しろいろガールフレンド   作:合歓木あやめ

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第四話「指先の約束」

 フィッシュボーンは、成功だった。

 

 左右に分けた髪束から細い毛を交互に掬い取って編み込んでいく技法で、完成すると魚の骨のような繊細な模様が浮かぶ。千雪は初挑戦にしては上出来だと思った。白い髪の上に浮かぶ編み目は、光の角度によって陰影が変わる。手間をかけた甲斐があった。

 

 朝、教室に入ると、天野小夏がすでに席にいた。ここ数日、千雪より早く来ていることが多い。

 

 千雪が鞄を置くと、天野小夏の目が吸い寄せられるように動いた。

 

「——なにそれ」

 

 声が、裏返りかけていた。

 

「フィッシュボーン」

 

「フィッシュボーン……。魚の骨……。いやいや、魚の骨っていう名前のくせに全然魚っぽくないやん。めっちゃ繊細やん。なんかこう——鎧の鎖帷子みたいっていうか——」

 

「鎖帷子」

 

「あっ、ごめん。アニメの見すぎで語彙が偏ってて——いやアニメとかそういうんちゃうくて、えーと——」

 

 天野小夏が慌てて言い直そうとしたが、千雪は小さく首を傾げた。

 

「……鎖帷子、わかる気がする」

 

「え、ほんまに?」

 

「編み目が連なってるところが、そう見えなくもない」

 

 天野小夏がほっとしたように息を吐いた。それから少し照れたように笑って、「よかった、変なこと言ったかと思った」と呟いた。

 

 変ではない——と千雪は思った。むしろ、千雪自身のネーミング感覚に近い。普通の人なら「編み込み可愛い」で終わるところを、鎖帷子という語彙が出てくるのは、独特な感性の証拠だ。

 

「天野さん、語彙の引き出しが面白い」

 

「面白い……? それは褒められてるん?」

 

「褒めてる」

 

 天野小夏が「えへへ」と笑った。

 

 それから、少しだけ声を落として。

 

「——今日やんな?」

 

「何が」

 

「ヘアアレンジ。教えてくれるって言ってたやつ」

 

 覚えていた。いや、覚えていて当然か。自分だって準備してきたのだから。

 

「……放課後、部室が空いてたら」

 

「やった。めっちゃ楽しみ」

 

 天野小夏の目がきらきらしていた。子供が遠足の前日に見せるような、混じりけのない期待。千雪はそれを正面から受け止めるのが少し気恥ずかしくて、文庫本を開いた。

 

 放課後。

 

 今日は料理研究部の活動日ではなかったが、部室の鍵を矢島先輩に借りることはできた。「ヘアアレンジの練習に使いたい」と説明すると、先輩は「料理研究部なのに?」と笑いながらも快く鍵を貸してくれた。

 

 調理実習室の窓際に椅子を二つ並べる。千雪は鞄の中から小さなポーチを取り出した。中にはヘアゴム、アメピン、コーム、そしてA5サイズのノートが一冊。

 

「なにそれ」

 

「手順書」

 

「手順書!?」

 

 天野小夏が目を丸くした。千雪がノートを開くと、見開きにイラスト付きの手順が丁寧に書かれていた。『くるりんぱ——基本編』というタイトルの下に、①から⑥までの工程が、矢印と簡単な図解で示されている。

 

「……花守さん、これ手書き?」

 

「うん。昨日描いた。自分でやってることを言葉にしないと教えられないから」

 

「いやすごいな! 説明書やん。めっちゃわかりやすい——あ、ここの矢印のとこ、毛束をこうひねるってこと?」

 

「そう。ゴムの上に隙間を作って、そこに毛束を上から通す。通したら左右に引っ張って締める」

 

 天野小夏が手順書を真剣に見つめている。いつもの軽い雰囲気が消えて、勉強する時の顔になっていた。眉間にほんの少し皺が寄っている。

 

「——やってみる?」

 

「うん。やってみる。でもうち、ほんまに不器用やからな……」

 

