少女――いや、チヨは、僕の手を引く前にふと思い出したように振り返った。
「そういえば、言ってなかったね」
くすっと笑う。
「私はチヨっていうの」
その名前を、確かめるみたいに胸の中で繰り返す。
(チヨ……)
短くて、やわらかくて。
どこか、彼女にぴったりの響きだった。
言おうとして、少し迷う。
けれど、このまま黙っているのは嫌だった。
「……僕は、サク」
ようやく名乗ると、チヨは嬉しそうに目を細めた。
「サク、ね。いい名前」
それだけの言葉なのに、胸が少しだけ温かくなる。
そして彼女は、何のためらいもなく僕の手を取った。
「行こ」
その一言で、僕はもう何も考えられなくなった。
しばらく歩いて、森を抜ける。
視界が開けた先に――村があった。
「……え」
思わず声が漏れる。
そこに広がっていたのは、見慣れたような風景だった。
木でできた家。
行き交う人々。
笑い声や、生活の音。
――人間の村と、ほとんど変わらない。
ただ一つ、違うのは。
そこにいる人たち、全員に――角があった。
(……ここが、鬼の村)
怖い、と思うはずだった。
けれど不思議と、そんな感情は湧いてこない。
チヨが隣にいるからかもしれない。
「おおー、チヨ。帰ったか」
低くてよく通る声が響く。
振り向くと、大柄な男がこちらへ歩いてきた。
その額にも、しっかりとした角がある。
男はチヨの前まで来ると、自然な手つきで頭をぽんぽんと撫でた。
「どこ行ってたんだ」
「ちょっとね」
チヨは少しだけ笑って答える。
そして男の視線が、ゆっくりと僕へ向けられた。
「……それで、こっちの子は?」
少しだけ訝しげな目。
当然だと思う。
人間が、こんな場所にいるんだから。
チヨは、ためらいなく言った。
「サク。村で仲良くなったの」
“仲良くなった”。
その言葉が、やけに嬉しかった。
「……そうか」
男は一瞬だけ考えるような間を置いて、短く頷いた。
それ以上は何も言わない。
その空気が少し緩んだ時――
「サクね、すごいお腹空いてるみたいだよ」
チヨが、楽しそうに言った。
「さっきもね、ぐーって。すごい音してたんだから」
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて止めようとするが、遅い。
顔が一気に熱くなる。
男は一瞬きょとんとして――すぐに豪快に笑った。
「ははっ、そうかそうか!」
そして、にやっと口角を上げる。
「よし、待ってろ。うめぇもん食わせてやる」
そう言って、さっさと家の方へ向かっていく。
「行こ」
チヨがまた、当たり前みたいに僕の手を引いた。
そのまま後をついていく。
案内されたのは、どこにでもありそうな客間だった。
木の床に、座布団。
落ち着く匂い。
僕はそっと座る。
チヨも、隣に座った。
「ね、サク」
顔を覗き込んでくる。
「びっくりした?」
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、チヨは楽しそうに笑った。
「でも、怖くないでしょ?」
「……うん」
本当に、そう思った。
怖くない。
それどころか――
落ち着く。
不思議なくらいに。
それから、他愛もない話をした。
山のこと。
川のこと。
どうでもいいようなことばかり。
なのに、すごく楽しかった。
時間が、あっという間に過ぎていく。
やがて、いい匂いが部屋に入ってきた。
「できたぞー」
さっきの男が、大きな鍋を持って現れた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
湯気の立つ鍋の中には、肉と野菜がたっぷり入っている。
出汁のいい香りが、鼻をくすぐった。
「ほら、遠慮すんな。食え」
「い、いただきます……!」
一口、口に入れる。
「……っ!」
思わず顔を上げた。
「うまい……」
本気で、そう思った。
チヨも、嬉しそうに笑う。
「でしょ?」
「うん……すごい美味しい」
二人で顔を見合わせて、自然と笑っていた。
それから、たくさん食べて。
たくさん話して。
気づけば、鍋はすっかり空になっていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げる。
外を見ると、空は赤く染まり始めていた。
「もうこんな時間か」
男が腕を組みながら言う。
「暗くなる前に帰るか?」
その言葉に、少しだけ胸がきゅっとする。
帰りたくない、なんて――思ってしまう。
でも、帰らないわけにはいかない。
「……うん」
立ち上がる。
外に出ると、夕焼けが広がっていた。
帰り道の途中。
あの川の近くで、足を止める。
「また、ここで会おうね」
チヨが言う。
当たり前みたいに。
まるで、明日も会うことが決まっているみたいに。
「……うん」
僕も、迷わず頷いた。
それだけで、十分だった。
そして僕は、家へと帰った。
扉を開けると、すぐに声が飛んでくる。
「ちょっと、サク!どこ行ってたの!」
母さんだった。
「こんな遅くまで……心配したんだからね!」
「あー……その、ちょっと山で……」
適当にごまかす。
本当のことなんて、言えるわけがない。
母さんは大きくため息をついた。
「もう……危ないことしないでよね」
少し間を置いて、言葉を続ける。
「特に――鬼なんかと関わっちゃダメよ」
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
さっきまでの温かさとは違う、引っかかる感じ。
何も言えなかった。
ただ、曖昧に頷くだけ。
部屋に戻り、布団に入る。
目を閉じると、すぐに思い浮かぶ。
青い髪。
やさしい声。
手の温もり。
今日一日の出来事が、何度も繰り返される。
そして、胸の奥に残るこの感覚。
うまく言葉にはできないけど――
たぶん僕は、もう分かっている。