武門の名家に生まれたある官僚の話 ~ 銀河英雄伝説より 作:五色鍋
九月に入っても、ヨアヒム・フォン・ミュッケンベルガーは財務省のデスクで、まるで嵐を避ける岩のように、黙々と数字を追い続けていた。
ゲルラッハ尚書からの「誘い」以来、ヨアヒムは極力目立たぬよう、官僚としてのルーチンを淡々とこなした。廊下で誰かに呼び止められても、社交的な微笑みとともに事務的な話題にすり替え、派閥の勧誘には一切耳を貸さなかった。その徹底した「凡庸さ」の維持こそが、今の彼にできる唯一の防御策だった。
だが、九月のある夜、再びその静寂は破られた。
深夜、ヨアヒムは地響きのような不穏な振動で目を覚ました。四月の時よりも、さらに組織的で、さらに鋭い軍靴の響き。窓の外を確認すると、帝都中心部――新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)と宰相府のある方角が、数え切れないほどのサーチライトで白々と照らし出されていた。
「ヨアヒム……また、軍隊が?」
テレーゼが、震える手で寝巻きの襟元を合わせながら起きてきた。ハイディが目を覚まさないよう、二人は息を潜めて窓の外を見つめた。
「新無憂宮と宰相府だ。……ついに、決着がつくらしい」
ヨアヒムは、リヒテンラーデ公とローエングラム侯の蜜月が、これほど早く、そして一方的な形で終わることを確信した。
翌朝。ヨアヒムは重い足取りで財務省に出勤した。省庁街は封鎖こそされていなかったが、主要な交差点には装甲車が鎮座し、漆黒の軍服を着たローエングラム派の兵士たちが、鋭い眼光で通行人を監視していた。
オフィスに入ると、そこは異様な熱気に包まれていた。普段は厳格な官僚たちが、あちこちで小声で、しかし激しく情報を交換している。
「ヨアヒム、聞いたか!」
同僚の一人が、血走った目で駆け寄ってきた。
「昨夜、ローエングラム侯の軍隊が新無憂宮と宰相府を完全に制圧したそうだ。宰相リヒテンラーデ公は、ローエングラム侯暗殺未遂の容疑で拘束されたらしい」
「……リヒテンラーデ公が?」
ヨアヒムは驚く素振りを見せ問い返したが、心臓の鼓動は速まっていた。
「それだけじゃない。我らが財務尚書、ゲルラッハ子爵も、宰相の共犯としてすでに拘束されたという話だ。今頃は、憲兵隊の査問を受けているだろう」
ヨアヒムは、デスクの椅子に崩れるように座り込んだ。
ゲルラッハが拘束された。それは、彼がヨアヒムに持ちかけてきた「協力」も、それに関連する脅しめいた言葉も、すべてが歴史の塵になったことを意味する。
何よりも、父の「中立を貫け」という命を守り抜き、この巨大な権力抗争の渦中にありながら、どちらの陣営の泥も被ることなく内戦を終えられたであろうことに、ヨアヒムは深い安堵を覚えた。ミュッケンベルガーの名は、少なくとも「逆賊」としても「敗者」としても刻まれずに済むはずだ。
その日の財務省は、もはや仕事どころではなかった。主を失った省内には、今後の身の振りを案じる溜息と、新体制への不安を口にする囁き声が充満していた。ヨアヒムもまた、キーボードを叩くふりをしながら、刻一刻と塗り替えられていく帝国の地図を思い描いていた。
帰宅後、ヨアヒムは待っていたテレーゼに事の顛末を話した。
「リヒテンラーデ公も、ゲルラッハ閣下も……拘束されたのですか?」
テレーゼは絶句し、小さな手で口元を覆った。
「ああ。これで門閥貴族も、旧来の宮廷勢力も一掃された。明日からは、ローエングラム侯による事実上の独裁体制が始まるだろう」
ヨアヒムは静かに語った。
独裁者ラインハルト・フォン・ローエングラム。その若き天才が、これからこの停滞した帝国をどのように作り替えていくのか。
「不安はある。だが……」
ヨアヒムは窓の外の夜空を見上げた。
「あのローエングラム侯なら、私たちが想像もできなかったような新しい世界を見せてくれるかもしれない。そんな期待を抱いている自分もいるんだ」
帝国が迎える大きな変革期。ヨアヒムは、その荒波を乗り越えるための新たな「計算」を、心の中で静かに始めていた。