しろいろガールフレンド   作:合歓木あやめ

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第九話「二巻の向こう側」

 二巻を読み終えたのは、日曜日の昼過ぎだった。

 

 ベッドの上に仰向けに寝転がったまま、千雪は閉じたばかりの漫画を胸の上に置いた。天井を見つめる。白い天井がぼんやり滲んでいるのは、目が疲れたからだ。それだけだ。泣いたわけではない。

 

 ——嘘だ。泣いた。

 

 二巻の終盤、黒髪の少女が金髪の少女に手紙を書く場面があった。直接言えないから手紙にした、と。便箋に書かれた文字は震えていて、何度も書き直した跡がある。好きだと書いて消して、大切だと書き直して消して、最終的に残ったのは一文だけだった。

 

 ——あなたの隣にいると、わたしの世界は色づきます。

 

 その一文を読んだ瞬間、千雪の視界が滲んだ。涙が頬を伝って、枕に落ちた。

 

 フィクションだと分かっている。紙の上のインクが描いた物語だと。でも——あのキャラクターの震える手が、千雪自身の手に重なった。言いたいのに言えない。伝えたいのに伝えたら壊れる。その恐怖が——あまりにも精確に、千雪の胸の中にあるものと同じ形をしていた。

 

 スマートフォンを取り上げて、小夏へのLINEを開いた。

 

『二巻、読んだ』

 

 日曜の午後。今回は三分ほどで返信が来た。

 

『どうやった?』

 

 千雪は天井を見つめながら、長い時間をかけて言葉を選んだ。

 

『手紙の場面で泣いた』

 

 送信した。数秒の間。

 

『……千雪ちゃんが泣いたん?』

 

『少しだけ』

 

『うちもあそこで毎回泣く。もう五回は読んでるのに毎回泣く』

 

『五回も読んでるの』

 

『好きな作品は何回でも読むタイプやねん。読むたびに気づくことあるし』

 

 千雪は少し考えてから、慎重に打った。

 

『黒髪の子が手紙に残した一文。あれが全部だと思った。あの子の気持ちの全部が、あの一行に凝縮されてる』

 

 返信が来るまで、また間があった。

 

『千雪ちゃんの感想、なんかすごい……。作品の本質を突いてくるっていうか。うちがずっと好きだった理由を、千雪ちゃんが言葉にしてくれた感じがする』

 

『大げさ』

 

『大げさちゃうよ。——なあ千雪ちゃん。三巻も読む? 最終巻やけど』

 

『読む』

 

『明日持っていくな。——あ、でも最終巻は覚悟して読んでな』

 

『覚悟?』

 

『うん。ハッピーエンドやけど——その手前がめっちゃしんどいから』

 

 千雪はスマートフォンを枕元に置いた。しんどい。その手前が。ハッピーエンドに至る前の——すれ違いや、痛みや、恐怖が待っているということだろう。

 

 漫画の中のキャラクターの話だ。でも千雪にとっては、もうただの漫画ではなくなっていた。

 

 月曜日の朝。髪型はフレンチブレイドにした。

 

 頭頂部から襟足に向かって編み込みを一本通すスタイルで、横から見ると白い編み目が頭の曲線に沿って流れるように走る。手間はかかるが、完成した時の達成感がある。

 

 教室に入ると、小夏がすでに席にいた。机の上に紙袋が置いてある。

 

「おはよう、千雪ちゃん。——今日のやつ、すっっっごいな」

 

「フレンチブレイド」

 

「なんかもう芸術作品やん。頭の上に彫刻があるみたい。——はい、三巻」

 

 小夏が紙袋を差し出した。中には漫画が一冊。千雪はそれを受け取って、鞄にしまった。指先に、小夏の体温がかすかに残った紙袋のあたたかさを感じた。

 

「ありがとう。今週中に読む」

 

「うん。感想待ってる。——あ、そうや。千雪ちゃんに聞きたいことあるねんけど」

 

「何」

 

「今度の土曜日、暇?」

 

 千雪は文庫本を出しかけた手を止めた。

 

