恋をしたのは鬼でした   作:すうがくだんご

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気配

 朝、目が覚める。

 

 もう考えるまでもなかった。

 

(今日も、会える)

 

 それが当たり前のように胸に浮かぶ。

 

 体を起こして、さっと支度を済ませる。

 足取りも、どこか軽い。

 

 山に着いて、斧を手に取る。

 

 振り下ろす。

 

 ――コッ。

 

 乾いた音が響く。

 

 もう一度。

 

 ――コッ。

 

「……もういいか」

 

 ぽつりと呟く。

 

 今日は、全然進んでいない。

 

 でも、それでいいと思ってしまう。

 

 気づけばもう、足は川へ向いていた。

 

 木々の間を抜ける。

 

 風の匂いも、土の感触も、全部知っているはずなのに。

 

 それでも、どこか新しく感じる。

 

 川に出る。

 

 そして――

 

「サク」

 

 先に声がした。

 

 チヨが、いた。

 

 水辺に立って、こっちを見ている。

 

「チヨ」

 

 名前を返す。

 

 それだけで、自然と笑みがこぼれる。

 

「今日も来たんだ」

 

「まぁな」

 

 軽く言う。

 

 もう、お互いに分かっていることだった。

 

 チヨが近づいてくる。

 

「ね、こっち来て」

 

 ぐい、と腕を引かれる。

 

 一瞬だけ驚く。

 

 でも、もう振り払うことはない。

 

 そのまま一緒に川の方へ歩く。

 

 距離は近い。

 

 昨日よりも、ずっと。

 

 肩が触れる。

 

 腕が、軽く当たる。

 

 でも、それが自然だった。

 

「冷たいよ」

 

 チヨが水をすくって、ぱしゃっとかけてくる。

 

「うわっ!」

 

 思わず声が出る。

 

「なにすんだよ!」

 

「えへへ」

 

 楽しそうに笑う。

 

 そのまま、また水をかけてくる。

 

「やめろって!」

 

 言いながらも、笑ってしまう。

 

 気づけば、自分からも水を返していた。

 

 小さな水しぶきが、光を受けて弾ける。

 

 笑い声が、川に溶ける。

 

 ただそれだけの時間なのに――

 

 どうしようもなく、楽しかった。

 

 その時だった。

 

 ふと、視界の端に何かが映る。

 

 木々の向こう。

 

 ――人影。

 

「……」

 

 動きが、止まる。

 

(……誰かいる?)

 

 目を細める。

 

 はっきりとは見えない。

 

 でも、確かに“人”だった。

 

(まずい)

 

 胸の奥が、ざわつく。

 

 視線を戻すと、チヨはまだ気づいていない。

 

「サク?」

 

 不思議そうに首を傾げる。

 

「……いや」

 

 とっさに誤魔化す。

 

 でも、さっきまでの空気とは違う。

 

 周りに意識が向く。

 

「……今日は、もう帰った方がいいかも」

 

 少しだけ早口になる。

 

「え?」

 

 チヨが目を丸くする。

 

「なんで?」

 

「……いや、その」

 

 うまく言葉が出てこない。

 

(見られてたかもしれない)

 

 その一言が、頭から離れない。

 

「……なんでもない」

 

 結局、そう濁すしかなかった。

 

 チヨは少しだけ考えるような顔をしてから、小さく首を傾げる。

 

「うーん……?」

 

 納得はしていない様子。

 

 でも、それ以上は聞いてこなかった。

 

 少しだけ、沈黙が流れる。

 

 さっきまでの楽しい空気が、ほんの少しだけ薄れる。

 

(……でも)

 

 心の中で、思う。

 

(まだ、一緒にいたい)

 

 そんな気持ちが、消えない。

 

 チヨも、同じなのかもしれない。

 

 どちらからともなく、少しだけ近づく。

 

 言葉はない。

 

 でも、離れたくないという気持ちだけは、はっきりしていた。

 

 それでも――

 

「……やっぱ、今日は帰ろう」

 

 自分から言った。

 

 チヨは少しだけ寂しそうに笑う。

 

「……うん」

 

 短く頷く。

 

 歩き出す。

 

 いつもより、少しだけ早い帰り道。

 

 そして――別れ際。

 

 手を離す。

 

 いつもより、早く。

 

 一瞬、迷った気がした。

 

 でも、そのまま離れてしまった。

 

「……またね」

 

 チヨが言う。

 

「……ああ」

 

 それだけ返す。

 

 少しだけぎこちない。

 

 でも、それでも。

 

 胸の奥に残るのは――やっぱり、あの時間だった。

 

 家へ帰る道。

 

 さっきの人影が、何度も頭に浮かぶ。

 

(見られてたかもしれない)

 

 もしそうだったら――

 

 どうなる?

 

 分からない。

 

 分からないけど。

 

(……それでも)

 

 足は止まらない。

 

(明日も、行くんだろうな)

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