S.1204 3.30 TUESDAY
霧に覆われた深い森の奥、開けた場所に家が建っていた。
空は快晴。朝の柔らかい日差しが霧のない空間を照らしている。
庭先には少女がいた。
設けられた鍛錬用の案山子の前に立つ彼女は、汗を拭いながら見上げた空に眉根を寄せる。
「――無駄にいい天気だね」
苦々しく呟かれた言葉は静かな朝に溶け消えた。
彼女――シエルの視界には快晴の空が広がっていた。普通であれば気分の上がる天気だ。けれど、彼女にとっては節くれだった心を逆撫でされるような心地だった。
雑念を払うように頭を振る。その時、がさっと庭の端、郵便受けのあたりから小さな音がした。紙が擦れるような乾いた音だった。
シエルは特に驚くこともなく、手にしていた木刀を元の位置に戻す。そして、音の方へ目を向けてゆっくり足を進めた。
固い靴音が石畳に響く。
目的の郵便受けの前まで来たシエルはそっと身を屈める。中の暗がりには麻ひもで束ねられた封筒が数通。それを朝露を避けるようにそっと取り上げた。
固い麻ひもを丁寧に解き、送り主を一つ一つ確かめる。
「リラ宛ての依頼と、教会のチャリティ告知…。こっちの黒いのはいつもの招待状かな?――うん、全部リラに渡せば大丈夫そう」
郵便受けの蓋を閉じると少し軋んだ音を立てた。そろそろ替え時かもしれない。シエルはそう考えつつ踵を返した。
向き直った先、家の中から漂う暖かな気配に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がした。
家の中に入ると、暖かい空気が体を包み込み、外の肌寒さを忘れさせた。代わりに食欲を刺激する美味しそうな匂いが漂っていた。
引き寄せられるようにリビングの扉を開くと、奥のキッチンで赤目の少年が朝食の用意をしていた。シエルよりも少し年下の彼だが、テキパキと手を動かしている。
扉を開ける音に顔を上げた赤目の少年が、シエルを一瞥して「おはよう」と声をかけた。
「おはよう。いい匂いだね。おなかすいてきちゃった」
「出来上がるまではもう少しかかるけどな」
シエルは封筒をテーブルに置き、赤目の少年の手元をのぞき込んだ。
溶いた卵の入ったボウルに調理前の分厚いベーコン。火から降ろされた鍋からはコンソメの匂いが香っている。用意された5枚の皿にはサラダとトーストが盛りつけられている。
「今日はオムレツ?」
「そう、ちょっと甘めのやつ」
「本当? あれ好きなんだよね」
やった、と笑顔を浮かべたシエルに赤目の少年は少しはにかんだ。
「知ってる。朝から動いてたみたいだけど、出発の準備は終わってるのか? 昼前には発つんだろ」
「それはばっちり。トリプルチェックまで終わってるよ」
「そこまでしてれば安心そうだな」
言いながら、彼はどこか寂しそうな顔をしているように思えた。その顔を見てシエルは手を伸ばそうとして、途中まで上がった手をそのまま下ろした。
赤目の少年は気付いた様子もなく、パッと表情を切り替えた。
「っと、シエルは鍛錬の後だろ。朝ごはんの前にシャワーを浴びてきたらどうだ?」
「…うん。そうするよ」
「朝ごはん楽しみにしてるね」
努めて笑顔で、赤目の少年にそう言葉を残してシエルはダイニングを後にした。廊下に出ると息を押し出すように吐き、目を伏せた。
「なんだぁ? 朝からお疲れか?」
時間としては数秒にも満たない間。扉の前で立ち止まっているシエルの横から声が掛けられた。声の方を見ると、玄関横の階段から焦茶髪の少年が下りてきたところだった。
「鍛錬なんて、今日くらい休んでもよかったんじゃねえか?」