「……何かあるの」

 

「うちが好きな百合アニメの劇場版がやるねん。一緒に観に行かへん?」

 

 映画。小夏と。二人で。

 

「——私は百合アニメを観たことがないけど」

 

「大丈夫。劇場版やけど、これだけで話わかるように作ってあるって公式が言うてたし。それに——」

 

 小夏が少しだけ声を落とした。

 

「今まで一人でしか行けへんかったから。誰かと一緒に観るの——初めてなんよ」

 

 その言葉の重さを、千雪は理解した。百合が好きだと言えなかった小夏が、百合アニメの映画に誰かを誘う。それは小夏にとって、書店に連れて行った時と同じくらいの勇気を要する行為なのだろう。

 

「行く」

 

「ほんま?」

 

「うん」

 

 小夏の顔が一瞬で輝いた。そのあまりの眩しさに、千雪は視線を窓の外に逃した。五月の終わりの青空が広がっている。

 

「やった——えっと、チケットはうちが取るな。席は並びで取れるように頑張る。上映時間は——」

 

「小夏ちゃん」

 

「ん?」

 

「予鈴鳴ってる」

 

「——あっ」

 

 小夏が慌てて席に戻っていった。千雪は文庫本を開いたが、やはり一行も読めなかった。

 

 土曜日。映画。二人きり。暗い館内で、並んで座って、百合アニメを観る。

 

 それは——デートと呼んでいいのだろうか。

 

 いや、違う。小夏は友達として誘っている。趣味を共有できる相手として。千雪が百合に理解があるとわかったから、安心して誘えるようになった。それだけのことだ。

 

 それだけのことだと——わかっているのに。

 

 水曜日の放課後。料理研究部で、千雪はフィナンシェを焼いていた。

 

 焦がしバターとアーモンドプードルの配合を変えた新しいレシピ。小夏に渡す用に多めに作っている——ということを、矢島先輩には言っていない。先輩が「最近試食用の量増えてない?」と不思議そうにしていたが、千雪は「型の数が余ったので」とだけ答えた。

 

 オーブンの前でタイマーを見守りながら、鞄の中の三巻のことを考えていた。まだ読んでいない。読みたいのに、手が伸びない。小夏が「覚悟して」と言った意味が気になって、開くのが怖い。

 

 ——怖い?

 

 漫画を開くのが怖い。その理由は明白だった。一巻と二巻を読んで、千雪はあのキャラクターに自分を重ねすぎた。三巻で何が起きるにせよ——それが千雪自身に跳ね返ってくることが、もうわかっている。

 

 フィナンシェが焼き上がった。型から外して、網の上に並べる。きつね色の表面に、アーモンドの香ばしい匂い。

 

「名前は?」

 

 矢島先輩が聞いてきた。もはや恒例の問いかけだった。

 

「……『琥珀のひとかけら』」

 

「琥珀かあ。——そういえば千雪ちゃん、最近のネーミングちょっと変わったよね」

 

「変わりました?」

 

「うん。前はもっと……宇宙とか天体とか、スケール大きかったけど。最近は手触りのある名前が多い。琥珀とか、甘雨とか。——誰かのことを考えながらつけてる?」

 

 千雪の手が止まった。

 

 矢島先輩は鋭い。料理の味の変化に敏感な人は、人の変化にも敏感だ。

 

「……そう、かもしれません」

 

「ふうん。——いいと思うよ、それ。誰かのためにつけた名前って、温度があるから」

 

 温度。確かに——小夏を知る前と後で、千雪のネーミングは変わった。宇宙から地上へ。抽象から具象へ。遠くにあったものが、手の届く距離に降りてきた。

 

 琥珀。小夏の目の色だ。千雪がそれを意識してつけたのかどうか、自分でもわからない。わからないけれど——手がその名前を選んだことは確かだ。

 

 フィナンシェを四つ、ラップに包んだ。二つは自分と寧々の分。残りの二つは——。

 

 木曜日の夜、千雪はようやく三巻を開いた。

 

 ベッドの上で、枕を背中に当てて座って読む。スタンドライトの明かりだけにした。目に優しい光量。

 

 三巻は——確かにしんどかった。

 

 黒髪の少女が書いた手紙は、金髪の少女に渡されないまま、鞄の底で眠っていた。それを偶然、別のクラスメイトが見つけてしまう。中身を読んだクラスメイトが、無神経に——しかし悪意なく——教室で口にする。

 

 ——ねえ、これって好きってこと? 女の子に?

