武門の名家に生まれたある官僚の話 ~ 銀河英雄伝説より 作:五色鍋
数日後、ヨアヒムは大学時代の旧友ヨナスと帝都の静かなレストランで夕食を共にしていた。ヨナスは男爵家の出身で、現在は内務省で辺境行政を担当している。彼はヨアヒムと同様に実務に長けていたが、その思想はより開明的な色を帯びていた。
「復興の進み具合はどうだい、ヨアヒム」
友人がワイングラスを傾けながら尋ねた。ヨアヒムは苦笑して答える。
「親族を総動員して、ようやく宇宙港の再建に目処が立ったところだよ。兄上の不機嫌は相変わらずだが、復興が進むにつれて少しは落ち着いてきたようだ」
「それは重畳だ。だが、ヨアヒム、君も耳にしているだろう。ローエングラム公が、あのカール・ブラッケ氏とオイゲン・リヒター氏を招聘した話を」
ヨアヒムは頷いた。開明派の領袖として名高く、かつては門閥貴族から危険視されていた二人を、帝国宰相自らが招き入れ、”社会経済再建計画”の立案を命じたというニュースは、官庁街を震撼させていた。
「ああ。リヒテンラーデ派が消えたと思ったら、今度は本物の改革者が現れたわけだ」
「ローエングラム公は、平民に対して『解放者』として振る舞うつもりだ」
友人は声を潜めて続けた。
「近いうちに、大規模な税制改革と、身分制度の抜本的な見直しが始まる。貴族特権は、文字通り形骸化され、廃止されるだろう。公は、伝統という名の贅肉を削ぎ落とし、帝国を効率的な近代国家に作り替えようとしているんだ」
ヨアヒムは黙って友人の言葉を聞いていた。財務省の末端にいても、予算の配分が「家柄」から「機能」へとシフトし始めているのは肌で感じている。時代の流れとして当然だという理屈は理解していた。
「……わかっているよ。ただ、特権の廃止と聞いて、真っ先に親族たちの顔が浮かんでしまうのが、私の悪い癖だね。父上はともかく、兄上や、旧来の価値観の中で生きている親族たちがどう反応するか」
ヨアヒムは溜息をついた。
「領地の復興が終わったと思ったら、次は家系そのものの存在意義を問われることになる。一族の舵取りが、また一段と難しくなりそうだよ」
「君ならうまくやるさ。君は昔から、嵐の中でも計算をやめない男だったからな」
友人の冗談にわずかに笑みを返しながらも、ヨアヒムの心はすでに、来たるべき「特権なき時代」におけるミュッケンベルガー家の生存戦略を描き始めていた。
友人との夕食を終え、帝都の冷たい夜風に吹かれながら帰路についたヨアヒムの頭の中は、先ほど聞いた「特権廃止」の予報で占められていた。
(父上にはどう説明すべきか。兄上には……いや、兄上に話せばまた軍務省で騒ぎを起こしかねない。テレーゼには、今のうちに実家の資産のさらなる流動化を相談しておくべきだろうか)
自宅の門をくぐり、玄関の明かりが見えても、ヨアヒムの眉間の皺は寄ったままだった。財務官僚としての頭脳は、すでに数年後のミュッケンベルガー家の貸借対照表をシミュレーションし始めていた。
「お帰りなさい、ヨアヒム」
リビングに入ると、テレーゼがいつも通り穏やかな微笑みで迎えてくれた。だが、今日の彼女はどこか浮き足立っているようにも見えた。ヨアヒムがいつものように愚痴をこぼそうと口を開きかけたとき、テレーゼが先に一歩踏み出した。
「ヨアヒム、実はお話ししたい大事なことがありますの」
その真剣な、しかし光を宿した瞳に、ヨアヒムは思考の回転を止めた。
「何だい? もしや、お義父上の領地でまた何か……」
「いいえ。私たちの……家族のことですわ」
テレーゼはそっと自分の腹部に手を当て、慈しむように微笑んだ。
「新しい命を授かりましたの。ハイディに弟か妹ができることになりますわ」
一瞬、ヨアヒムの思考は真っ白になった。膨大な予算案も、貴族特権の廃止も、ラインハルト・フォン・ローエングラムの独裁も、すべてが彼方へ吹き飛んだ。
「……本当か、テレーゼ」
「ええ。今日、お医者様に診ていただきました」
ヨアヒムは弾かれたようにテレーゼに駆け寄り、その肩を抱き寄せた。先ほどまでの「計算機」としての顔は消え、そこには一人の父親としての純粋な喜びだけがあった。
「ああ……。そうか。それは、何よりの朗報だ」
傍らで不思議そうに両親を見上げていた幼いハイディを、ヨアヒムは勢いよく抱き上げた。
「ハイディ、聞いたかい。お前はお姉さんになるんだぞ」
高い高いをされたハイディは、最初こそ驚いたものの、父の満面の笑みに釣られてキャッキャと声を上げて笑った。
「おねえちゃん? はいでぃ、おねえちゃん!」
「そうだとも。元気に返事ができたね」
ヨアヒムは娘を抱きしめ、テレーゼの肩に手を置き、家族三人の温もりを確かめた。