 天野小夏が自分の茶色い髪を後ろで一つに束ねようとした。だが、すぐに手が止まった。

 

「あかん。後ろが見えへんから、ゴムの位置がわからん」

 

「……鏡がないからね。最初は、私が見本を見せる」

 

 千雪は自分のフィッシュボーンを解いた。アメピンを外して、編み目を指でほどく。白い髪がさらりと背中に流れた。

 

 天野小夏が、息を呑んだ。

 

「——っ」

 

「……どうした?」

 

「いや。髪、下ろすと——また全然ちゃうなって」

 

 その声がかすれていた。千雪はちらりと横を見た。天野小夏の視線が千雪の髪に注がれている。あの、分類できない目。初日のホームルームで向けられたのと同じ温度の。

 

 千雪は意識的に視線を手元に戻した。コームで髪を軽く梳かして、後ろで一つに束ねる。

 

「ここを見て。まず、耳の高さでゴムを緩めに結ぶ」

 

 ゴムで髪を留める。結び目を指一本分の余裕をもって締める。

 

「次に、ゴムの上の髪を半分に割って、隙間を作る」

 

 左手で毛束を支え、右手の人差し指と中指で髪を割く。

 

「その隙間に、結んだ毛先を上から通す」

 

 くるんと毛束をくぐらせる。ゴムの結び目が内側に隠れて、ねじりが生まれる。

 

「最後に、左右に軽く引っ張って形を整える。——以上」

 

 振り返ると、天野小夏が食い入るように見つめていた。

 

「……覚えた?」

 

「ちょっと待って、動画で撮ってもよかった?」

 

「先に言って」

 

「ごめん。でも——たぶん覚えた。やってみる」

 

 天野小夏が自分の髪に手を伸ばした。コームを借りて、後ろで束ねる。ゴムを結ぶ。ここまでは問題ない。

 

「えっと、ゴムの上を割って……」

 

 指が髪の中で迷子になっていた。後ろが見えないので、手探りで隙間を探っている。

 

「もう少し上。ゴムのすぐ上のところ」

 

「ここ?」

 

「もう一センチ上」

 

「えっ——あかん、わからん。どこ」

 

 天野小夏が困った顔で振り返った。後ろ頭に両手を突っ込んだまま、間の抜けた格好だった。

 

「……私が、やろうか」

 

 言ったのは千雪だった。

 

 沈黙が落ちた。天野小夏の目がゆっくりと見開かれた。

 

 ——あ。

 

 千雪は自分の発言の意味に遅れて気づいた。「やろうか」というのは、天野小夏の髪に触れるということだ。他人の体に。自分の手で。

 

 昼休みに「予告してくれたら大丈夫」と言ったのは自分だった。あれは自分の髪に触れられることについてのルールだったが——自分から他人に触れることについては、考えていなかった。

 

「……いいの?」

 

 天野小夏の声が小さかった。

 

「自分で言ったんだから、いい」

 

「花守さんこそ——触るの、大丈夫?」

 

 千雪は少し考えた。

 

 大丈夫だろうか。他人の髪に触れるのは、あまり経験がない。寧々の髪を乾かしてあげたことはあるけれど、あれは姉だから例外だ。

 

 でも——不思議と、嫌ではなかった。

 

「大丈夫。後ろ向いて」

 

 天野小夏が、ゆっくりと背中を向けた。

 

 茶色い髪が目の前にあった。

 

 千雪はまず、指先で軽く髪の状態を確認した。天野小夏の髪は千雪のそれとは全然違う。太くてしっかりしていて、ウェーブの癖がある。毛量も多い。触れた瞬間、指に伝わる質感が新鮮だった。自分の髪は絹糸のように細くてさらさらしているけれど、この髪は——温かい、と思った。温度のことではなく、手触りの印象として。

 

「——あ」

 

 天野小夏が小さく声を漏らした。

 

「痛い?」

 

「ちゃうちゃう。全然痛くない。ただ——花守さんの手、冷たくて」

 

「……ごめん」

 

「謝らんでええ。気持ちいいから」

 