 

 教室が凍る場面を、千雪は唇を噛みながら読んだ。

 

 黒髪の少女の世界が崩れていく様子が、何ページにもわたって丁寧に描かれていた。視線。囁き。距離を置かれる。それまで普通に話していた友人が、一歩分だけ遠くなる。その一歩が、宇宙ほど遠い。

 

 千雪は知っている。その感覚を。遠ざかっていく視線の温度を。理由が違うだけで——千雪もまた、「普通ではない」自分のせいで、人との距離を経験してきた。

 

 手紙のことが広まった後、金髪の少女は黒髪の少女を避ける。避けている間の二人の感情が、モノローグで交互に描かれる。離れたくないのに離れてしまう。傷つけたくないのに傷つける。

 

 そして——物語の終盤。屋上で二人が対峙する場面。

 

 金髪の少女が泣きながら言う。

 

 ——手紙、読んだ。全部読んだ。何回も読んだ。避けてたのは、気持ち悪いからじゃない。あなたの気持ちに応えていいのかわからなかったから。応えたら、あなたを巻き込んでしまうと思ったから。

 

 ——巻き込むって何。

 

 ——わたしもあなたのことが好きだって認めたら、二人とも普通じゃなくなる。それが怖かった。

 

 ——普通じゃなくて、何が悪いの。

 

 千雪の手が震えた。ページをめくる指先が。

 

 最後の数ページ。屋上で、二人が手を繋ぐ。ただ手を繋ぐだけ。キスも抱擁もない。ただ指と指が絡まって、二人の影が一つに重なる。

 

 ——わたしたちは普通じゃないかもしれない。でもわたしの隣にいてくれますか。

 

 ——いる。ずっと。

 

 千雪は漫画を閉じた。

 

 涙が止まらなかった。声は出さなかった。枕に顔を押しつけて、肩を震わせて、静かに泣いた。

 

 フィクションの感動だけで泣いているのではなかった。あのキャラクターたちが勇気を出して伝えたものを、千雪はまだ伝えられずにいる。その事実が、胸を抉った。

 

 スマートフォンが震えた。小夏からのLINE。

 

『もう読んだ?』

 

 千雪は目元を拭いてから、返信を打った。

 

『今読み終わった』

 

『……泣いた?』

 

『泣いた。たくさん』

 

 返信が来るまで、少し間があった。

 

『千雪ちゃんがたくさん泣いたの初めて聞いた。——うちも初めて読んだ時、一時間くらい泣いた』

 

『一時間は長い』

 

『そのくらい好きやねんこの作品。最後の手を繋ぐとこが——何回読んでも胸がぎゅってなる』

 

『……うん。あそこが一番よかった。キスじゃなくて、手を繋ぐだけっていうのが』

 

『わかる。わかってくれるん嬉しい。千雪ちゃんはほんまに——感性が合うっていうか、うちが好きなものを同じ温度で受け取ってくれるっていうか』

 

 千雪は画面を見つめた。同じ温度。——本当にそうだろうか。千雪がこの物語に流した涙の温度は、小夏のそれと同じなのだろうか。

 

 小夏はこの物語を「創作として」好きだ。美しい百合の物語として。では千雪は? 千雪は——自分の現実として読んでしまった。キャラクターの恐怖を、自分の恐怖として。キャラクターの願いを、自分の願いとして。

 

 同じ温度ではない。千雪のほうが——きっと、もっと熱い。

 

『ありがとう、小夏ちゃん。この作品を教えてくれて。大事に返すね』

 

『ありがとうは、うちのほうやって。千雪ちゃんと感想言い合えるの、夢みたいやもん。——土曜日の映画も楽しみにしてるな』

 

