しろいろガールフレンド   作:合歓木あやめ

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第六話「姉と海と試験」

 ゴールデンウィーク初日の土曜日。朝六時。

 

 千雪はクローゼットの前で腕を組んでいた。

 

 私服選びに迷うのは珍しいことだった。いつもなら前日の夜に翌日の服を決めておく。髪型と同じだ。計画的に、効率よく。それが千雪のやり方だった。

 

 なのに——昨夜は決められなかった。白いブラウスにデニムのスカートを合わせて、やめて。ボーダーのカットソーにワイドパンツを合わせて、やめて。結局三パターン試してどれもしっくりこなくて、保留のまま眠ってしまった。

 

 今また同じことを繰り返している。

 

「——これは、何に迷ってるんだろう」

 

 呟いてから気づいた。服に迷っているのではない。誰に見られるかを意識しているから迷うのだ。

 

 結局、白いリネンシャツに薄いブルーグレーのワイドパンツを選んだ。シンプルだけれど、白い髪との相性がいい組み合わせ。日差し対策のカーディガンと、つば広の帽子を鞄に入れる。サングラスも忘れずに。

 

 髪は——少し迷って、ゆるいひとつ結びにした。毛先を外に遊ばせて、結び目に細い白い髪を一巻きさせて、ゴムを隠す。作り込みすぎず、でも手を抜いていない。そういうラインを狙った。

 

「ちーちゃーん、天野さんもうすぐ着くってさー」

 

 リビングから寧々の声が飛んでくる。千雪はスマートフォンを確認した。天野小夏からのLINEが三件。

 

『おはよう! もう起きた! 楽しみすぎて5時に目覚めた!!』

『何着ていこう……花守さんはどんな格好するん?』

『もうすぐ着きます! 待ち合わせの場所ここで合ってるよね??』

 

 最後のメッセージには地図のスクリーンショットが添付されていた。合っている。千雪は『合ってる。もう少しで出る』と返して、部屋を出た。

 

 リビングでは寧々がハイエースの鍵を手でくるくると回しながら、ソファに腰掛けていた。Tシャツにカーゴパンツというラフな格好。サングラスを額の上に引っ掛けている。

 

「ちーちゃん、いい? 姉ちゃん一個だけ確認」

 

「何」

 

「今日は天野さんとの初対面だから、姉ちゃんちょっと張り切ってるけど——尋問みたいにならないよう気をつけるから。もしちーちゃんが『やりすぎ』って思ったら、合図して。足踏んでくれたらわかるから」

 

「足を踏む合図って何……」

 

「古来より伝わる姉妹間プロトコルだが?」

 

「伝わってない。うちだけのローカルルール」

 

 千雪は靴を履きながら、少しだけ不安になった。寧々は基本的に善人だが、千雪のことになると判断基準がバグる。「ちーちゃんに害をなす可能性」を検知すると、普段の緩さが嘘のように鋭くなる。

 

 ——大丈夫だろうか。

 

 マンションの駐車場に止めてあるハイエースに向かった。白いボディに、後部座席の窓にはカーテンがついている。寧々が自分で取り付けたものだ。車内は二列目のシートを倒してフラットにできるようになっていて、奥にはコンパクトな収納棚と小型のクーラーボックスが備え付けられている。

 

 千雪が助手席に乗り込むと、寧々はエンジンをかけて暖機しながら、スマートフォンで何かを確認していた。画面にはスプレッドシートが表示されている。

 

「本日の行程。七時出発、九時半に伊東着、午前中は城ヶ崎海岸を散策、昼は伊東駅前で海鮮丼、午後は修善寺で温泉街散策、十六時に出発して十八時半帰着。予備時間を各ポイントに三十分ずつ確保。天候は晴れ時々曇り、最高気温二十四度、紫外線指数はやや強——」

 

「姉、旅行会社の人みたい」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

 待ち合わせ場所はマンションから徒歩三分のコンビニの駐車場。ハイエースを移動させると、すでに天野小夏が立っていた。

 

 千雪は窓越しに天野小夏の姿を確認した。黄色い薄手のワンピースに白いスニーカー。ウェーブのかかった茶色い髪を下ろしていて、耳の横にだけ小さなヘアクリップがついている。——昨日の夜、LINEで「クリップの留め方」を教えたやつだ。ちゃんと使っている。

 