 最後の一言は独り言だったのかもしれない。天野小夏の耳が見る見るうちに赤くなっていくのが、背後からでもわかった。

 

 千雪は黙々と手を動かした。ゴムの位置を整えて、隙間を作って、毛束を通す。左右に引いて形を整える。ねじりの部分を指で少しだけ引き出して、ルーズさを加える。

 

「——できた」

 

「え、もう? 早いな」

 

 天野小夏がスマートフォンのインカメラで後ろ頭を確認しようと悪戦苦闘していた。千雪は手順書のノートを裏返して、鞄から手鏡を出した。

 

「これで見て」

 

「あ、ありがと——うわ」

 

 鏡を覗き込んだ天野小夏が、固まった。

 

「……なにこれ。うちの髪? 嘘やん。めっちゃちゃんとしてるやん」

 

「くるりんぱ一回しただけだけど」

 

「一回でこんなに変わるもんなん!? すごい、なんかこう——ちゃんとしてる」

 

「ちゃんとしてる、が二回出た」

 

「だってちゃんとしてるから! うちがやったらぐちゃぐちゃになるのに、花守さんがやると——」

 

 天野小夏が鏡を下ろして、振り返った。近い。椅子を向かい合わせにしているから、膝と膝の距離が三十センチもない。

 

「——花守さん、手ぇ魔法やん」

 

「魔法ではない。技術」

 

「技術がすごいってことは、めちゃくちゃ練習したってことやろ。自分の髪でずっと」

 

 その通りだった。中三の秋に目覚めてから——寧々のデータが正しければ——二年半、千雪は毎朝鏡の前で試行錯誤を重ねてきた。最初は三つ編みすら左右対称にできなかった。何十回と失敗して、動画を見て、また試して、ようやく今の腕前になった。

 

「……好きだから、練習も苦じゃなかった」

 

「そういうとこがええんよなあ。好きなことに真っ直ぐっていうか」

 

 天野小夏がしみじみと言った。それから、ふと表情が翳った。ほんの一瞬。瞬きのように短い翳りだったが、千雪はそれを見逃さなかった。

 

「天野さんは」

 

「ん?」

 

「好きなこと、ある?」

 

 天野小夏の肩が、かすかに跳ねた。

 

「——あるよ。あるけど」

 

「けど?」

 

「…………いや、なんでもない。あるある、旅行とか、食べ歩きとか」

 

 また蓋をした。昼休みの時と同じだ。自分の話になると、途中で引っ込める。旅行は本当に好きなのだろうけれど、今言いかけたのは別のことだ。千雪にはわかる。

 

 けれど、追及はしない。それが千雪のルールだ。

 

「——もう一回、自分でやってみる?」

 

 話題を戻すと、天野小夏は明らかにほっとした顔で「うん」と頷いた。くるりんぱを解いて、最初からやり直す。今度は千雪が横で見守りながら、手の位置だけを言葉で指示した。

 

「もうちょい右。——そこ。通して」

 

「こう?」

 

「もう少しゆっくり。毛束がねじれてる」

 

「えっ、どこ」

 

「左手の——ここ」

 

 千雪が手を伸ばして、天野小夏の指先に自分の指を添えた。

 

 二人の指が触れた。

 

 時間にすれば一秒もなかった。天野小夏の指の位置をずらして、正しい角度に導いただけ。それだけの接触。

 

 なのに、千雪の心臓がいやに大きく鳴った。

 

 指先から伝わった温度が、腕を駆け上がって胸に届いた。天野小夏の手は温かかった。千雪の冷たい指先との差が際立って、触れた場所だけが別の素材でできているみたいだった。

 

「——できた?」

 

 声が平静であることを確認してから言った。

 

「できた……かな? ちょっと歪んどるけど」

 

 天野小夏がインカメラで確認している。確かに少し左に寄っているが、初めてにしては悪くない。

 

「最初はそんなもの。何回かやれば真ん中にくる」

 

「花守さん先生、スパルタやなくて助かるわ」

 

「先生はやめて」

 

「師匠」

 