『うん。おやすみ』

 

『おやすみ、千雪ちゃん』

 

 スマートフォンを伏せて、天井を見た。

 

 土曜日。映画。隣の席で、小夏と一緒に百合アニメを観る。

 

 暗い映画館の中で——自分はどんな顔をしているだろう。スクリーンの中の少女たちが恋をしているのを観ながら、隣に座る少女への恋を隠している自分は。

 

 土曜日。

 

 千雪は朝から三回、服を着替えた。

 

 最終的に選んだのは、淡いラベンダー色のブラウスに白いプリーツスカート。髪は耳の後ろで一つにまとめたサイドテール——ではなく、やり直して、ツインの三つ編みにして——それもやめて、結局シンプルに下ろした。

 

 下ろしたままの白い髪が背中に流れる。何もしない。何もしないのが一番落ち着かなくて、一番正直だった。

 

「ちーちゃん、今日は下ろしてるの。珍しいね」

 

 寧々がリビングから声をかけてきた。

 

「……なんとなく」

 

「なんとなく、ねえ。——映画デート、楽しんできなよ」

 

「デートじゃない」

 

「はいはい」

 

 待ち合わせは映画館の最寄り駅の改札前。十二時。千雪が着いたのは十一時五十分。少し早い。改札の柱に背中を預けて、人の流れを眺めていた。

 

 十一時五十八分。改札の向こう側に、黄色い——いや、今日は白いブラウスにデニムのスカート。茶色い髪を下ろしている。千雪と同じように。

 

 小夏が改札を出て、こちらを見つけた瞬間——足が止まった。

 

 千雪も止まった。

 

 お互いに髪を下ろしている。お互いに白いトップスを着ている。示し合わせたわけではないのに、鏡合わせのように。

 

「……被った」

 

「被ったな」

 

 数秒の沈黙。それから、二人同時にふっと笑った。

 

「千雪ちゃん、髪下ろしてるの初めて見るかも。学校ではいつも何かしらアレンジしてるやん」

 

「今日はなんとなく。——小夏ちゃんも下ろしてるの珍しい」

 

「うちは普段から下ろしてるで? アレンジする技術がないだけやけど」

 

「くるりんぱできるようになったでしょ」

 

「あ、そうやった。でも今日は——なんとなく」

 

 なんとなく。同じ言葉。千雪は自分の「なんとなく」の正体を知っていたが、小夏の「なんとなく」の正体は——わからなかった。

 

 映画館に向かって歩き出す。繁華街の人混みの中を二人で並んで歩く。すれ違う人の視線が千雪の白い髪に引っかかるのを感じたが、隣に小夏がいると不思議と気にならなかった。

 

「チケット、取れたで。真ん中の列の端っこ寄り。見やすい席やと思う」

 

「ありがとう。——お金、払う」

 

「ええよ。うちが誘ったんやし」

 

「でも——」

 

「千雪ちゃん。おごらせて。——うちの好きなもんに付き合ってくれるお礼」

 

 小夏の声が少しだけ真剣だった。千雪は一瞬迷って、「……ありがとう」と受け入れた。

 

 映画館のロビーでポップコーンとドリンクを買った。千雪はカフェオレ、小夏はメロンソーダ。

 

「メロンソーダって、映画館で飲むの」

 

「映画にはメロンソーダって決めてんねん。緑色がスクリーンの光に映えるから」

 

「誰も見てない」

 

「うちが見てる」

 

 意味のわからないこだわりだったが、小夏らしいと思った。

 

 館内に入ると、暗闇が二人を包んだ。予告編がまだ始まっていなくて、スクリーンには淡い照明だけが灯っている。席に着く。隣同士。肘掛けが一つ、二人の間にある。

 

 千雪は暗闇の中で自分の手を膝の上に置いた。左手。小夏側の手。その指先が、意識しなくても肘掛けのほうへ傾いている。

 

 ——何を期待しているんだ。

 