窓の外では、銀河帝国の古い秩序が音を立てて崩れ去り、誰も経験したことのない新しい時代が始まろうとしている。特権も、地位も、これまで当たり前だと思っていたものが次々と失われていくのかもしれない。
だが、腕の中にあるこの小さな命の重みと、妻の穏やかな鼓動があれば、自分はどんな荒波でも越えていける。いや、越えていかなければならない。
(家族を守り、この子たちが笑って過ごせる未来を計算する。それが僕の、一生をかけた仕事になるな)
ヨアヒムは心の中でそう決意した。
喜びの余韻に浸りながらも、彼の頭の片隅では、再び静かに、しかし力強く、新しい時代の生存戦略のための計算機が回り始めていた。
新しい命がテレーゼの内に宿ったという報せは、ヨアヒムにとって何物にも代えがたい福音であった。しかし、父となる喜びは、彼を甘美な夢に浸らせるのではなく、むしろ一族を守る守護者としての責任感をより鋭く研ぎ澄ませた。
ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵による独裁体制は、その根幹となる「社会経済再建計画」の策定によって、着実に、そして苛烈にその姿を現し始めていた。
この計画は宰相府直轄のプロジェクトとして進められ、カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターの両氏を中心として、開明派の法学、政治学、経済学の泰斗たちが名を連ねた。さらに各省からも精鋭の官僚が駆り出され、旧来の門閥貴族が支配していた頃の、非効率極まりない行政組織を根本から解体・再編する作業が進められた。
財務省は、この計画の細部を詰める段階で最も頻繁にデータの照会を受ける部署となった。
「税収と予算のシミュレーションだ。昨日までの数字では足りん、向こう十年の予測値を出せ!」
そんな宰相府からの要求により、ヨアヒムの業務量は爆発的に増加した。しかし、それは同時に、帝国の未来を左右する最新の情報にアクセスしやすい立場に彼を置くことにもなった。
ヨアヒムは、深夜まで続く残業の合間に、照会されるデータの意図を繋ぎ合わせ、計画の全容をパズルのように組み立てていった。そして判明した事実は、彼が予期していた以上に徹底したものだった。
まず、リップシュタット戦役で没収された膨大な貴族領は当然として、残った貴族の領地についても、例外なく「領主権」が廃止される。
「徴税権、司法権、私兵の保有権の廃止……。つまり、領主は領民を支配する『王』ではなくなるということか」
農奴の開放、領民の所有権と財産権の保障、そして残った領地は単なる「私有地」へと読み替えられ、領主は「地主」へとその地位を格下げされる。同時に、貴族と平民の法的差別は撤廃され、全臣民が「法の下の平等」に置かれることになる。これは、数世紀にわたって帝国を支えてきた階級社会の事実上の終焉を意味していた。
(予想はしていたが。だが、これほどまでとは……)
ヨアヒムは、手元の端末に表示された税制改革の素案を見つめた。
今後、細部が詰められていくであろう新たな税体系では、貴族特権による免税措置は一切認められない。それどころか、広大な土地を所有し続けること自体が、重い資産税の対象となる。
(テレーゼの実家も、妹の嫁ぎ先も、一族の租税負担は間違いなく激増する。これまでのような『名誉を維持するための浪費』を続ければ、数年で破産する家も出るだろう)
ヨアヒムは、重い頭を抱えて溜息をついた。
父はすでに屋敷を売り、身を縮めて生きる道を選んでいる。だが、いまだに「伯爵」や「男爵」という肩書きに固執し、不採算な領地経営に執着している親族たちに、この残酷なまでの「未来の数字」をどう説得すべきか。
「……ハイディ、そしてこれから生まれてくる子のためにも、私は冷酷にならざるを得ないな」
深夜、誰もいないオフィスでヨアヒムは呟いた。
彼は、一族の資産を保全し、特権なき時代を生き抜くための「第二次資産流動化計画」を、非公式のメモとして書き留め始めた。それは、ミュッケンベルガーという古き艦隊を、新しい時代の荒波に耐えうる鋼鉄の商船へと作り変えるための、孤独な設計図であった。
原作ではリップシュタット戦役前にラインハルトがブラッケとリヒターを呼んで「社会経済再建計画」立案を命じ、戦役が終わりラインハルトの宰相就任直後に「公平な刑法および民法の制定と税制度の改革をおしすすめる」となっています。法律の修正や起草から公布、施行、さらにそれに合わせた法的手続きの実施はそれなりに時間がかかるはずなので、ここでは、ラインハルトが戦役終了後にブラッケとリヒターを招くという旧アニメの設定を組み込み、「社会経済再建計画」策定を宰相府直轄プロジェクトとしてそれなりに時間をかける、という設定にしてあります。