朝、目が覚めた瞬間だった。
まだぼんやりとした視界の中で――ふと、思い浮かぶ。
青い髪。
やわらかく笑う顔。
手の温もり。
「……なんだよこれ」
思わず、小さく呟く。
寝返りを打って、天井を見る。
胸の奥が、昨日からずっと落ち着かないままだった。
山へ向かっても、それは変わらなかった。
「……っ」
斧を振るう。
けれど、いつもより少しだけズレる。
手応えが違う。
「……集中しろっての」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど頭の中に浮かぶのは、やっぱりチヨのことばかりだった。
しばらくして、手を止める。
息を吐く。
(……昨日の場所)
自然と、その言葉が浮かぶ。
「……また行ってみるか」
自分に言い訳するみたいに、そう言って。
気づけば足は、あの川の方へ向いていた。
木々の間を抜けて、視界が開ける。
――いた。
昨日と同じ場所に、チヨがいた。
川辺に座って、水に指を浸している。
青い髪が揺れる。
それだけで、胸が強く打った。
「……チヨ」
名前を呼ぶ。
自分でも、少し驚くくらい自然に出た。
チヨは振り向いて、ぱっと顔を明るくした。
「サク」
その一言で――また、心臓が跳ねる。
「来てくれたんだ」
「……まぁ、なんとなく」
素っ気なく言ったつもりだったけど、たぶん隠しきれていない。
チヨは嬉しそうに笑った。
「私もね、また来ると思ってた」
当たり前みたいに言う。
その言葉が、少しだけくすぐったい。
昨日よりも、距離は近かった。
自然に隣に座る。
肩が触れそうな距離。
意識してしまう自分が、少しだけ情けない。
「ね、サク」
「ん?」
「これ見て」
チヨが川の中を指さす。
魚が、泳いでいる。
次の瞬間――
ばしゃっ。
水が弾ける。
「え?」
チヨの手には、魚があった。
「ほら」
当たり前みたいに差し出してくる。
「え、今の……手で?」
「うん」
きょとんとした顔で頷く。
「これくらい、普通だよ?」
さらっと言う。
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「すごいな……」
怖いとは思わなかった。
ただ純粋に、すごいと思った。
チヨは少しだけ得意げに笑う。
「でしょ?」
そんなやり取りが、楽しくて仕方なかった。
時間はあっという間に過ぎていく。
何を話したか、全部は覚えていない。
どうでもいいことばかりだった気もする。
それでも――全部、楽しかった。
ふと、チヨが言う。
「ね、サク」
「ん?」
「人間って、鬼のこと嫌いなの?」
その声は、ただの疑問だった。
何の悪意もない。
ただ知りたいだけ、という感じ。
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
頭の中に、母さんの声がよぎる。
――鬼なんかと関わっちゃダメよ。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
でも。
「……そんなこと、ないよ」
気づけば、そう答えていた。
チヨは、少しだけ安心したように笑った。
「そっか」
その笑顔を見て――
それでよかった、と、思ってしまった。
しばらくして、チヨは空を見上げる。
「ここね、静かで好きなんだ」
ぽつりと呟く。
風が吹く。
髪が揺れる。
どこか、少しだけ寂しそうに見えた。
(……ああ)
胸の奥が、またぎゅっとなる。
理由なんて、考えなくても分かる。
ただ――好きだと思った。
鬼だからじゃない。
珍しいからでもない。
チヨだから。
目の前で笑っている、この子だから。
好きなんだと、はっきり分かった。
やがて、日が傾き始める。
「もう、こんな時間だね」
チヨが立ち上がる。
少しだけ、名残惜しい。
「……だな」
僕も立つ。
帰らないといけない。
「ね、サク」
チヨがこっちを見る。
「また来る?」
少しだけ、不安そうな声。
昨日とは違う。
これは、ちゃんとした確認だ。
「……うん」
迷わず、頷く。
「来るよ」
チヨは、ほっとしたように笑った。
「よかった」
その笑顔だけで、十分だった。
僕は家へと帰る。
扉を開けると――
「おかえり」
母さんの声。
「……ただいま」
それだけの、いつものやり取り。
それなのに、どこか少しだけ違って感じた。
部屋に戻り、横になる。
目を閉じると、すぐに浮かぶ。
チヨの顔。
声。
笑い方。
そして――あの質問。
「人間って、鬼のこと嫌いなの?」
胸の奥に、少しだけ残る違和感。
でも、それ以上に。
今日も会えたこと。
また会う約束をしたこと。
それが、嬉しくて仕方なかった。
明日も――会いに行こう。