 自分を叱った。映画中に手を繋ぐなんて、それこそ百合漫画の中の話だ。現実の自分がそれを求めるのは——。

 

 予告編が始まった。大音量。光の洪水。千雪は意識をスクリーンに向け直した。

 

 本編が始まる。

 

 画面に現れたのは、二人の少女だった。春の海辺の町。転校してきた少女と、地元の少女が出会う。ぶつかって、教科書が散らばって、手を伸ばして拾い上げた時に——目が合う。

 

 ——あ。

 

 千雪の胸が小さく痛んだ。出会いのシーンが、自分と小夏の初日に重なった。転校生。目が合った瞬間。あの、分類できなかった視線。

 

 物語は進む。二人の少女が少しずつ距離を縮めていく。一緒に帰る。一緒に勉強する。夕暮れの屋上で、並んで空を見上げる。その全てが——千雪と小夏の日々と、どこかで響き合っていた。

 

 千雪はスクリーンを見つめながら、意識の半分を隣の小夏に向けていた。小夏は身を乗り出すようにして画面に見入っている。時折小さく息を呑んだり、膝の上で拳を握ったりしている。本当にこのジャンルが好きなのだと、その没入の深さが教えてくれた。

 

 映画の中盤。転校生の少女が、地元の少女への気持ちに気づく場面。

 

 雨の中、一つの傘に入って歩いている。傘の下で肩が触れる。その瞬間、転校生の少女の心臓の音がBGMとして流れる。どくん、どくん、どくん。大きく、速く。

 

 ——ああ。わたし、この子のことが好きなんだ。

 

 スクリーンの少女が、声に出さずに口だけ動かして、そう言った。

 

 千雪の左手が、無意識に肘掛けの上に移動していた。暗闇の中で——小夏の右手がすぐ隣にあった。数センチの距離。指先の温度が感じられるほどの。

 

 触れていない。でも——空気を介して、熱が伝わってくるような錯覚があった。

 

 映画のクライマックス。告白の場面。

 

 海辺の夕暮れ。二人の少女が向かい合う。風が髪を攫う。転校生の少女が口を開く。

 

 ——好きです。ずっと。あなたの笑顔が、声が、全部が好きです。

 

 千雪の目から、涙がこぼれた。

 

 暗闘の中で、音もなく。頬を伝って、顎に達して、膝の上に落ちる。スクリーンの光が涙を一瞬だけ照らして、すぐに消えた。

 

 隣で、小夏が鼻をすする音が聞こえた。小夏も泣いている。

 

 ——同じ場面で泣いている。同じ暗闇の中で。隣同士で。

 

 映画の少女たちは抱き合った。エンドロールが流れ始めた。挿入歌が、静かに館内を満たしていく。

 

 千雪は目元を拭いてから、そっと横を見た。小夏がハンカチで目を押さえていた。その横顔がスクリーンの残光にぼんやりと照らされている。

 

 小夏がこちらを見た。暗闇の中で、濡れた琥珀色の目が千雪を映していた。

 

「——泣いてもうた」

 

「……私も」

 

「千雪ちゃんも? 暗くて見えへんかったけど——やっぱり泣いてたん」

 

「うん」

 

 エンドロールが終わって、館内が明るくなった。千雪は咄嗟に帽子をかぶり直した。泣いた後の顔を——白い肌の上に浮かぶ赤みを——見られたくなかった。

 

「花守さん——じゃなかった、千雪ちゃん。目ぇ赤いで」

 

「見ないで」

 

「あ、ごめん。でも——泣き顔もかわい——」

 

 小夏が口を噤んだ。

 

 千雪は帽子のつばの下から、小夏を見上げた。小夏は自分の口を右手で押さえていた。耳が赤い。目も赤い。泣いたあとの赤と、別の理由の赤が混在している。

 

「……今、何て言いかけた」

 

「なんでもない。なんも言ってへん。——ロビー出よ」

 

 小夏が立ち上がって、足早にシアターを出ていった。千雪はその背中を追いながら、聞こえた言葉を頭の中で反芻した。泣き顔もかわい——。

 

 かわいい、だろうか。

 