「もっとやめて」

 

 天野小夏がくすくす笑った。千雪は視線を逸らして、窓の外を見た。夕方の光が傾いて、調理実習室の床にオレンジ色の長方形を描いている。

 

 ——指先が、まだ温かい。

 

 さっき触れた場所に、他人の体温の残像が貼りついている。それは不快ではなかった。不快ではないことが、千雪にとっては珍しかった。

 

「花守さん」

 

「なに」

 

「また教えてくれる? くるりんぱ以外のやつも」

 

「……三つ編みくらいなら」

 

「三つ編み! やりたい。いつがいい?」

 

「……部活がない日なら」

 

「じゃあ金曜日」

 

「……気が早い」

 

「善は急げって言うやん」

 

 前にも聞いた台詞だ。天野小夏は行動が早い。思いついたら即実行するタイプらしい。千雪とは対照的だ。千雪は考えて、考えて、考えてから動く。

 

「金曜日でいい。ただし——」

 

「ただし?」

 

「手順書を作る時間がいるから、水曜日までに何を教えるか決めさせて」

 

「了解。花守さんのペースに合わせる」

 

 その言い方が、ひどく丁寧だった。天野小夏なりの「予告制」なのだと、千雪は思った。こちらのルールを覚えていて、それに合わせようとしてくれている。

 

 片づけをして部室を出た。廊下を並んで歩く。部活動の声が校舎のあちこちから聞こえてくる。吹奏楽部の金管楽器、運動部の掛け声。放課後の学校には、授業中とは違う空気が流れている。

 

 昇降口で靴を履き替える時、天野小夏が不意に言った。

 

「花守さんってさ、友達多い?」

 

 千雪は靴のかかとに指を入れながら、少し考えた。

 

「……多くない」

 

「学校で仲いい子とかは」

 

「いない。……ネットに何人かいるけど」

 

「ネットに?」

 

「姉の知り合いの繋がりで」

 

 天野小夏が「へえ」と意外そうな顔をした。千雪が「ネットに友人がいる」と言う姿が想像できなかったのかもしれない。

 

「花守さんがネットで友達作るの、なんか意外。アカウントとかあるん?」

 

「あるけど、ほぼROMってるだけ」

 

 ——また出た。寧々語がまた口から漏れた。「ROMってる」は一般的な言葉ではない。千雪は内心で舌打ちした。

 

「ROMってる。あー、見る専ってことやんな」

 

 天野小夏がすんなり理解した。千雪は少し驚いた。

 

「……わかるんだ」

 

「まあ、うちもネットはそこそこ見るし」

 

 「そこそこ」という言い方に含みがあった。千雪の直感が微かに反応したが、深追いはしなかった。

 

「花守さんは、どういう系のアカウントなん」

 

「……料理の写真を、たまに上げてる。見る人はほとんどいないけど」

 

「見たい。教えてくれん?」

 

「——恥ずかしいからダメ」

 

「えっ、なんで恥ずかしいん」

 

「料理名が全部あのノリだから」

 

 天野小夏が一瞬黙って、それからぷっと吹き出した。

 

「小惑星ベルトとか方舟とか、全部あの感じで並んでるってこと?」

 

「……そう」

 

「それ最高やん。見たすぎるんやけど」

 

「ダメ」

 

「えー」

 

 天野小夏が頬を膨らませた。千雪は昇降口を出て、少し早足で歩いた。背後から「ちょっと待ってや」という声が追いかけてくる。

 

 校門を出たところで、天野小夏が追いついてきた。

 

「花守さん、足早い」

 

「天野さんが遅い」

 

「靴紐結んでただけやって」

 

 並んで歩く。夕暮れの通学路は四月の終わりに近づいて、日が長くなり始めていた。空の色がゆっくりと変わっていく。青から橙へ、橙から薄紫へ。

 

「——なあ、花守さん」

 

「うん」

 

「うち、この学校好きかもしれん」

 

 唐突だった。千雪は横を見た。天野小夏は前を向いて歩いていて、その横顔に夕焼けの色が載っていた。

 