 胸の奥が、小さく跳ねた。

 

 寧々がハイエースを停めて、窓を開けた。

 

「おはようございまーす。天野小夏ちゃん?」

 

「あっ、おはようございます! 花守さんのお姉さん——寧々さん、ですよね。今日はほんまにありがとうございます、乗せてもらって」

 

 天野小夏がぺこりと頭を下げた。声が半音高い。緊張しているのだ。

 

「いいよいいよ、乗って乗って。後ろの席ね。あ、ちーちゃんと並びたいなら助手席空けるけど——」

 

「いい。私は助手席」

 

 千雪が即座に遮った。後部座席に寧々と天野小夏を並べたら何が起きるかわからない。自分が間に入っておいたほうが安全だ。

 

 天野小夏が後部座席に乗り込んだ。シートベルトを締めながら、車内をきょろきょろと見回している。

 

「わあ、中めっちゃ広い。これ車中泊できるんですか?」

 

「できるよー。二列目倒したらフルフラットになるから、大人二人余裕で寝れる。前回の四国旅行では三泊した」

 

「三泊! すごい、ほんまにキャンピングカーみたいやな」

 

「ハイエースはね、カスタムの幅が広いのが最高なんだよ。この棚も自分で作ったし、カーテンレールも自分で取り付けた。木材はホームセンターで切ってもらって——」

 

「寧々姉、出発して」

 

 放っておくとハイエースの改造話が一時間続くので、千雪は強制的に話を切った。寧々は「はいはい」と笑いながらギアを入れた。

 

 車が動き出す。朝の街並みが流れていく。ゴールデンウィーク初日だが、この時間ならまだ道は空いている。

 

 バックミラー越しに、天野小夏が窓の外を眺めているのが見えた。朝の光を受けた横顔が柔らかい。千雪はそれをちらりと確認してから、視線を前に戻した。

 

「天野ちゃんさ」

 

 寧々が何気ない声で切り出した。千雪の肩が微かに緊張する。

 

「はい?」

 

「ちーちゃんのこと、学校でよく話してるんでしょ。いつも何話すの?」

 

「えっと——お弁当の話とか、髪型の話とか。花守さん毎日違う髪型にしてきはるから、それが楽しくて」

 

「へえ。ちーちゃんの髪型の話かあ。——ちーちゃんの髪のこと、どう思う?」

 

 ストレートに来た。千雪はバックミラーで天野小夏の表情を確認した。少し考え込むような顔をして——それから、まっすぐ前を見て答えた。

 

「綺麗やと思います。初めて見た時から、ずっと」

 

「初めて見た時から、か」

 

 寧々の声が一段低くなった。千雪は助手席で身構えた。

 

「珍しいとは思わなかった?」

 

「思いました。でも——珍しいから綺麗なんちゃうて、綺麗やから綺麗やなって。色とか関係なく」

 

 沈黙が落ちた。車のエンジン音だけが響く。

 

 千雪はバックミラーで寧々の横顔を見た。運転席の姉は前を向いたまま、何かを咀嚼するように黙っていた。

 

「——いい答えだね」

 

 ぽつりと言って、寧々はウインカーを出して車線変更した。声の温度が、さっきより少しだけ柔らかくなっていた。

 

 千雪の肩から、少しだけ力が抜けた。第一関門は突破したらしい。

 

 東名高速を南下して、小田原厚木道路を経由し、伊東に着いたのは九時半過ぎだった。寧々のタイムテーブル通りだ。

 

 城ヶ崎海岸の駐車場にハイエースを停めて、三人で車を降りた。潮の匂いが鼻を掠める。五月の日差しは四月よりも確実に強く、千雪は帽子を深く被ってサングラスをかけた。

 

「花守さん、サングラス似合うな」

 

 天野小夏が隣に並んで言った。

 

「……ありがとう」

 

「なんかこう——探偵みたいっていうか、ミステリアスな感じ増しとる」

 

「探偵ではない。ただの紫外線対策」

 

「実用とおしゃれが両立してるのがすごいんよ」

 

 遊歩道を歩き始めた。溶岩が固まってできたゴツゴツした海岸線に、太平洋の波が打ち寄せている。崖の上からの眺めは壮大で、水平線が空と海の境目を曖昧にぼかしていた。

 