 かわいい、と言いかけたのだろうか。

 

 千雪の心臓が、映画の中のBGMよりも大きく鳴っていた。

 

 ロビーで合流した小夏は、もう表情を取り繕っていた。いつもの明るい笑顔。映画の感想を早口で語り始める。

 

「いやーめっちゃよかった。作画がやばかった。告白シーンの波の描き方とか、光の演出とか——千雪ちゃん的にはどうやった?」

 

「……よかった。すごく」

 

「語彙! もうちょっと聞かせてや」

 

「……告白の場面が一番よかった。風で髪が揺れるところ。あの瞬間に全部の感情が乗ってた」

 

「わかる! あそこの髪の作画、ほんまに神がかってたよな。風の動きだけで気持ちを表現するって——」

 

 小夏は饒舌だった。好きなものを語る時の小夏は、言葉が溢れて止まらない。千雪はそれを黙って聞いていた。聞きながら、小夏の言葉の中に自分を探していた。

 

 小夏はこの映画を「作品として」評価している。作画の美しさ、演出の巧みさ、脚本の構成。プロの視点——いや、オタクの視点で分析している。

 

 では——あの告白のシーンを見て、小夏自身は何を感じたのだろう。スクリーンの向こう側の美しい物語として受け取ったのか。それとも——千雪がそうだったように——自分自身の何かと重ねたのか。

 

 聞きたかった。でも聞けなかった。それを聞くことは、自分の気持ちを差し出すことと同義だったから。

 

 映画館を出ると、外は夕暮れ前の柔らかい光に包まれていた。少し歩こうか、と小夏が言ったので、二人で駅前の商店街をぶらぶらと歩いた。

 

「千雪ちゃん、帽子ずっと被ったままやけど——日差しきつい?」

 

「……少し」

 

 嘘だった。泣いた後の顔を見られたくないだけだ。でも日差しを理由にしておけば、小夏は追及しない。

 

「日陰歩こ。こっちのほうがビルの影になってて——」

 

 小夏が千雪の袖をちょんと引いた。歩道の日陰側に誘導する。あの吊り橋の時と同じだ。千雪の体のことを気にかけて、自然に立ち位置を変えてくれる。

 

「……ありがとう」

 

「いいよ。——あ、そうや千雪ちゃん。喉乾いてへん? あそこのカフェ入ろうよ」

 

 商店街の角に小さなカフェがあった。ガラス張りの外観で、中にはウッド調のテーブルが並んでいる。空いていた。

 

 席に着いて、千雪はアイスティーを、小夏はレモネードを注文した。帽子を取って、ようやく顔が見えた。

 

「あ、目ぇまだちょっと赤い」

 

「……見ないでって言った」

 

「ごめん。でもその——泣いたあとの千雪ちゃん——」

 

 小夏がまた言葉を止めた。唇を引き結んで、視線をレモネードのグラスに落とす。

 

 千雪は小夏の横顔を見つめた。何かを言おうとして、毎回止める。それが——ここ最近、増えている。以前は独り言として漏れていた言葉が、最近は途中で遮断される。自分の言葉に自分でブレーキをかけている。

 

「小夏ちゃん」

 

「うん」

 

「さっきから、言いかけてやめてることがあるでしょ」

 

 小夏の肩が跳ねた。

 

「……わかる?」

 

「わかる。昔からそうだけど、最近は特に多い」

 

 小夏がレモネードのストローを指で回した。氷がからからと鳴る。

 

「千雪ちゃんはさ——ほんまに、全部見えてるんやな。うちの瞬きとか、声の変化とか。隠しても全部バレる」

 

「見ようとしてるわけじゃない。ただ——」

 

「ただ?」

 

 千雪はアイスティーのグラスを両手で包んだ。冷たい。自分の体温の低さが、ガラス越しに伝わってくる。

 

「……小夏ちゃんのことが気になるから、自然と見えてしまう」

 

 言ってから、心臓が大きく跳ねた。「気になる」。この言葉は——友人としても使えるし、それ以上の意味にも取れる。曖昧な境界線の上に置いた言葉。

 