「前の学校は好きじゃなかった?」

 

「嫌いではなかった。でも——」

 

 天野小夏が少し言葉を選ぶように間を置いた。

 

「転校って、途中参加やんか。もう出来上がっとるグループに後から入るわけやから、どうしてもお客さん扱いっていうか。最初はみんな優しいねんけど、そのうち——」

 

 そこで止まった。言いかけてやめる。いつもの癖だ。

 

 でも今日は、千雪のほうから一歩だけ踏み込んだ。

 

「——そのうち?」

 

 天野小夏がちらりとこちらを見た。少し驚いた顔をしていた。千雪が自分から聞き返すのが珍しかったのだろう。実際、珍しい。

 

「……そのうち、特別扱いが終わって、普通になるんよ。普通になるのはええことなんやけど——普通になった時に、うちの中身を知って、ちょっと引く子がおったりして」

 

「中身」

 

「うん。……うちって、表面はこうやって明るくしとるけど、中身はけっこう——偏っとるっていうか」

 

 偏っている。何が。旅行が好きで、食べ歩きが好きで、それ以外の——天野小夏が毎回蓋をする「何か」が、そこにあるのだろう。

 

 千雪は少しだけ立ち止まった。天野小夏も足を止めて振り返る。

 

「……偏ってるのが、悪いことだとは思わない」

 

 千雪は静かに言った。

 

「私の髪も偏ってる。普通の色じゃない。でも、好きだと思ってる。——偏ってるから嫌だっていう人は、最初から合わないだけ」

 

 天野小夏が目を見開いた。夕焼けの光が琥珀色の瞳に溶けていた。

 

「……花守さんは、強いな」

 

「強くない。慣れただけ」

 

「慣れるまでに、しんどいことあったやろ」

 

 千雪は答えなかった。代わりに、歩き出した。天野小夏が慌ててついてくる。

 

「——ごめんな。踏み込みすぎた」

 

「踏み込んでない。ただ、答えるほどの話じゃないだけ」

 

 嘘だった。答えたくない話だった。幼い頃の視線の記憶。知らない子供の無邪気な残酷さ。教室の隅で一人で本を読んでいた時間。それは千雪の中でとっくに処理済みのデータだったが、処理済みだからといって痛くないわけではない。

 

 でも——天野小夏の前で、その話をする気にはなれなかった。同情されたくないのとは少し違う。この人の前では、できれば——強いままでいたかった。

 

 なぜそう思うのかは、まだわからない。

 

 駅に着いて、改札を並んで通った。同じホームで電車を待つ。

 

「花守さん」

 

「うん」

 

「うちがもし——偏ってるとこ見せても、引かん?」

 

 千雪はベンチに座ったまま、天野小夏を見上げた。天野小夏は立ったままこちらを見下ろしていて、その表情は笑っていなかった。今まで見た中で一番真剣な顔だった。

 

「……見てみないとわからない」

 

 正直に答えた。

 

「でも、少なくとも——小惑星ベルトを『最高』って言ってくれた人を、簡単に嫌いにはならない」

 

 天野小夏が、ぱちぱちと瞬きをした。それから——ゆっくりと、噛み締めるように笑った。

 

「……ずるいわ、花守さん」

 

「何がずるいの」

 

「そうやって、たまにめちゃくちゃええこと言うのがずるい」

 

 電車が来た。乗り込んで、つり革を掴む。平日の夕方はそこそこ混んでいて、二人の距離は電車の揺れに合わせて近づいたり離れたりした。

 

「——あ、そうや。花守さん、ゴールデンウィークって何するん」

 

「……姉に連れ回される」

 

「連れ回される?」

 

「姉がハイエースを持ってて、連休になると車中泊しながらあちこち回るのが趣味で」

 

「ハイエース!? 大学生の女の人がハイエース!? なにそれ、めっちゃかっこええやん」

 

 かっこいいかどうかは疑問だったが、寧々のハイエースは確かに周囲に驚かれることが多い。両親から受け継いだ古い車を、寧々が自分で改造して車中泊仕様にしたものだ。内装は素人とは思えない完成度で、二人分の寝床と簡易キッチンが備わっている。

