーー✳︎ーー
茶を飲みながら、しばらくは取り留めのない話が続いた。
苔の採り方のコツ。第5階層の湿った区域は状態の良いものが多いこと。壁面の根元から剥がすと、再び生えてくるまでの間隔が短く済むこと。ナァーザが店番を任されるようになって、最近は張り切っていること。ミアハ様は、そのひとつひとつを楽しそうに聞いてくれる。
「ナァーザは、君の話をよくするんだ。『シキさんが持ってくる苔は、根っこまで綺麗なんだよ』とね」
「そ、そうですか。ただ、解体用のナイフで丁寧に剥がしているだけなんですが……」
「その『だけ』ができない者が多いんだよ。急いで引きちぎって、苔を傷めてしまう。薬の品質は、素材の扱いで半分決まってしまうからね」
ミアハ様の言葉には、薬を扱う者の矜持が滲んでいた。
(……なんというか、本当に人の話をよく聞く神様だな)
緊張はいつの間にかほぐれていた。それでも、胸の奥で小さな警戒心が頭をもたげる。ここまで穏やかに話してくれる相手が、本題をいつ切り出すのか。礼を言うためだけに、わざわざ別室を用意したとは思えない。
「それにしても……会合は、相当大変そうですね」
探りを入れるつもりはなく、ただ気になって尋ねてみる。
「ああ、正直に言えば、なかなか骨が折れる。皆、目指す先は同じ方向のはずなんだが、立場が違えば懐事情も違う。価格を抑えれば立ち行かなくなる者もいれば、この機に値を上げたい者もいる」
ミアハ様は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「特に、ディアンケヒトとは、意見がなかなか噛み合わなくてね」
(……やっぱり)
内心で、思わず頷いてしまった。
【ディアンケヒト・ファミリア】。オラリオ最大級の医療系ファミリアであり、【ミアハ・ファミリア】とは古くからの商売敵。原作でもミアハ様とは犬猿の仲で、何かにつけて衝突していた。そして、あの神が金儲けを何より重んじる性格なのは、読者なら誰もが知っている。
物価高騰という状況は、ポーションを扱う医療系にとっては、ある意味で追い風にもなる。需要が高まり、値が上がっても買わざるを得ない冒険者が増えるからだ。そんな場で、利益を第一にする神と、薬の値を吊り上げることを嫌う神が顔を合わせる。バチバチにならないほうが不思議だ。
(ミアハ様は、きっと会合の場でも価格を抑える側に立っているんだろう。逆にディアンケヒト様は、自分のところの利益を最優先に動いていそうだ)
しかも、ここまで穏やかに語るミアハ様でさえ、声に滲む疲れは隠せていない。向こうの動きが怪しいのは、容易に想像できた。
そして、実際に思い当たる節がある。
ナァーザの店に納品先を落ち着ける前、あちこちの店を回って苔の買い取りを頼んで歩いたときのことだ。その中に、【ディアンケヒト・ファミリア】の系列店があった。
店に入った瞬間から、店員の目つきが違った。極東顔の異邦人、しかも装備を新調したばかりの駆け出し。それを一目で値踏みして、苔の状態もろくに見ずに、相場よりかなり低い額を提示してきた。こちらが渋ると、「嫌なら他へ行けば? うちは困らないので」と鼻で笑う。足元を見る、とはまさにあのことだ。
(あれを、組織全体の方針だと断じるのはさすがに早計だけど……)
ただ、あの接客態度が、この会合の話と無関係とは思えなかった。仕入れ値を極限まで抑え、売値は高止まりさせる。そんな商売を続けている店が、会合の場で「価格を抑えよう」などと本気で言うだろうか。
(……いや、あくまで推測だ。顔も見ていない神様を、先入観で悪者にするのは良くない)
そう自分を戒めつつも、ミアハ様の話と合わせて、頭の片隅に留めておくことにした。ディアンケヒト系列には、今後も近づかないほうが良さそうだ。
「どうかしたかい? 急に難しい顔をして」
「あ、いえ。以前、他の店に持ち込んだときのことを思い出しまして」
嘘ではない。ただ、その店の名前までは口にしなかった。確証のない悪口を、この人の前で言うのは違う気がしたからだ。
「ほう。やはり、買い叩かれたかい」
「……ええ、少し。ですので、こちらで適正に評価していただけたときは、本当に驚きました」