 寧々が先頭を歩き、千雪と天野小夏が少し後ろを並んで歩く。天野小夏はスマートフォンを構えて、あちこちの景色を撮影していた。

 

「うわ、すごい。めっちゃ綺麗やん。海の色が全然ちゃう——東京の海と全然ちゃう」

 

「伊豆の海は透明度が高いからね。大室山の溶岩地形がそのまま海底に続いてるから、地質的にもかなり面白い場所なんだよ」

 

 寧々が振り返らずに解説した。旅行好きの知識が自然と出てくるらしい。天野小夏が「へえー」と感心しながらさらに写真を撮っている。

 

「花守さん、一緒に撮らん?」

 

「……自撮りは苦手」

 

「じゃあ風景と一緒に。こっちが撮るから、そこ立って」

 

「……なんで」

 

「記念やんか。旅行の記念」

 

 天野小夏が当然のように言う。千雪は断る理由を探したが見つからず、崖の手すりの前に立った。帽子とサングラスをしたまま、海を背景に。

 

「はい、撮るでー。——あ、ちょっと帽子のつば上げてくれん? 顔が見えへんから」

 

「帽子は取りたくない。日差しが——」

 

「帽子ありでええよ。つばだけちょっと」

 

 千雪が帽子のつばを少し上げると、サングラス越しに天野小夏と目が合った。天野小夏はスマートフォンを構えたまま、数秒固まった。

 

「——どうしたの」

 

「いや。風で髪が——白い髪に海の青が映ってて——めっちゃ——」

 

 また語彙が崩壊しかけている。千雪は「早く撮って」と促した。シャッター音が数回鳴って、天野小夏が「撮れた」と言った。

 

「見せて」

 

 画面を覗き込むと、帽子の下から白い髪がなびいていて、背景の青い海とのコントラストが鮮烈だった。自分で言うのもなんだが——悪くない写真だった。

 

「……上手い」

 

「ほんま? よかったあ。あとで送るな」

 

「うん」

 

 寧々がいつの間にか後ろに立っていて、二人のやり取りを観察していた。千雪が気配に気づいて振り返ると、寧々は何食わぬ顔で海のほうを見ていた。

 

 遊歩道の先に、門脇吊橋が見えてきた。長さ四十八メートル、海面からの高さ約二十三メートルの吊り橋だ。橋の下では白い波が岩に砕けている。

 

「うわ、高い……。これ渡るん?」

 

 天野小夏が橋の入り口で足を止めた。さっきまでの元気が少し萎んでいる。

 

「高いところ苦手?」

 

「苦手ちゃうけど——いや、ちょっと苦手かも」

 

「無理しなくていいよ。ここで待ってても——」

 

「いや、行く。行くで。うちは負けず嫌いやから」

 

 天野小夏が深呼吸をして、一歩を踏み出した。吊り橋が微かに揺れる。

 

「——揺れた。揺れたって。なんで揺れるん」

 

「吊り橋だから揺れるのは構造上当然——」

 

「理屈はわかるけど体がついてきてへんのよ!」

 

 天野小夏の手が、無意識に千雪の袖を掴んだ。

 

 千雪は足を止めた。視線を自分の袖に落とす。天野小夏の指がリネンシャツの袖をきゅっと握っている。力は強くないが、離す気配もない。

 

「——あ」

 

 天野小夏が自分の手に気づいた。

 

「ごめ——」

 

「いい」

 

 千雪は天野小夏の言葉を遮った。

 

「いいから、そのまま。——予告なしでも、これくらいは大丈夫」

 

 天野小夏の指が、ほんの一瞬だけ強く握り直された。

 

「……ありがとう」

 

 二人で橋を渡った。千雪は歩幅を天野小夏に合わせて、ゆっくり進んだ。橋の中央で、眼下に広がる海を見下ろした。青い水面に白い波紋が幾重にも広がっている。

 

「——綺麗やな」

 

「うん」

 

「こういうの見ると、来てよかったって思う」

 

「……うん」

 

 天野小夏の指が、まだ千雪の袖を掴んでいた。橋を渡り終えても、しばらくそのままだった。千雪から離したのは、寧々が「次行くよー」と声をかけた時だった。

 

 手が離れた瞬間、袖に残った温度が消えていくのがわかった。千雪は何も言わずに歩き出した。

 

 昼食は伊東駅前の海鮮料理店に入った。

 

