ゲヘナ学園生徒会、万魔殿所属の外交官。
これが荊尾クチナという少年を端的に表した際の肩書きだ。たかが一学生が外交官などとえらく仰々しい名を持つものだと思うかもしれないが、その名はごっこ遊びの類などでは無くきちんとした重要な役割を持っている。何故ならクチナの暮らしているキヴォトスという街は、数千を超える学園によって形成された超巨大な学園都市であるからだ。
キヴォトスに所属する学園はそれぞれ個別に強い自治権を有しており、その権限は非常に強い。学園内においては学生の権力がただの大人よりも遥かに高いのがその一例であり、それを束ねる生徒会ともなれば、もはや学園と言うよりは国家と表した方が適切に思えるほどに高度に独立した運営を行っている。
「……」
つまり。彼はその国家の一つであるゲヘナ学園、延いてはその自治組織であるところの生徒会組織、万魔殿における他学園との交渉役。立派なお役人様。その人だった。
「……これはしてやれらましたね」
「うふふ、貴方のその表情を見られただけでも予定を変更した甲斐がありましたわ」
ところで。そのようなご大層な身分であるクチナは現在なんとも言えない表情を浮かべ、困っていた。原因は目の前の人物。先ほど電話で別れを告げた筈の少女、黒舘ハルナである。
彼女はクチナが目的としていた店の前に当然のように佇んで居た。間違いなく偶然ではない。この店をクチナに教えたのは他でもない彼女なのだから偶々はあり得ない。あまりにも力技な待ち伏せにクチナは思わず小さく笑ってしまう。彼女はズルい。
「別に一緒に食事するのはやぶさかじゃあないんですけどね、流石にびっくりしましたね」
「あら、お嫌いでしたか? サプライズ」
一応は苦言を呈してみるクチナだが、ハルナはただ悪戯な笑みを浮かべるだけでどこ吹く風。おまけにその笑顔が実に可憐で様になっているのだから反則だろう。クチナの毒気はもうとっくに抜かれていしまっていた。
「……とりあえず。ボクはもう空腹で限界なのでお店に入りましょう?」
「ええ、そう致しましょうか」
最終的に彼は素直に白旗をあげた。時には諦めも肝要で、細かいことを言ったところでキリもなければ意味もない。早々に切り上げて二人揃って店に入った方が有益だ。外交官様は機敏に聡い。
そうして。ようやく足を踏み入れた店内はいかにも古ぼけた定食屋といった趣きで、見渡せば既に多くの先客が居るようだった。ただし、人数の割にはとても静かな場所で、黙々と食事をするものも居れば、食事を終えて新聞を片手に一服するものなど、皆様々に落ち着いて過ごしている。時折、厨房から鍋や包丁の発する調理音が聞こえてくるくらいだが気になる程のものではない。
「……へぇ」
クチナは素直に感心した。流石は美食研究会の部長と言ったところか。思っていた以上に良い店だ。これは味の方も期待できる。
「いらっしゃいませ!お二人様ですか?……こちらへどうぞ」
店員に促され、二人はそのまま窓際へと案内された。一つのテーブルに二つの椅子が向かい合ったよくある小さな木の客席。テーブルに僅かに残る傷跡や、質感がこの店の年季を感じさせる。
「私のおすすめは朝定食ですわ。それが一番分かりやすくこの店を楽しめるかと」
店の雰囲気を汲んでか、いつもよりも僅かに声の調子を下げたハルナがクチナにそう語りかけた。窓際から差し込んだ朝日が彼女の横顔を照らしている。
「なるほど。朝定食」
ハルナの言葉を受けてクチナはメニューを一瞥した。
表紙を見るにどうやら、この店は手打ちの蕎麦が売りらしい。朝定食はそこに白ご飯と生卵、後は幾つか日替わりの天麩羅がついてくるようだ。ボリュームがある。
「それじゃこれにしようかな、……すいませーん!」
「はーい、ただいま〜」
「朝定食お願いします」
「私も同じものを」
クチナはすぐ側に居た店員に声をかけ、即決で注文を終えた。餅は餅屋。食のプロであるハルナが推薦する朝定食を頼む事に、クチナは全く迷いがなかった。
「……」
「……」
二人無言で料理の到着を静かに待つ。間を流れる沈黙は、そうあることが自然である、居心地の良い静寂だった。
「お待たせしました!こちら朝定食です」
やがて。あまり長く待つ事もなく。二人の前に出来立ての定食がやってきた。暖かい蕎麦から立ち上る香りが食欲をそそる。