 

「今年はどこ行くん?」

 

「まだ聞いてない。前回は四国だった」

 

「四国ええなあ。うどん食べた?」

 

「姉が一日三食うどんにしようとしたのを止めた」

 

「止めたんや。偉い」

 

「止めなかったら本当にやるから」

 

 天野小夏がけらけらと笑った。つり革を持つ手が揺れに合わせて動く。笑い声が車内の雑踏に溶けていく。

 

「花守さんのお姉さん、面白い人やな。会ってみたいわ」

 

 千雪はつり革を握り直した。

 

 ——会わせてほしい。

 

 寧々の言葉が脳裏をよぎった。姉は天野小夏に会いたがっている。けれどそれは、面白そうだからではなく、確認したいからだ。この子は千雪の傍にいて大丈夫な人間なのか——それを自分の目で判断したいからだ。

 

「……そのうち、機会があれば」

 

「ほんま? 楽しみにしてるわ」

 

 天野小夏の駅が近づいてきた。ドアの前に移動しながら、天野小夏がぽつりと言った。

 

「花守さん」

 

「うん」

 

「今日、髪触ってくれてありがとう。——うちの髪なんか、触ってもおもんないやろうに」

 

「面白くなくはなかった」

 

「え、どういうこと」

 

「……自分の髪と全然違うから、新鮮だった。天野さんの髪は温かかった」

 

 言ってから、千雪は自分の選んだ言葉に一拍遅れて気づいた。温かかった。何を言っているんだ。髪の温度のことではない。手触りの印象だと弁解しようとしたが、天野小夏がすでに耳まで真っ赤になっていたので、弁解は逆効果だと判断して黙った。

 

「——っ、あ、うちの駅。じゃ、じゃあまた明日な!」

 

 天野小夏が電車を飛び降りた。ホームの上で一度振り返り、ぶんぶんと手を振った。その顔がまだ赤いことを確認してから、千雪は小さく手を振り返した。

 

 ドアが閉まる。電車が動き出す。

 

 窓の外を流れる景色を見ながら、千雪は自分の右手を見下ろした。天野小夏の髪に触れた指先。もう温度は消えているのに、感触だけが残っている。細くてさらさらの自分の髪とは違う、しっかりとした手触り。

 

 千雪は右手を左手で包み込んで、小さく握った。

 

 ——これは、何。

 

 名前のつけられない感覚が、胸の中で静かに大きくなっている。料理の名前なら一瞬で浮かぶのに。髪型の名前も、お菓子の名前も、雨の名前さえもつけられるのに。

 

 この感覚だけは、どう名付けていいかわからない。

 

 家に着くと、玄関のドアを開けた瞬間、カレーの匂いがした。

 

「おかえり。今日は姉ちゃんが夕飯作ったよ。カレー」

 

 寧々がキッチンに立っていた。エプロンをつけて、鍋をかき混ぜている。千雪は少し警戒した。寧々のカレーは唯一の安全圏メニューだが、たまに独自のアレンジを加えて大惨事を引き起こすことがある。

 

「……何入れた?」

 

「失礼な。普通のカレーだよ。ちーちゃんが疲れてると思って」

 

「疲れてない」

 

「嘘おっしゃい。ちーちゃんは耳が赤い時は疲れてるか照れてるかのどっちかなんだが。今はどっち?」

 

 千雪は無意識に自分の耳に手を当てた。——赤い、のか。

 

「……疲れてるほう」

 

「了解。じゃあ今日はゆっくりしな。風呂先に入っていいよ」

 

 寧々が振り返らずに言った。その背中が、いつもより少しだけ大きく見えた。

 

 風呂から上がって、髪を乾かして、リビングに戻るとカレーが二皿並んでいた。向かい合って食べる。ルーの濃度は適正、具材の大きさも揃っている。普通のカレーだ。普通においしい。

 

「ちーちゃん」

 

「ん」

 

