本文
朝、目が覚める。
もう、迷いはなかった。
布団の中でぼんやりする間もなく、自然と一つの考えが浮かぶ。
(今日も、行こう)
それだけだった。
顔を洗って、軽く身支度をして。
いつものように山へ向かう。
けれど、体のどこかが落ち着かない。
斧を手に取って、振り下ろす。
――コッ。
音が、少しズレる。
「……っ」
もう一度。
――コッ。
やっぱり、いつもと違う。
視線が、何度も空へ向く。
日差しの角度を、無意識に確かめている。
「……そろそろ、いいか」
小さく呟く。
まだ仕事は残っている。
それでも、足はもう決まっていた。
川へ向かう。
木々の間を抜ける。
昨日と同じ道のはずなのに、少しだけ軽く感じる。
そして――
視界が開ける。
川の音。
風の匂い。
揺れる青。
チヨが、いた。
石に腰掛けて、水面を眺めている。
「チヨ」
名前を呼ぶ。
昨日よりも、ずっと自然に。
チヨは振り向いて、ふっと笑った。
「サク」
その声を聞くだけで、胸が少し温かくなる。
「来たんだ」
「……まぁな」
軽く返す。
それだけなのに、なんだかそれで十分な気がした。
昨日みたいに驚きはない。
でも――嬉しい。
自然と、隣に座る。
距離は、昨日よりも近い。
少し動けば肩が触れそうなくらい。
でも、もう逃げなかった。
「ね、サク」
「ん?」
くい、と袖を引かれる。
その仕草に、一瞬だけ心臓が跳ねる。
「こっち来て」
立ち上がったチヨに引かれるまま、少し歩く。
木々の間を抜けると、やわらかい影が広がる場所に出た。
「ここ、気持ちいいよ」
そう言って、チヨは木の下に座る。
風が葉を揺らして、さらさらと音を立てていた。
僕もその隣に腰を下ろす。
少しだけ、沈黙。
でも、不思議と気まずくはなかった。
「……なんか、静かだな」
「でしょ?」
チヨが小さく笑う。
「ここ、好きなんだ」
その声は、どこかやわらかくて。
しばらくして。
「ちょっとだけ、休も」
そう言って、チヨはそのまま横になる。
「え、おい――」
止める間もなく、目を閉じる。
数秒。
呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
――寝てる。
「……はや」
思わず、呟く。
無防備だった。
風に揺れる髪。
閉じられた瞼。
穏やかな呼吸。
こんな近くで、見ることになるなんて思わなかった。
目が離せない。
少しだけ、手を伸ばす。
触れられる距離。
でも――止まる。
(……何やってんだ、俺)
そっと手を引く。
代わりに、ただ見つめることしかできない。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……守りたい)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
理由なんて分からない。
でも、ただそう思った。
この時間も、この距離も。
全部、大事にしたいと。
「……ん」
小さく声がして、チヨが目を開ける。
「……あれ、寝てた?」
少しだけぼんやりした顔で、こちらを見る。
「がっつりな」
そう言うと、チヨは少しだけ照れたように笑った。
「そっか……」
体を起こして、軽く伸びをする。
その仕草すら、なんだか目が離せない。
しばらくして、チヨがぽつりと呟いた。
「私さ、あんまり人間の方に行くと怒られるんだよね」
「……そうなのか?」
「うん」
あっさりと頷く。
「危ないからって」
少しだけ、不満そうな声。
僕は少しだけ考えてから言う。
「……別に、いいんじゃないのか?」
軽く言ったつもりだった。
でもチヨは、少しだけ首を傾げる。
「うーん……」
納得していない様子。
その反応に、少しだけ引っかかるものが残る。
でも、それ以上は何も言わなかった。
やがて、日が傾いていく。
「……もう帰る時間だね」
チヨが立ち上がる。
僕も、少し遅れて立つ。
昨日よりも、はっきりと分かる。
離れがたい、という感覚。
何も言わない時間が、少しだけ長くなる。
そして――
手を離す瞬間が、少し遅れた。
「……またね」
チヨが言う。
「……ああ」
短く返す。
それだけなのに、胸の奥がじんわりと温かい。
家へ帰る道の途中でも、ずっと考えていた。
今日のこと。
木陰の風。
チヨの寝顔。
袖を引かれた感触。
全部が、やけに鮮明に残っている。
(……この時間が)
ふと、思う。
(ずっと続けばいいのに)