「いただきます」
「いただきますわ」
一口、クチナは蕎麦を啜る。優しい味。朝から食べるには丁度よい加減だ。ゆっくりとクチナの中で一日を活動する為の気力が湧いてくる。
「ところで、最近はとても忙しそうでしたが少しは落ち着かれましたか?」
「ん? あー。まぁ……」
そんな折、クチナが空腹を満たし始めたところにハルナは雑談を投げかけた。
気が緩んだ瞬間に話しかけられた所為か、一瞬クチナは外交官としての顔が出そうになった。交渉の際にわざわざ会食が設けられるように、美味しい食事というのはそれだけで口を軽く滑りやすくする。
「えーっと最近はですねぇ……」
言葉を選ぶべきか。クチナは僅かに逡巡するがすぐに考えを改めた。彼女が食事をそう言った駆け引きに使う事はないだろう、と。
美食研究会の部長である彼女は食に対して非常に真摯だ。時たまにそれが行き過ぎる事もあるようだが少なくとも今まさに目の前で食を楽しんでいる友人を邪魔するなど無粋は真似はしない。それがクチナのハルナへの素直な評価であり信用。信頼だった。
「色々大変でして。家出した古巣に顔を出す事になったり」
「古巣というと……あぁなるほど。それは難儀ですわね」
故にクチナはありのままの事実を語った。
それが友達ってものだろう。
「そうそう、しかもその一回だけじゃなくてこれからも何度か顔出さないとダメみたいなんですよね。暫くはずぅっと忙しいかもしれません」
「本当にお疲れ様ですわ」
天麩羅を頬張りながらどこか遠い目をするクチナをハルナは労った。そんな流れにクチナは少しばかりの申し訳なさを感じてしまう。
事実を語るつもりではあったが別に愚痴を聞かせるつもりではなかったのだ。多少強引ではあるがクチナは話題を変えることにした。
「逆にハルナ先輩は最近どうです? どこかに美味しいお店はありましたか?」
「ふふ、最近ですとそうですわね。近頃新しくオープンしたピザ屋がちょっとした話題になっておりまして、少し気になっているところです」
「ピザか、いいですね。僕も興味あります」
クチナの意図を汲んだのか、ハルナは素直に話題を変えた。どうにも、長い付き合いになるこの友人は自分の心を見透かしている時がある気がしてならない。クチナは度々そう思う。
「よろしければ今日の放課後にでも一緒に行かれますか?」
「いいんです? 僕は割となんでも美味しく食べちゃうので意見の参考にはならないと思いますが……」
「ええ、構いません」
僥倖とはこの事を言うのだろう。
ある特殊な事情のせいで友人が非常に少ないクチナにとってこの手の誘いはとても珍しいものだった。各学園から会談という名のお呼び出しはうんざりする程溜まっているがあんなものただの外交でしかない。
「じゃあぜひ一緒に——」
なので断るという選択肢はクチナの中に存在しなかった。二つ返事で了承する。その腹積りが出来ていた。この瞬間、邪魔が入ってしまうまではである。
無情にも鳴り響いたのはクチナの携帯端末。その呼び出し音。クチナのハルナに向けた返答は見事にそれに掻き消された。
「……すみません。ちょっと電話に出ても?」
「……ええ」
ばつが悪そうにクチナはそうハルナに尋ねた。あまりにもタイミングが悪い。しかし出ないわけにもいかないそれにクチナは小さく嘆息する。
『もしもし』
『あ、リーダー!』
応答。電話をかけてきた相手はクチナの所属する万魔殿にいる部下の一人だった。情報収集が得意な娘でクチナが何かと最近目にかけている後輩である。
そんな優秀な彼女がこんな朝早くから緊急で寄越してくる連絡など間違いなく碌なものではない。
『どしたの、慌てて』
『それが情報が錯綜してて確かな事はぜんっぜん確定してないんスけど……』
普段、何事もしっかりと断言する彼女にしてはえらく迂遠な言い回しだ。クチナは自分の中の嫌な予感が大きくなるのを感じた。
彼女は情報の確証がまだ取れてない段階であるにも関わらず自分への連絡を優先した訳だが、それは事態がそれ程までに切迫しているという事に他ならない。
クチナは覚悟して彼女の続きの言葉を待った。そして。
『……おそらく連邦生徒会長が失踪したっス』
『……わーお』
もたらされたあまりの凶報に小さく声を漏らした。