「今日、遅かったね。部活ない日でしょ」

 

「……ヘアアレンジを教えてた。天野さんに」

 

 寧々の匙が、一瞬だけ止まった。

 

「ヘアアレンジ。ちーちゃんが。人に教えるの」

 

「くるりんぱだけ」

 

「ちーちゃんが——自分の髪を他人に触らせるの嫌がるちーちゃんが——人の髪に触ったの?」

 

 千雪はカレーを一口食べた。じゃがいもがほくほくしている。

 

「……触った」

 

 寧々が匙を置いた。両手を組んで、その上に顎を載せた。姉がこのポーズを取る時は、真剣に考え事をしている時だ。

 

「ちーちゃん」

 

「うん」

 

「その子のこと、好き?」

 

 千雪の匙が止まった。

 

「……好きって、何」

 

「友達として好きか、それ以外の好きか」

 

 千雪はカレーの皿を見つめた。ルーの表面に浮かぶ油の膜が、照明を反射してきらきら光っている。

 

「——わからない。まだ分類中」

 

 前にも同じ言葉を使った気がする。ネットの友人に送った返信と同じ。あの時は天野小夏という存在そのものが分類できなかった。今は——天野小夏に対する自分の感情が分類できない。

 

 寧々は数秒黙ってから、ふっと息を吐いた。

 

「ま、ちーちゃんが自分のペースで答え出せばいいよ。姉ちゃんはいつでもここにいるから」

 

「……うん」

 

「ただし」

 

「……また『ただし』?」

 

「ゴールデンウィーク、天野さんも誘っていい?」

 

 千雪は顔を上げた。

 

「……姉の車に?」

 

「うん。日帰りでいいからさ。姉ちゃんも会ってみたいし、旅行好きなんでしょその子。ちーちゃんの大事な人を知りたいの。だめ?」

 

 大事な人。その呼び方に、千雪の心臓が跳ねた。

 

「——大事かどうかは、まだ」

 

「まだわかんない?」

 

「……まだ、分類中」

 

 寧々がにやりと笑った。

 

「分類中が三回目。ちーちゃん、それ——答え出てるのに名前つけるのが怖いだけじゃない?」

 

 千雪は黙ってカレーを口に運んだ。

 

 寧々はそれ以上何も言わなかった。二人でカレーを食べ終えて、食器を洗って、歯を磨いて。

 

 ベッドに入る前に、スマートフォンを確認した。天野小夏からのLINE。

 

『今日教えてもらったくるりんぱ、家で練習してみた! 三回目でやっとまともにできた! 見て!!』

 

 添付された写真には、洗面台の鏡に映った天野小夏の後ろ頭があった。少し歪んでいるが、ちゃんとくるりんぱになっている。

 

 千雪は写真を拡大した。鏡越しに映る天野小夏の顔が、誇らしげに笑っていた。

 

 ——かわいい。

 

 その言葉が、不意に浮かんだ。押し戻す間もなく、胸の真ん中にすとんと落ちた。

 

 かわいい。天野小夏が。笑顔が。鏡越しのピントの合っていない写真が。

 

 千雪は布団を頭まで被って、スマートフォンの画面を見つめた。白い髪が視界の端でさらさらと揺れている。

 

 返信を打った。

 

『上手にできてる。金曜日は三つ編みやろう』

 

 送信して、画面を伏せた。

 

 ——答え出てるのに名前つけるのが怖いだけじゃない?

 

 寧々の声が反響する。

 

 名前をつけるのは得意なはずだ。お菓子にも、料理にも、雨にだって名前をつけた。なのに、この感情だけは——名付けた瞬間に、もう戻れなくなる気がして。

 

 千雪は目を閉じた。

 

 瞼の裏に、天野小夏の指先の温度が蘇る。

 

 冷たい指に触れて「気持ちいい」と言った声。耳まで赤く染まった横顔。くるりんぱが成功した時の、子供みたいな笑顔。

 

 ——名前を、つけなければ。

 

 いつか。もう少しだけ、整理ができたら。

 

 四月が終わろうとしていた。

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