ミアハ様は、何かを察したように小さく頷いた。深くは追及してこない。その距離感が、ありがたかった。
「ところで、シキ君」
ミアハ様の声に、思考が引き戻される。
来た、と思った。
「苔のほかにも、ダンジョンで採れる素材を扱うことはあるかい? たとえば、モンスターのドロップ品や、上層に自生する薬草の類だ」
「はい。ドロップ品は、主に魔石と一緒にギルドで換金しています。薬草は……採取の依頼を受けたときくらいです」
「なるほど。実は、ひとつ提案があってね」
ミアハ様は居住まいを正した。
「君の持ち込む素材を、専属で私たちに卸してもらえないだろうか。もちろん、相応の価格は保証する。状態の良い素材を安定して仕入れられる相手が、今の私たちには何より欲しいんだ。この状況では、なおさら」
専属卸し。
言葉を頭の中で反芻する。条件だけ見れば、悪い話ではない。納品先が固定されれば、買い叩かれる心配もなくなる。それに、この店の人たちは信頼できる。
けれど。
(継続的に、決まった量を納める約束……自分には難しい)
【エデン・ファミリア】は自分ひとりだけの派閥だ。ダンジョンに潜れる時間も、持ち帰れる量も、すべて自分の体と体調次第。ローズさんの講義を受ける日もあれば、装備の手入れや検証に時間を割く日もある。何より、ソロである以上、怪我をして数日潜れなくなるリスクは常にある。
それに、今は資金が要る。ゲパルトさんにも言われた通り、より良い装備を整えるには稼がなければならない。素材によっては、ギルドでの換金や他の商人との取引のほうが高値になる場面も出てくるはずだ。縛られてしまえば、動きづらくなる。
加えて、まだ自分が何者なのか、この世界でどう見られているのか分からない状況だ。どうぐ欄の存在もある。取引相手が増えれば増えるほど、素材の出どころを不審に思われる機会も増える。専属となれば、なおさら量と頻度を見られることになる。
(……だからといって、無下に断る話でもない。むしろ、とてもありがたい申し出だ)
悩んでいる、というより、板挟みだった。恩義と、現実と、秘密。そのどれもが、同じ重さで天秤に乗っている。
しばらく黙ってしまった自分を、ミアハ様は急かすことなく待っていてくれた。
部屋の隅で、魔石灯が小さく揺れる。階下から、ナァーザが誰かと話す声がかすかに聞こえた。
「……お気遣いに、まず感謝申し上げます」
言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「大変ありがたいお話です。ですが、専属でのお約束は、お受けできません」
ミアハ様の表情は変わらない。静かに、続きを待っている。
「自分は単独で活動していて、潜れる日数も、持ち帰れる量も安定しません。体調や装備の都合で、数日探索を空けることもあります。決まった量を継続して納めるとお約束しても、守れない日が必ず出てきます。それは、お店にとって一番困ることだと思うんです」
「……ふむ」
「それに、自分のところは資金面でも余裕がなく……素材の種類によっては、他で売ったほうが良い場合もあるかもしれません。お世話になっているお店に、そういう不義理を重ねるような立場にはなりたくないんです」
伝えられる範囲で、正直に話した。嘘は使っていない。ウラノス様の前でそうだったように、神様の前で取り繕っても仕方がない。事実の範囲で言うのが一番だと、身に染みている。
そして、これだけは付け加えなければならない。
「ですが、ひとつだけお約束できます。自分が採ってきた素材は、必ず、まずこのお店に持ち込みます。適正な値段で、しかも丁寧に採ったことまで評価して買い取ってくださった。見知らぬ異邦人の自分に、最初からそうしてくださったのは、こちらだけです」
その点は、心からの言葉だった。ほかの店では、何度も買い叩かれかけた。ここだけが、最初から公平だった。
「契約や縛りではなく、自分の意思として。そう決めています」
言い終えてから、思わず息を吐いた。掌にうっすらと汗が滲んでいる。
ミアハ様は、しばらくこちらを見つめていた。やがて、肩の力を抜いたように、ふっと笑う。
