――遥か昔。
この世界には、人の他にもう一つの種が存在していた。
【鬼】
そう呼ばれる彼らは、人とほとんど変わらぬ姿をしている。
違うのは、額に生えた一本、あるいは二本の角。
そして、人を遥かに凌ぐ膂力。
それだけで十分だった。
人は恐れた。
理解しようとする前に、拒んだ。
力を持つ異形を、ただ「異なるもの」として切り捨てた。
やがてその恐れは、嫌悪へと変わる。
嫌悪は、差別へと変わる。
鬼は、人の世界から追われるようにして、姿を消していった。
――これは、そんな時代の話だ。
山は、静かだった。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が規則正しく響く。
どこにでもある、変わらない一日。
「えっちょら……よっこら……」
少年は、斧を振り下ろす。
乾いた音が森に響き、薪が割れる。
黒髪の短髪。
背丈も、体つきも、特別大きいわけじゃない。
顔立ちだって、どこにでもいる村の若者そのものだ。
良くも悪くも――目立たない。
それが彼だった。
「ふぅ……」
額の汗を拭い、空を見上げる。
日差しはやわらかく、少しだけ眠気を誘う。
その時だった。
視界の奥。
木々の隙間のさらに向こう。
――何かが、動いた気がした。
「……ん?」
目を細める。
人影のようなものが、一瞬だけ見えた。
「こんな奥に……?」
この山は、村の者でもあまり奥まで来ない。
獣道も曖昧になる場所だ。
見間違いか、と首をかしげる。
だがそれ以上、気にする理由もなかった。
「……まぁ、いいか」
再び斧を手に取り、作業に戻る。
木を割り、束ね、運ぶ。
単調な繰り返し。
時間だけが、静かに過ぎていった。
やがて、腕に重さが溜まる。
「はぁ……疲れた……」
少年は息を吐き、斧を置いた。
喉が渇いていることに気づく。
「水でも飲むか……」
近くを流れる川へと足を向けた。
川は、透き通るほどに澄んでいた。
小石の一つ一つが見えるほどの清流。
冷たい水が、さらさらと音を立てて流れている。
しゃがみ込み、手ですくおうとした――その時。
――いた。
そこに、いた。
一瞬、時間が止まった気がした。
少女がいた。
川辺に、ひとり。
青い髪が、風に揺れている。
光を受けて、水面のように淡くきらめいていた。
整った横顔。
白い肌。
静かに水へ触れる指先。
そして――
額に、小さな角。
(……鬼、だ)
頭では、理解した。
けれど――そんなことは、どうでもよかった。
心臓が、強く打つ。
ドクン、と。
あり得ないほど、大きな音で。
(……なんだ、これ)
目が、離せない。
恐怖じゃない。
嫌悪でもない。
そんな感情は、どこにもない。
ただ――
綺麗だ、と思った。
初めて見るはずの存在なのに、
なぜか懐かしいような感覚すらあった。
(……こんな……)
言葉にならない。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
少女が、ふと顔を上げた。
視線が、合う。
その瞬間。
世界の音が、すべて消えた。
風も。
水の流れも。
木々のざわめきも。
何も聞こえない。
ただ――彼女の瞳だけが、そこにあった。
透き通るような青。
まるで、深い水の底を覗き込んだような、
静かで、どこか寂しげな色。
(……あぁ)
少年は、思った。
――出会ってしまった、と。
理由も、理屈もない。
ただ一つ、確かなことだけが胸に残る。
もう、戻れない。
そんな予感が、していた。