 天野小夏は海鮮丼のわさび抜きを頼み、千雪はしらす丼、寧々は金目鯛の煮付け定食を注文した。

 

「お姉——寧々さんは金目鯛なんですね」

 

「伊豆に来たら金目鯛食べないのは犯罪だからね。ちなみに姉ちゃんのこと呼ぶ時は寧々でいいよ、さん付けとか堅いから」

 

「えっ、ええんですか。じゃあ——寧々さ……寧々ちゃん?」

 

「寧々でいい。呼び捨てで」

 

「ハードル高いな!?」

 

 天野小夏が戸惑っている。千雪は箸を並べながら小さく口を挟んだ。

 

「最初は『寧々さん』でいいよ。姉が勝手にハードル上げてるだけだから」

 

「ちーちゃん、姉ちゃんの交友範囲のカスタマイズに口出ししないでくれる?」

 

「交友範囲のカスタマイズって何」

 

 料理が運ばれてきた。新鮮な刺身が丼からはみ出している。天野小夏が目を輝かせて「めっちゃおいしそう」と声を上げた。

 

「いただきます」を三人で揃えて言う。千雪がしらす丼を一口食べると、しらすの繊細な甘さが口に広がった。鮮度が違う。

 

「うま……。花守さん、こっちのしらすも一口食べてみて」

 

「……いいの?」

 

「ええよ。はい」

 

 天野小夏が自分の箸で海鮮丼からまぐろを一切れ取って——途中で動きが止まった。

 

「あ、箸——自分の箸で取ったらあかんよな。すみません、取り皿——」

 

「大丈夫」

 

 千雪は自分の箸を差し出した。天野小夏の箸からまぐろを受け取る。間接的に——いや、それは考えないことにした。

 

 まぐろを口に入れる。新鮮で、とろりとした脂が舌の上で溶けた。

 

「……おいしい」

 

「やろ? わさびなしでも全然いけるわ」

 

 寧々がバックミラーで二人を観察するのと同じ目で、テーブルの向こうから二人を見ていた。千雪はその視線に気づいていたが、あえて無視した。

 

「ねえ天野ちゃん」

 

 寧々が金目鯛の身をほぐしながら、世間話のような調子で言った。

 

「転校多いって聞いたけど、旅行好きなのはそれと関係ある?」

 

「ああ、たぶん。転校するたびに新しい土地に行くから、自然と色んな場所見るようになって。知らん場所に行くのは不安やけど、同時に楽しくもあって——その楽しいほうを拾うようにしてたら、いつの間にか趣味になってました」

 

「不安なほうは?」

 

「……慣れました、ある程度は」

 

 慣れました、の声がわずかに硬かった。千雪は箸を止めずに聞いていた。

 

「ちーちゃんが言ってたよ。天野ちゃんは学校で話しかけてくれるって」

 

「えっ、花守さんがうちのこと——」

 

「めちゃくちゃ話題にしてるよ。姉ちゃんのログによると——」

 

「寧々姉」

 

 千雪が低い声で制した。寧々は口を閉じたが、にやにやした顔は隠さなかった。

 

「花守さん、うちのこと話してくれてたんや……」

 

 天野小夏の声が小さくなっていた。千雪はしらす丼に集中するふりをした。耳が赤い。自覚がある。帽子で隠れているから大丈夫だと信じたい。

 

「天野ちゃん」

 

 寧々がまた口を開いた。今度は声のトーンが違った。世間話の皮を脱いだ、素の声。

 

「ちーちゃんに友達がほとんどいないの、知ってる?」

 

 天野小夏の箸が止まった。千雪も止まった。

 

「……はい。花守さんから聞きました」

 

「ちーちゃんは小さい頃から——その見た目のせいで、距離を置かれることが多かった。本人は気にしてないふりしてるけど、傷ついてないわけじゃない。姉ちゃんはそれを——ずっと見てきたから」

 

 寧々の声は穏やかだったが、その奥に硬い芯があった。千雪は口を挟まなかった。挟めなかった。姉がこの話をするのを、止める権利が自分にあるのかわからなかったから。

 

「だから——ちーちゃんが自分から誰かを誘うのって、姉ちゃんにとってはすごく大きなことなんだよ。今日のこの旅行もそう。ちーちゃんが自分から『天野さんを誘いたい』って言ったの、初めてだから」

 

「寧々姉、もういい」

 

