声をかけたい――そう思った。
けれど、喉が動かない。
さっきまで薪を割っていた時とは違う。
体は動くのに、言葉だけが出てこない。
(なんて言えばいい……?)
名前も知らない。
相手は鬼だ。人とは違う存在だ。
なのに――怖くない。
それどころか、近づきたいと思っている自分がいる。
胸の奥が、落ち着かない。
心臓の音がやけにうるさい。
どうしようもなく立ち尽くしていると――
「どうしたの?」
不意に、声がした。
少女の方からだった。
驚いたようでも、警戒しているわけでもない。
ただ純粋に、不思議そうにこちらを見ている。
その瞳に見つめられて――
頭が、真っ白になる。
「あ、えっと……その……!」
口を開いた瞬間、何を言うつもりだったのか分からなくなる。
焦りだけが募っていく。
何か言わなければ。
でも、変なことは言いたくない。
ぐちゃぐちゃに絡まった思考の中で、ようやく一つの言葉を絞り出した。
「い、いつも……いるんですか……!」
少しだけ、声が裏返った。
言った瞬間、自分でも分かる。
失敗した、と。
(もっと他にあっただろ……!)
けれど少女は、くすりともせず、ただ柔らかく頷いた。
「うんうん。今日はね、たまたまこっちを見てみたくなって来たの」
そう言って、彼女は視線を川へと向ける。
「……綺麗ね」
その一言は、独り言のように静かだった。
川の水は透き通り、底の石が陽の光を受けてきらきらと輝いている。
小さな魚たちが、群れになって泳いでいた。
流れは穏やかで、耳を澄ませばやさしいせせらぎが響く。
けれど――
(違う)
少年は思う。
いつも見ているはずの景色だ。
見慣れているはずの川だ。
なのに今は――
まるで、初めて見るもののように美しい。
いや、違う。
彼女がいるからだ。
青い髪が水面の光を受けて揺れる。
横顔はどこまでも静かで、どこまでも遠くて。
この景色に溶け込んでいるのに、
どこか現実離れしていて――
まるで、この世界のものじゃないみたいだった。
(……綺麗なのは……)
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
代わりに、ただ見つめることしかできない。
また、見惚れてしまう。
何度目かも分からない。
その時だった。
ぐぅ――……。
間の抜けた音が、静かな川辺に響いた。
「――っ!!」
一瞬で現実に引き戻される。
顔が熱くなる。
たぶん、真っ赤だ。
少女は一瞬きょとんとして――
くすり、と笑った。
「お腹減ったの?」
その声は、どこか楽しそうで、やわらかかった。
「わ、悪い……いや、そういうわけじゃ……!」
否定しようとして、できない。
空腹なのは事実だった。
少女はそんな様子を見て、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、私の村においでよ」
あまりにも自然に、そう言った。
「え……?」
思考が止まる。
「ご飯、あるよ」
当たり前のことのように、続ける。
「いや……でも……」
戸惑う。
相手は鬼だ。
村に行くということは――人間の世界ではない場所へ行くということだ。
頭では、分かっている。
行ってはいけない。
関わってはいけない。
けれど――
「いいの」
少女は、はっきりと言った。
迷いのない声だった。
そして、そっと手を伸ばしてくる。
触れられる。
その瞬間、びくりと体が震えた。
温かい。
人と、変わらない温もりだった。
「行こ?」
微笑む。
断る理由なんて――もう、どこにもなかった。
「……うん」
気づけば、頷いていた。
手を引かれるまま、歩き出す。
山道を進む。
見慣れたはずの道を、違う景色のように感じながら。
木々の緑が、やけに鮮やかだった。
風の匂いも、土の感触も、すべてがくっきりと輪郭を持っている。
隣には、彼女がいる。
それだけで――
世界が、こんなにも違って
(……なんなんだ、これ)
胸の奥が、ずっと騒がしい。
握られた手の温もりが、消えない。
離れたくないと、どこかで思っている。
理由なんて分からない。
でも――
きっとこれは、特別なことなんだと思う。
さっきまでの、ただの一日じゃない。
ただ山に来て、木を切って、帰るはずだった日。
それが、こんなふうに変わってしまった。
隣で歩く彼女の横顔を、そっと盗み見る。
風に揺れる青い髪。
やわらかく細められた瞳。
その一つ一つに、目が奪われる。
なんでもない景色が、輝いて見える理由も。
胸がこんなにうるさい理由も。
もう、分かっていた。
僕は――
この少女に、恋をしてしまったのだ。