「……そうか。いや、これは参ったな」
「申し訳ありません。せっかくのお話を……」
「謝ることはないよ。むしろ、君は私が思っていた以上に、誠実な人だ」
ミアハ様は、茶器を置いて続けた。
「実を言えば、断られる可能性も考えていた。単独の派閥で、事情もあるだろうとね。それでも、一度は話を聞いてほしかった。それだけなんだ。それに……」
柔らかな声が、少しだけ低くなる。
「『できないことを、できないと言える』冒険者は、長く生き延びる。無理な約束をして、無理を重ねて、帰ってこなくなる者を、私は何人も見てきた」
その言葉は、静かに胸に落ちた。
この神は、医療を司る者として、数え切れないほどの冒険者の傷を見てきたのだろう。薬では救えなかった者のことも、きっと。
「だから、今の答えがむしろ嬉しいよ。持ち込みの約束だけで、十分だ。これからも、無理のない範囲で頼む」
「……ありがとうございます。無理のない範囲で、必ず」
深く頭を下げる。胸のつかえが、すっと下りた気がした。
顔を上げると、ミアハ様は少し照れくさそうに頬をかいていた。
「さて、堅い話はここまでにしよう。ナァーザが外でやきもきしているだろうからね」
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部屋を出ると、カウンターの向こうからナァーザが顔を覗かせた。耳をぴんと立て、こちらをうかがっている。
「シキさん、お話終わった? 変なこと言われなかった?」
「変なことなんて言わないよ。ちゃんとお礼を言ってくださっただけ」
「ほんと? ミアハ様、たまに突拍子もないことを言うから……」
後ろからついてきたミアハ様が、困ったように笑う。
「ナァーザ、聞こえているよ」
「あ……えへへ」
小さく舌を出す姿に、つい口元が緩む。いつの間にか、鑑定が終わった苔の代金も用意されていた。受け取って袋にしまい、改めてミアハ様へ向き直る。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
「こちらこそ。またいつでも寄ってくれ。次は、ゆっくり茶でも飲もう」
「はい、ぜひ」
店を出ようとしたところで、ナァーザが小走りに追いかけてきた。
「シキさん、今日もありがとう。苔、また持ってきてね!」
「ああ。気をつけて帰るよ。店の戸締まりも、ちゃんとね」
「子供扱いしないでよ!」
頬を膨らませる彼女に手を振り、通りへ出る。
背中に、店の明かりのぬくもりを感じた。振り返ると、ナァーザの隣で、ミアハ様も軽く手を上げて見送ってくれている。
小さく会釈を返し、今度こそ歩き出した。
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外はすっかり夕闇が降り始めていた。魔石灯の明かりがぽつぽつと灯り、人々は足早に家路を急いでいる。崩れかけた建物の影が長く伸び、路地の奥には、昼間よりも濃い闇が溜まっていた。ゲパルトさんの言葉が頭をよぎる。近頃は物騒だ、早く帰ったほうがいい、と。
宿へ向かって歩きながら、先ほどのやり取りを思い返す。
(……よく考えたら、あれは危うい形式だ)
応接間で感じた小さな違和感が、ここにきて、はっきりとした形を取り始めた。
神が、人払いまでして、素性のよく知れない冒険者と二人きりで会う。しかも、その冒険者は、ナイフを腰と腿に何本も下げた、武装した男だ。
原作の知識が、嫌な形で繋がっていく。
神が下界で死ぬ、あるいは天界へ送還されれば、その眷属が受けていた
……そして、その仕組みを逆手に取った者たちが、【ソード・オラトリア】で存在した。闇派閥に属する神の一柱が、その仕組みを利用して大勢の死者を出す。主神を失った眷属たちが、本来の力を発揮できないまま、混乱の中で次々と倒れていく。
(神は、本来ならば簡単に会える相手じゃないんだ。まして、どこぞのぽっと出の派閥の団長なんて、護衛もつけずに会っていい相手じゃない)