 千雪が遮った。声が少し震えていた。こういう話を——天野小夏の前でされるのが、恥ずかしいのか嬉しいのかわからなかった。

 

「——ごめんね、ちーちゃん。でも、言っておきたかった」

 

 寧々が千雪を見た。それから天野小夏に視線を移した。

 

「天野ちゃん。ちーちゃんのこと——よろしくね」

 

 その一言に込められた重みを、天野小夏は受け止めたようだった。箸を置いて、まっすぐに寧々を見返した。

 

「——はい。大事にします」

 

 迷いのない声だった。千雪は自分の丼を見つめたまま、何も言えなかった。大事にする。その言葉の意味するところが、友情の範疇なのかそれ以外なのか——天野小夏自身はどちらのつもりで言ったのか。

 

 わからない。わからないけれど——その声の響きだけは、耳の奥に深く残った。

 

 寧々がふっと笑った。さっきまでの硬さが溶けて、いつもの軽い表情に戻っていた。

 

「よし。じゃあ天野ちゃんは審査通過ってことで」

 

「審査やったんですか今の!?」

 

「姉ちゃん審査はガチでやるタイプなんだが。ちーちゃんの交友関係はSSRクラスの厳選だから」

 

「ガチャの話になっとる……」

 

 天野小夏が苦笑して、ちらりと千雪を見た。千雪は視線を合わせずに、しらす丼の最後の一口を黙って食べた。

 

 ——恥ずかしい。

 

 全部が恥ずかしかった。姉の言葉も、天野小夏の返事も、それを聞いている自分の心臓の速さも。

 

 でも。

 

 でも——嫌ではなかった。

 

 午後は修善寺に移動した。

 

 温泉街の細い路地を三人で歩く。石畳の道に竹林の影が落ちて、空気がひんやりと涼しかった。千雪は帽子を取った。ここなら木陰が多くて、直射日光の心配は少ない。

 

 寧々が「ちょっとお土産屋見てくるから、二人で散策してきなー」と言って、さっさと脇道に消えた。あからさまな配慮だった。千雪は姉の背中を見送りながら、小さくため息をついた。

 

「……行こう」

 

「うん」

 

 二人で竹林の道を歩いた。観光客はそれなりにいたが、平日ほどの混雑ではなく、静かな時間が流れていた。

 

「花守さん」

 

「うん」

 

「寧々さんの話——学校で距離を置かれてたって話。あれ、花守さん的にはされたくない話やった?」

 

 千雪は少し考えた。

 

「……されたくなかったかどうかは、わからない。でも、嘘じゃないから。言われて困ることはない」

 

「花守さんは——今も、距離置かれてるん?」

 

「今は違う。小学校の頃が一番ひどかった。中学からは——慣れた」

 

「慣れたって——距離を置かれるのに慣れたってこと?」

 

 千雪は竹林を見上げた。緑の葉が風に揺れて、木漏れ日がちらちらと白い髪の上に落ちる。

 

「置かれることにというより——置かれても大丈夫な自分を作ることに、慣れた。一人でも平気でいられるようにした」

 

「……花守さん」

 

「姉がいたから。あと、ネットの友達。全くの孤独ではなかった。だから——あまり心配しないで」

 

 天野小夏が足を止めた。千雪も数歩先で立ち止まって、振り返った。

 

 竹林の緑の中に、天野小夏が立っていた。黄色いワンピースが木漏れ日に揺れている。その表情は——悔しいような、悲しいような、でもどこか決意をたたえたような。複雑な色をしていた。

 

「……心配はする。友達やから」

 

「うん」

 

「でも——それだけちゃうくて」

 

 天野小夏が一歩、近づいた。

 

「うちは——花守さんのそういうとこ、全部ひっくるめて——」

 

 風が吹いた。竹林がざわりと鳴って、木漏れ日が揺れた。天野小夏の髪が風に攫われて、その奥の顔が露わになった。琥珀色の目が千雪をまっすぐに見ていた。

 

「——全部ひっくるめて、好きやなって思う」

 

 千雪の心臓が止まった——ように感じた。実際には高速で打っていたのだろうが、体感としては完全な静止だった。音が消えた。竹林のざわめきも、遠くの観光客の声も、全部が遠のいて、天野小夏の声だけが鼓膜に貼りついていた。

 

 好き。

 

