武門の名家に生まれたある官僚の話 ~ 銀河英雄伝説より 作:五色鍋
宇宙暦七九七年、帝国暦四八八年。銀河帝国は、一つの時代の終焉と、さらに巨大な嵐の予感に包まれていた。
「おはよう、テレーゼ」
枕元の目覚まし時計が刻む電子音を止めたヨアヒム・フォン・ミュッケンベルガーは、まだ微睡みの中にいる妻の額にそっと唇を寄せた。
二十八歳になるヨアヒムは、前宇宙艦隊司令長官グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー元帥の次男である。しかし、その肩書きに「大佐」や「少将」といった武官の階級が付随することはない。彼は軍服を纏わず、今は財務省の主計局で官僚として数字と格闘する日々を送っていた。
「……おはよう、ヨアヒム。もうそんな時間?」
二十七歳の妻、テレーゼが長い睫毛を震わせて微笑んだ。子爵家の令嬢であり、音楽を愛する彼女との出会いは、帝都オーディンの国立劇場だった。軍才に恵まれず、父から「ミュッケンベルガーの獅子の血を薄めた落ちこぼれ」と疎まれてきたヨアヒムにとって、彼女との穏やかな生活こそが唯一の救いだった。
身支度を整え食堂へ向かうと、愛娘のアーデルハイド――愛称ハイディが、執事のハンスに手伝われながら椅子に座っていた。
「パパ、おはよう!」
「おはよう、ハイディ。今日も元気だね」
二歳の娘の無邪気な声が、重苦しい帝国の情勢を忘れさせてくれる。
食卓には、テレーゼの実家から付いてきた二人のメイド、エルナとマリアが手際よく用意した朝食が並んでいた。銀の食器が朝日に反射し、香ばしいパンとコーヒーの香りが室内に満ちる。
「今日は、お義父様の別荘へ伺う日でしたわね」
テレーゼが上品にパンを千切りながら口を開いた。
「ああ、父上の退役パーティーだ。……といっても、親族だけの質素な集まりだがね」
「それが少し不思議ですわ。宇宙艦隊司令長官を長年務められた元帥閣下の退役ですもの。本来ならブラウンシュヴァイク公爵家やリッテンハイム侯爵家のどなたかが、もっと盛大な式典を主催なさるのが筋ではありませんか? 親族だけだなんて、少し寂しい気がしますわ」
ヨアヒムはコーヒーカップを置き、窓の外の遠い空を見つめた。
「父上は、先帝フリードリヒ四世陛下の喪中であることを理由に、あらゆる公的な誘いを断ったそうだ。忠臣としての体面を保つため……というのが表向きの理由だね」
だが、ヨアヒムの冷徹な官僚としての頭脳は、別の答えを導き出していた。
ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥という若き彗星の台頭。それに対する門閥貴族たちの焦燥。父ミュッケンベルガー元帥は、自分を「古い時代の遺物」だと悟り、泥沼の権力闘争が本格化する前に、身を引こうとしているのではないか。あるいは、これから始まる惨劇に家族を巻き込ませないための、彼なりの処世術なのか。
「……実際は、誰とも関わりたくないだけかもしれない。あの人は、敗北を認めるのが嫌いだからな」
父への反発心から出た言葉に、テレーゼは困ったように微笑んだ。彼女の父、すなわちヨアヒムの義父は、辺境に惑星領を持つ一方でオーケストラを経営する風雅な人物だ。父ミュッケンベルガーのような鉄血の軍人とは正反対の環境で育った彼女には、この親子の確執は痛ましく映っているようだった。
「さあ、急ぎましょう。ハイディ、リボンを直しましょうね」
朝食を終えると、一家は慌ただしく準備に取り掛かった。ヨアヒムは事務的な手つきで上着を羽織り、執事のハンスを呼び止めた。
「ハンス、留守を頼む。夕方には戻る予定だが、万が一、省から連絡があったら別荘の回線に転送してくれ」
「かしこまりました、ヨアヒム坊ちゃま。どうぞお気をつけて」
ヨアヒムは「坊ちゃま」という呼び方に苦笑しつつ、ハイディを抱き上げた。
門を出て、用意された地上車(地上車)に乗り込む。空には、薄い雲の向こうにオーディンの街並みが広がっている。
リップシュタット戦役という、帝国を二分する内乱の嵐が吹き荒れるまで、あとわずか数日。
ヨアヒムは、チャイルドシートで笑う娘の顔を見ながら、自分たちの守るべき平穏が、いかに脆い硝子細工の上にあるかを、無意識のうちに感じ取っていた。
車は静かに滑り出し、帝都の喧騒を離れて、老兵が待つ郊外の別荘へと向かった。