「まあ、習慣だから。おはよう、今日は早起きだね」
「それこそ"今日くらい"ってやつだよ。見送りの日に寝坊なんてダサいだろ」
まだ幼さの残る顔立ちだが、赤目の少年に比べ背は高い。それでも、シエルより目線の低い焦茶髪の少年は気怠げに歩きながら欠伸を噛み殺している。
普段ならまだ眠っている時間と言うのもあり、まだ目が覚め切ってなさそうだ。
「毎日遅起きしてること自体ダサいと思うよ」
「そこは褒めてくれよ」
「たった1日だけじゃね…。継続出来たら褒めてあげないこともないけど」
「それは無理だな!」
屈託なく笑うその頭に、シエルは呆れるしかなかった。
シエルの横を通り過ぎて、焦茶髪の少年は廊下の奥へと進んでいく。おそらく顔でも洗いに行くのだろう。
「シャワー浴びるから、洗面所使うなら早めに出てね」
「りょうかーい」
遠のいた背中に声をかけると、気の抜けた返事が返ってきた。早起きしてもいつもと変わらない調子に、シエルは呆れたまま口元を緩める。
そして振り返り、着替えを取りに行くため自室へと向かった。
二階に上がって右へ。自室の前に着くと、中からパタパタと人の動く気配がした。
一度立ち止まったシエルは小さく息を吐き、ドアノブに手をかける。
「あ、お姉ちゃん! おはよ~!」
扉を開けたシエルを出迎えたのは、弾むような少女の声だった。
正面の大窓から差し込む朝日に目が慣れると、碧目の少女が笑顔を向けていた。
「おはよう。今日はずいぶんオシャレさんだね」
「でしょ~」
碧目の少女は着ているワンピースの裾をつまみ、その場で回って見せる。柔らかい布がふわりと広がった。
よく見るとその服は「特別な日に」と、彼女が奥に仕舞っていたはずのお気に入りの服だった。
「その服、今日着ちゃってよかったの?」
「今日だからだよ! だってお姉ちゃん、『学校』に行っちゃうんでしょ?」
クローゼットに向かうシエルを追いかけて碧目の少女は言う。そして続いた言葉に、着替えを取るために伸ばした手がピタリと止まった。
「だから一番かわいいカッコでお見送りしてあげる!」
「うれしいでしょ?」と言わんばかりに目を輝かせる少女を見下ろし、少しの間を空けてシエルはその頭にそっと手を置く。
「そっか。ありがとうね」
「えへへ~、どーいたしまして!」
頭を撫でられ、碧目の少女は嬉しそうに目を細めていた。
それからくるりと身を翻すと、開けっ放しの扉へと駆けていく。
「朝ごはんのお手伝いしてくるね!」
「いってらっしゃい。髪はちゃんと結んでもらうんだよ」
「わかってるー!」
手を振って階段を下りていく小さな背中を見送ったあと、シエルは再びクローゼットに向き直る。
そのとき、未開封の赤い制服が目に入った。
「――今更、変わんないもんね」
小さく息を飲み、ゆっくりと吐き出す。
そして、しばらくそれを見つめたあと、着替えと一緒に腕に抱え、静かに部屋を出た。
「あ、」
「なんだ、お前か」
シャワーを浴び終えたシエルが廊下に出ると、目の前には白銀髪の女性が立っていた。
「今日は朝起きなんだ」
「ガキたちが今日は起きろと五月蝿いんでな。おかげ様で寝不足だ」
そう言って不機嫌さを隠そうともせず、白銀髪の女性は大きな欠伸をする。
作業服に荒い言動。しかし、大口を開けても変わらない整った顔立ちに、相変わらずアンバランスな人だと思う。
「それでちゃんと起きるあたり、律儀だよね」
「きっかけを作ったのは私だからな。今日くらいはまともにするさ」
リビングまでの短い廊下を二人並んで歩く。
白銀髪の女性はシエルの着る赤い制服に一瞬目を向けた後、そっけなく答えた。