 好き、と言った。

 

 でも——どういう意味の「好き」だ。友達として。人間として。それとも——。

 

「——友達として、ね」

 

 天野小夏が半歩下がった。照れ隠しのように笑って、後頭部をがしがしと掻いた。

 

「いきなりこんなこと言ったら重いよな。ごめん。寧々さんの話聞いて——なんか、うちも花守さんにちゃんと伝えたいなって思って」

 

「…………」

 

 千雪は何も返せなかった。

 

 「友達として」。その補足が来た瞬間、胸の中で二つの感情が同時に走った。安堵と——失望。安堵は理解できる。今この場で曖昧な告白をされたら、千雪は自分の感情が整理できないまま追い詰められていた。だから安堵は正しい。

 

 失望は——なぜ。

 

 なぜ、がっかりしているのだ。

 

 ——答えは、もう出ているのではないか。

 

 寧々の声が蘇る。『答え出てるのに名前つけるのが怖いだけじゃない?』

 

 千雪は帽子を深く被り直した。表情を隠すように。自分の顔がどうなっているか、見られたくなかった。

 

「……ありがとう。嬉しい」

 

 絞り出すようにそれだけ言った。声が掠れていないか心配だったが、天野小夏は気にした様子もなく「えへへ」と笑った。

 

 ——今は、これでいい。

 

 これ以上は、まだ。

 

 二人で竹林を抜けて、修善寺の本堂まで歩いた。境内で寧々と合流すると、姉は紙袋を二つ抱えていた。

 

「お土産買ってきた。干物と、わさびの佃煮と——あ、天野ちゃんの分もあるよ」

 

「えっ、うちの分も? ありがとうございます!」

 

「いいよいいよ。ちーちゃんの友達は姉ちゃんの家族みたいなもんだから。いつでも旅行誘ってね。次は夏に箱根行こうよ。花火大会あるし」

 

「夏の箱根! 行きたい!」

 

 天野小夏が目を輝かせている。千雪は二人のやり取りを眺めながら、寧々の態度の変化に気づいていた。

 

 朝の「審査」の時とは明らかに違う。壁が低くなっている。声が柔らかい。天野小夏の言葉を、ちゃんと受け止めた上での変化だ。

 

 ——「大事にします」。

 

 天野小夏のあの返事が、寧々の警戒を解いたのだろう。姉は人の言葉の温度を計るのが上手い。言葉の裏に誠実さがあるかどうかを、直感で見抜く。

 

 帰りの車の中で、天野小夏は後部座席で眠ってしまった。城ヶ崎海岸と修善寺を歩き回った疲れだろう。寝顔は起きている時よりもずっと幼く見えた。

 

 千雪は助手席から一度だけ振り返って、その寝顔を確認した。ゆるく開いた唇から規則正しい寝息が漏れている。

 

「ちーちゃん」

 

 寧々が前を向いたまま、小さな声で言った。

 

「いい子だね。あの子」

 

「……うん」

 

「ちーちゃんの目、間違ってなかった」

 

 千雪はフロントガラスの向こうに広がる高速道路を見つめた。夕暮れの空がオレンジから紺に変わりかけている。

 

「寧々姉」

 

「ん」

 

「——ありがとう。今日、連れてきてくれて」

 

 寧々がちらりとこちらを見た。千雪の表情を確認して——ふっと笑った。

 

「どういたしまして。——ちーちゃんの幸せそうな顔見られただけで、姉ちゃんは元取れたよ」

 

「幸せそうな顔なんてしてない」

 

「してたよ。一日中ずっと」

 

 千雪は窓の外に目を逸らした。

 

 ガラスに映った自分の顔は——確かに、いつもより柔らかかった。

 

 後部座席で天野小夏が寝返りを打った。小さく「んー」と声を漏らして、また静かになった。その寝息が車内のBGMのように穏やかに響いている。

 

 千雪は目を閉じた。

 

 今日一日の記憶が、まぶたの裏を流れていく。海の青。吊り橋で袖を掴んだ指。まぐろの甘さ。竹林の木漏れ日。そして——「全部ひっくるめて好きやなって思う」。

 

 友達として、ね。

 

 その補足がなかったら——自分はどう答えていただろう。

 

 わからない。でも。

 

 ——いつか、名前をつけなければならない日が来る。

 

 千雪はそれを、もう否定しなかった。

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