ゲヘナの外交官   作:白福 学

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茨尾クチナという少年(1)

 

 テナント募集中。

 

「あららぁ」

 

 固く閉ざされたシャッターに張り出された一枚の貼り紙。淡々と用件を告げるそれに一人の少年が嘆息を漏らした。

 

「はぁ。残念……」

 

 今、少年の目の前でシャッターを閉ざしているこの場所は先月までは小さなパン屋だった。店主の気だては良く、味も悪くないそんな店。そして何より少年が気に入っていたのは、店内の人の少なさだった。パン屋の立地が隠れ家とも言える場所にあったからだろうか。とにかくこの店は客の入りが少なかった。おかげで人混みがあまり好きではない少年にとっては気兼ねなく、軽食を買える穴場だったのだが、どうにも経営は芳しくなかったらしい。

 商売は人に何かを売って初めて成り立つもの。客入りの少なかったこの店がなくなるのはある意味では必然で、道理といえば道理なのだろう。

 

「もう少しパン買っておけば良かったかな」

 

 後悔。少年はもう少しお金を落としておけば良かったかと過去を振り返るもそれは後の祭り。

 そもそもこの少年が落とす金額を多少上げていたところで、そもそもの客足が少なかったのだ。結末に大差は無かっただろう。

 つまりはただの感傷。少年にとってこの言葉は気落ちした自分を慰める為の言い訳に過ぎない。

 それよりも——

 

「しかしこうなると朝ごはん、どうしようかな」

 

 目下、一番の問題はこれである。

 当てが外れた。パン屋が隠れ家的な立ち位置に収まっていた事から察せられるように、この周辺は他に店がない。大失敗である。

 

「……しょうがない。あの人に頼りますか」

 

 少し考えた上で一つだけ。少年には取れる手立てがあった。あまり気の進まない手段ではあるが背に腹はかえられない。今はお腹が減っていた。

 

「……よし」

 

 意を決して。彼は身に纏っていた軍服のような制服の右ポケットから携帯端末を取り出すと、誰かへと電話をかけた。携帯端末から漏れたコール音が、冷たく閉じたシャッターを僅かに震わせる。

 

『…………貴方から連絡を寄越すとは珍しい事もあるものですね。クチナ』

『まぁちょっと緊急事態でしてね。ハルナ先輩』

 

 果たして。少年の目的の人物はすぐにその連絡を受け取った。黒舘ハルナ。クチナと呼ばれた少年の友人であり、美食研究会と呼ばれる部活動の長を務める少女である。

 美食研究会は読んで字の如く、美食を研究し、時に探求をしている集団で、食の悩みを抱えた時に頼る相手として間違いなく適任だった。

 

『諸事情で朝ごはん食べ損ねちゃいまして。朝からやってる静かで落ち着ける美味しいお店、ハルナ先輩なら何処かいい所を知ってたりしないかなって』

『なるほど。そう言う事でしたら一つ、オススメの店がございますわ』

 

 そして、やはり。クチナのその考えは間違っていなかった。クチナが手短に要件を伝えると彼女はすぐさまそれに対して適切な答えを用意した。持つべきものは友である。と、クチナは染み染み思う。

 

『……へー、あんな辺鄙な所にそんなお店が。全然知らなかった。ありがとうハルナ先輩、そこ行ってみますねぇ』

『いえいえ。美食を広めるのもまた私たち美食研究会の勤めですから』

『真摯ですねぇ……』

 

 なんともまぁ奥ゆかしい。黒舘ハルナとは勤勉な人である。ただクチナにとって、情報を貰うだけと言うのはどうにも気持ちが落ち着かない。貸し借りなし。お互い様。それがクチナがあまり人に頼りたくなかった理由であり、クチナと言う個人を作り上げる性分である。

 それゆえに、気がづけばクチナは続く言葉を自然と口にした。

 

『今度なにか奢りますよ』

『おや、礼には及ばないと言ったつもりでしたのに……』

『まぁえっと、そこはほら。ボクの気持ちの問題ですね。付き合ってくれると助かります』

『ふふ、ではそう言うことにしておきましょう』

『うんうん、そういう事です! いやぁ。情報ありがとうございました。……では。失礼ながらまた今度……』

『ええ、また』

 

 通話を終え、少年は端末をしまう。さて。

 ここから件の店まで少し距離がある。空腹の中で向かうには少々距離がある場所だが、まぁ無理な距離ではない。それに味も雰囲気も美食研究会の会長、黒舘ハルナのお墨付きの店である。ここからしばらく歩いたとして、得るものが疲れだけとなる事はないだろう。

 

「……」

 

 静かにゆっくりと、クチナはその場を去るために振り返った。この瞬間までに抱いていた小さな感傷はシャッターの前に置いていく。きっともう思い出す事もないだろう瑣末な喪失の記憶。

 

「……はぁ」

 

 最後に一度だけ。クチナは足を止め、店主の顔を思い出した。気立ての良いあの主人は今頃何をしているのだろうか。願わくば幸せであってほしい。店を辞めてすぐにそんな事などある訳がないと分かっていても無責任に彼は祈る。

 少年が最後に店主へとできる事はもうそれぐらいしか残されていなかったから。ただの思い。ただの偽善だ。意味はない。

 結局。彼が再び歩き始めたのは数分後。限界を迎えた腹が無情にも、音を上げた後の事だった。





作品のタグでもしも、これも付けた方がいいよ。と言うものがあれば教えていただけると助かります。
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