武門の名家に生まれたある官僚の話 ~ 銀河英雄伝説より 作:五色鍋
帝都オーディンの夜は、表面上はいつも通りの静寂を保っていた。しかし、財務省から帰宅したヨアヒム・フォン・ミュッケンベルガーの表情には、隠しようのない疲労が刻まれていた。
「お帰りなさい、ヨアヒム。今日もお遅かったのですね」
出迎えたテレーゼが、夫の上着を受け取りながらいたわりの声をかける。ハイディはすでに寝静まり、家の中には落ち着いた灯火だけが灯っていた。
食卓についても、ヨアヒムの食欲は進まなかった。彼は出されたワインを一口飲み、重い溜息とともに愚痴をこぼした。
「……テレーゼ。このところ、連日昼食に誘われて閉口しているよ。それも、普段は事務的な挨拶しかしない爵位持ちの上司や、久しく連絡もなかった学生時代の友人、同僚たちからだ」
「まあ、皆様お誘い合わせのようですね」
「誘い合わせているのは目的の方さ。皆、聞くことは判で押したように同じだ。『内戦になったらどちらが勝つと思うか』、『元帥閣下は何とおっしゃっているか』……。そればかりだ」
ヨアヒムは、空になったグラスを指で弄んだ。その脳裏には、高級レストランのテーブル越しに、必死な形相で自分に詰め寄ってきた貴族たちの顔が浮かんでいた。
「彼らは皆、怯えているんだよ。先帝が崩御し、リヒテンラーデ公とローエングラム侯が実権を握った。だが一方で、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム侯といった門閥貴族も牙を研いでいる。どちらが勝つか、あるいはどちらにつくのが正解か、彼らには判断がつかないのさ。」
ヨアヒムは苦々しく続けた。
「だから、元宇宙艦隊司令長官という『看板』を持つ父上がどちらを向いているかを知りたがっている。父上の動向を、自分たちの去就を決めるための道標にしようとしているんだ。私はいつも、答えをはぐらかしているよ。『父は隠居を決め込んで何も語りません。今は郊外の別荘で、軍事よりも馬の世話に専念していますよ』とね」
ヨアヒムは鼻で笑った。
「実際、父上が馬を愛でているのは嘘ではないが、彼らは期待外れだという顔をする。元帥がどちらかの陣営が有利だという確証を与えてくれると信じてたんだろうけどね。自分の命と家の存続がかかっている、誰かにすがりたくなる気持ちもわからなくはないが。……そんな迷える羊たちが、今のオーディンには溢れかえっているよ」
テレーゼは悲しげに瞳を伏せた。
「皆、お義父上の口から『こちらが勝つ』という保証が欲しいのですね。かつての宇宙艦隊司令長官の言葉なら、神託のように聞こえるでしょうから」
ヨアヒムはグラスを見つめ、低い声で続けた。
「テレーゼ、一つ相談があるんだ」
ヨアヒムは真剣な眼差しで妻を見つめた。
「お義父上のことだ。当分の間、帝都を離れて辺境のご自分の領地へ行ってもらったほうがいいかもしれない。お義父上の性格だ、あのような迷走する貴族たちに引きずられて、内戦に巻き込まれたりするのを避けたい。辺境なら、帝都の泥沼からは距離を置けるだろう」
テレーゼは少し寂しげに目を伏せたが、すぐに理解を示して頷いた。
「わかりましたわ。お父様も、最近のオーディンの騒がしさには辟易していらしたようですし、音楽の資料整理でもして過ごすよう、私から勧めてみます」
「すまない、助かるよ。……今のうちに、動かせる資産も整理しておかなくてはな」
ヨアヒムは再び溜息をついた。財務官僚としての知識をフル回転させ、来るべき混乱期に家族の生活を、そして義父の財産を守り抜く。それは、戦場で艦隊を指揮するのとは別の種類の、しかし同じくらい神経を削る戦いだった。
「これから、ますます苦労が増えそうだ」
溜息をつくヨアヒムに、テレーゼはあえて声を明るくして言った。
「そうだわ、お疲れのようだし、久しぶりにヴァイオリンをお聞かせしますね」
「いいね。頼むよ。」
ヨアヒムは背中を椅子の背もたれに預けて答えた。
テレーゼは幼少期からヴァイオリンに親しみ、オーディンの大学でもヴァイオリンを専攻していた。
テレーゼが弦に乗せた弓をゆっくり動かす。
穏やかな美しい音色がヨアヒムの耳に届いた。
「バッハのG線だね。テレーゼのこれが一番落ち着くよ」
その温かい響きにわずかに救われながらも、ヨアヒムの脳裏には、これから帝国を焼き尽くすであろう戦火への不安が去来していた。