それを聞いて、シエルはこらえきれず笑ってしまった。
「なんだ、いきなり」
「フフ、ううん。みんな同じこと言うなって」
シエルは思い返す。
わざわざ好物を作っていた彼。
「今日くらい」と早起きしてきた彼。
言外に「特別な日」と言っていた彼女。
そして、横の女性が今言った言葉。
全て、今日という「シエルの旅立ち」を前向きに受け止めているから出る言葉なのだろう。
「まぁみんな、リラよりも素直な言い回しだったけど」
「…一言余計だ」
リビング前に着く。扉に手をかけて白銀髪の女性――リラを振り返れば、変わらない不機嫌顔でシエルを見下ろしていた。
「だが、そんな風に笑うってことは多少納得出来たか?」
目が合う。リラの目はこちらを探るような鋭さをしていた。
シエルは視線を外して扉に向き直った。
「…それとこれとは話が別だよ」
すぐ側のリラにすら聞こえるか分からないほどの小さな声で呟いて、シエルは扉を開けた。
賑やかな時間だった、とシエルは思う。
ここ数年、食事中の会話が絶えたことは無い。けれど、リラまで揃った食卓は久々で、いつも以上に会話が弾んでいたように思う。
こうした光景もしばらく見納めだと思うと少し寂しい気持ちになる。
キッカケはリラだった。
リラはいつだって唐突で、いきなり学校に行ってこいなどと言い出した。その手に入学案内と未開封の真新しい制服を持って。
入学手続きは伝手を使って早々に終わらせ、「今の学力を確認できる」と詳細を伏せてシエルに入学試験を受けさせていた。森暮らしが長く、買い物以外で街に出ることがないシエルは、それが入学試験だと気付くことが出来なかった。
ほとんど騙し討ちのような形で決まった旅立ちに、納得など出来るはずなかった。
「忘れ物は大丈夫?」
「何回も似たような聞かれたからもう大丈夫だよ」
庭と森の境界に立って、シエルは言う。振り返れば一緒に暮らしてきた4人が各々の表情を浮かべていた。
「手紙、いっぱい書くから!お姉ちゃんもちゃんと返信してね!!」
碧目の少女が、少しだけ目に涙を浮かべて言った。
「《トールズ》ってのがどんなトコか知らんが、貴族様になんか言われたら思いっきりぶっ飛ばしてやれ!」
焦茶髪の少年がにこやかに言って、その後頭部を赤目の少年に叩かれた。
「あんたなら大丈夫だと思うけど、あんまり無茶するなよ」
その赤目の少年は何とも言えない不安そうな顔をしていた。
シエルはそれぞれに言葉を返して、最後にリラに目を向けた。こんな時でも、彼女の不機嫌そうな顔は変わらない。
「まあ、なんだ。私に言いたいことは沢山あるんだろうな」
面倒くさそうに、いや言葉を探すように目を伏せて頭を掻いた後、リラはすっと真っ直ぐシエルの目を見た。
「月並みなことしか言えんが、楽しんで来い。文句なら何時だって、幾らでも聞いてやる」
意志の強い目で見つめられて、シエルは思わず目を背けたくなった。気付かれないように細く息を吐く。
「――決まったことに文句なんてないよ。こんな風に送り出してくれてるわけだし」
気付かれていない。
気付かせてはいけない。
ありふれた笑顔の裏に隠した感情は、今、この場において不要なものだから。
「それじゃあ、行ってきます」
返事を待たず、シエルは森へと足を向けた。
一歩、踏み出す。
境界を越えた瞬間、霧の湿った空気が纏わりつく。
背後の気配が遠ざかり、声も、温もりも、すべてが霧に溶けていく。
森の霧は相も変わらず深いまま。
この霧のように、何も変わらなければいいのに。
そんな考えがふと、頭をよぎった。