もし、自分が闇派閥の手の者だったら。あるいは、誰かに金で雇われた刺客だったら。あの密室で、ミアハ様を害することも不可能ではなかった。そうなれば、犠牲になるのはミアハ様ひとりでは済まない。ナァーザも、店主も、【ミアハ・ファミリア】の眷属全員が、
神を知る者が聞けば、無謀と呼ぶだろう。ウラノス様の前で、自分が冷や汗をかいたのとは、まるで別種のリスクだ。
(……いや、だけどミアハ様が気づいていないはずがない)
となれば、可能性は一つ。事前に調べていた。
納品先を固定した新人が、どこの誰なのか。【エデン・ファミリア】という、聞いたこともない派閥の団長が、何者なのか。ギルドに問い合わせれば、登録されているファミリアの情報くらいは分かる。ナァーザを助けた経緯も、【アストレア・ファミリア】の面々から聞き取れば裏が取れる。店主が毎日のように自分と顔を合わせていた以上、人となりを観察させていたとしても不思議ではない。会合続きの合間にも、ミアハ様なりに手を尽くして確認していたのだろう。
もうひとつ。他の神々は、自分のことをどこまで知っているのだろう。ウラノス様の裁定で結成した、主神不在の派閥。神会で知れ渡るのは、まだ先のはずだ。けれど、神々の好奇心は侮れない。ヘルメスのような存在がいれば、とっくに動いていてもおかしくない。ミアハ様の耳に入っていた情報が、どこまでのものなのか。今日は何も問われなかったが、次も同じとは限らない。
(それでも、だ)
そこまで考えて、足が止まった。
そこまでの危険を承知の上で、あの神は、自分に会うことを選んだのだ。
礼なら、店主を通して謝礼を渡した時点で、形の上では済んでいる。神自身が出向く必要など、本来はなかった。護衛を置くことも、もっと慎重な手順を踏むことも、できたはずだ。
それでも、ミアハ様は人払いをした。眷属を大切にする神だからこそ、眷属を救った相手と、同じ目線で、正面から言葉を交わしたかったのだろう。「礼は本人から言ってこそだ」。あの言葉は、きっと、飾りのない本心だった。
探りを入れる意図は、確かにあったのかもしれない。ただ、それを隠さず、「断られると思っていた」とまで言ってくれた。断った自分に、むしろ礼を言うような神だ。
原作でも、ミアハ様は誰よりも眷属を大切にする神として描かれていた。薬の値を吊り上げず、貧しい者にも手を差し伸べ、そのせいで自分のファミリアが苦しくなっても、笑って許してしまうような。
その優しさが、いずれ彼らを追い詰める。そんな未来を、自分は知っている。
(……知っているからこそ、軽々しく関わってはいけないと思っていた)
干渉するべきではない。ナァーザにも、「きっとなれます」と偽りの励ましを口にしてしまった。あのときの罪悪感は、今も胸の奥に残っている。
けれど、今日は少しだけ違う気持ちがあった。
知っているから避ける、ではなく。知っているからこそ、この縁を大切にする。
大それたことはできない。未来を変えるなんて、今の自分には荷が重すぎる。けれど、あの店に素材を持ち込み続けること。誠実に、無理のない範囲で、できることを積み重ねること。それならば、今の自分にもできる。あの人たちが、自分を信じて危ない橋を渡ってくれたのなら、その信頼を裏切らないことくらいは、自分にもできるはずだ。
(それが、この世界で自分が選べる、数少ない
夜空を見上げると、バベルの塔が闇の中に黒く浮かんでいた。その頂は、雲に隠れて見えない。
エデンを探す。日本に帰る手がかりを得る。そのために、強くならなければならない。その道は、変わらない。
ただ、その道の途中で出会った人たちを、切り捨てていくつもりはない。ローズさんも、ゲパルトさんも、ナァーザも、ミアハ様も。
そのためにも、まずは明日だ。朝の講義に遅れないように、ちゃんと休まなければ。ゲパルトさんから頼まれたローズさんの件も、話を聞く機会を探さなければならない。
「……よし」
小さく呟き、歩みを速める。腰と腿のホルダーが、歩調に合わせてわずかに音を立てた。
確かに自分は異物かもしれない。それでも、この街で積み上げた縁だけは、本物だ。
その実感を胸に、夕闇の街路を宿へと向かって歩き出した。
投稿頻度上げたいのですが……ここから色々キャラ出して話を進めます。