 小夏がじっとこちらを見ていた。琥珀色の目が、千雪の桜色の目を映している。カフェのBGMがジャズのピアノに変わった。その旋律が、二人の沈黙を柔らかく縁取った。

 

「——千雪ちゃん」

 

「うん」

 

「うち、最近ずっと考えてることがある」

 

「何」

 

「……映画の中の子たちみたいに——うちも、誰かに自分の気持ちを伝えたいって思うことがあって」

 

 千雪の指先が、グラスの上で止まった。

 

「でも——うちは百合アニメやったら展開読めるのに、自分のこととなると全然わからんくなるねん。これが友情なんか——それとも——」

 

 小夏が言葉を切った。カフェの窓から差し込む夕日が、テーブルの上にオレンジ色の四角を描いている。その光の中に、二人のグラスの影が並んでいた。

 

「——ごめん。何言ってるかわからんよな。うちも自分で何言ってるかわからんくなってきた」

 

「……わからなくはない」

 

「え?」

 

「小夏ちゃんの言ってること。——わからなくはない」

 

 千雪はアイスティーを一口飲んだ。冷たい液体が喉を通って、少しだけ頭が冷えた。

 

「私も——同じようなことを、考えてるから」

 

 小夏の目が大きくなった。何かを聞き返そうとして——やめた。千雪もそれ以上は言わなかった。

 

 二人の間に、言葉にならない何かが漂っていた。形のない、でも確かにそこにある何か。名前のつけられない——いや、名前はもうある。ただ、声に出していないだけで。

 

 カフェを出て、駅まで歩いた。夕暮れの空はオレンジから紫に変わりかけていた。

 

「今日、楽しかった」

 

 小夏がぽつりと言った。

 

「うん。——私も」

 

「映画、一緒に観てくれてありがとう。うちの好きなもんに——全部付き合ってくれて」

 

「付き合ってるんじゃない。私も好きになったから」

 

 百合作品のことだ。小夏に勧められて読んだ漫画。今日観た映画。どちらも、千雪の心に深く刺さった。創作として好きになったのか、自分の感情を映す鏡として必要としたのか——その境界は曖昧だったけれど、好きだという気持ちは本物だった。

 

「千雪ちゃんが百合好きになってくれたん——めっちゃ嬉しい。でもなんか、不思議な気持ち。うちの世界に千雪ちゃんが入ってきてくれたみたいで」

 

 改札の前で足を止めた。今日は同じ方向だから途中まで一緒に帰れる。

 

「小夏ちゃん」

 

「ん?」

 

「漫画の三巻——最後に、黒髪の子が言った台詞」

 

「うん」

 

「『普通じゃなくて、何が悪いの』——あの台詞が、一番好きだった」

 

 小夏がゆっくりと頷いた。

 

「うちも。——あの台詞があったから、うちは今も百合が好きでいられる」

 

 改札を通って、ホームに降りた。電車を待つ。

 

 千雪は白い髪を風に遊ばせながら、線路の先を見つめていた。まだ見えないカーブの向こうから、電車の音が近づいてくる。

 

 ——普通じゃなくて、何が悪いの。

 

 白い髪。桜色の瞳。光に弱い体。そして——女の子を好きになった、この心。

 

 どれも、普通じゃない。でも、どれも千雪の一部だ。髪を好きだと言えるように——いつか、この気持ちも好きだと言える日が来るだろうか。

 

 電車が来た。乗り込んで、並んで座った。休日の車内は空いていて、二人分の座席に余裕があった。肩と肩の間に、拳一つ分の隙間。

 

「——なあ千雪ちゃん」

 

「うん」

 

「うち、百合アニメばっかり見てきたせいで——自分の気持ちも、全部アニメの枠に当てはめようとしてまう癖があるんよ。この場面は何話のあの展開に似てるとか、このフラグはこういう意味やとか」

 

「……うん」

 

「でもな——最近思うねん。現実は脚本がないから。伏線もないし、フラグもないし、都合のええタイミングで主題歌も流れへん」

 

 小夏が窓の外を見ていた。流れていく街並みの光が、琥珀色の目に細い筋を走らせている。

 

「脚本がないから——自分の気持ちが、自分でわからんくなる。アニメやったら、あ、この子今恋に落ちたなってわかるのに。自分のことは——全然わからへん」

 

 千雪は隣の小夏を見なかった。見たら——見たら何かが溢れてしまいそうだったから。代わりに、自分の膝の上の手を見つめた。白い指。自分の白。

 

「……小夏ちゃん」

 

「うん」

 

「わからなくてもいいんじゃないかな。——今すぐ答えを出さなくても」

 

「千雪ちゃんは——自分の気持ち、わかってるん?」

 

 電車が駅に止まった。ドアが開いて、乗客が数人降りていく。ドアが閉まる。電車が動き出す。

 

「……わかってる。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「名前は、もうつけた。でも——声に出すのは、まだ」

 

 小夏がこちらを向いた。千雪はまだ前を向いていた。窓ガラスに映る自分の顔。耳が赤い。わかっている。

 

「——千雪ちゃんの名前のつけ方、すごいよな。お菓子にも、料理にも、雨にも。全部に名前つけて、全部を大事にする」

 

「……うん」

 

「だから——千雪ちゃんがつけた名前なら、きっと正しいと思う。何につけたのかは聞かへんけど。千雪ちゃんが声に出せる時が来たら——聞かせてな」

 

 千雪は唇を噛んだ。泣きそうだった。映画館の中で流した涙とは別の——もっと熱い、もっと切実な涙が、目の奥に溜まっていた。

 

「……うん」

 

 それだけ答えた。

 

 小夏の駅が来て、いつものように手を振って別れた。電車が動き出して、千雪は一人になった座席で天井を見上げた。

 

 ——声に出せる時が来たら。

 

 来る。きっと来る。来なければならない。

 

 漫画の中の黒髪の少女は、手紙に書いた。声に出せなかったから。でも千雪は——声で伝えたい。自分の声で。自分の言葉で。小夏にだけ。

 

 いつ。どこで。どうやって。

 

 まだわからない。でも——「いつか」が「いつ」に変わりつつあることを、千雪は感じていた。

 

 家に着いた。玄関を開けると、カレーの匂いがした。

 

「おかえりー。映画どうだった?」

 

「……よかった。泣いた」

 

「ちーちゃんが泣くレベル? それは相当だね。——カレー、今日は姉ちゃん作じゃなくてレトルトだけど」

 

「レトルトでいい」

 

「ちーちゃんがレトルトでいいって言うの珍しいね。よっぽど疲れた?」

 

「……疲れたんじゃなくて、頭の中がいっぱいで、料理する余裕がない」

 

 寧々がぱちくりと瞬いた。千雪が料理をしない理由として「頭がいっぱい」というのは、確かに初めてかもしれない。

 

「何がいっぱいなの?」

 

「…………分類中」

 

 寧々がふっと笑った。

 

「分類中、久しぶりに聞いた。——もうそろそろ分類終わるんじゃない?」

 

 千雪はレトルトカレーの封を切りながら、静かに答えた。

 

「……終わってる。あとは——出力するだけ」

 

「おっ。いいじゃん。——出力のタイミングは、ちーちゃんが決めな。姉ちゃんは横でポップコーン持って待ってるから」

 

「映画じゃないんだけど」

 

「人生は映画よりドラマチックなんだが?」

 

 千雪はカレーを皿によそいながら、窓の外の夜空を見た。

 

 六月が近づいている。梅雨が来る。雨の季節。

 

 ——雨の日は、光が優しい。

 

 以前そう言った時、小夏は理由を聞かなかった。ただ「ええ言い方やな」と言ってくれた。

 

 千雪の「出力」もまた——雨の日がいいような気がした。光が優しい日に。世界が少しだけ静かになる日に。自分の声だけが近くなる日に。

 

 レトルトのカレーに名前はつけなかった。今は——次の名前のために、心を空けておきたかった。

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