私の王様   作:仁寺野瑛瑠

1 / 9
序章 札幌のはずれにて

 

 網走監獄を脱獄した海賊房太郎は、第二の人生を始めるために歩み出したところだった。

 王様になる。いつも家族がそばにいて、誰も自分のことを忘れないでいてくれる、そんな国を作る。偶然に舞い込んできた一攫千金の機会(チャンス)が、彼にその夢を抱かせていた。身体に刻まれた刺青を無意識に何度も撫でながら、北海道の寒い山道をひた走った。

 走りながら、これからのことを考えていた。

 国を作る。そのためには、のっぺらぼうに託された金塊が必要だ。さらにそのためには、他の囚人に彫られた暗号が必要だ。

 だが、脱獄した時に散り散りになったせいで他の連中がどこに行ったかわからなくなっていた。暗号は全部で24。1人では暗号を解くことができないが、あの曲者達と協力するのはもっと現実的じゃない。監獄内で話してみてわかったが、強盗で人殺しをするくらいならかわいいもんだった。殺人は登竜門のようなもので、それに快楽を見出す奴やら暴力狂いやら人喰いジジイやら、人道を外れに外れた変態共が集まっていたのだ。オトモダチになれるような連中じゃない。1人だけ面白い奴がいたが、わざわざ探しに行くよりは自分のことに気を配った方がいい。

 海賊房太郎は、長年の監獄生活から解き放たれて自由の身になったのだ。

 全身の血が沸騰するような興奮が彼を襲っていた。狭くて日の光の届かない監獄から、外の世界に戻ってきたのだ。凍てつくようなこの北風すらも、懐かしい。澄んだ空気が全身を洗うかのような感触に身を任せて、房太郎は夜中森を走っていた。

 一晩中森を進んで、気付いたら夜が明けていた。日が森を照らしたおかげで、房太郎は小高い森の斜面から北海道の大地を見下ろすことができた。

 美しい景色だった。それ意外に形容しようがなかった。寒さも疲れも空腹も忘れて、房太郎はしばらくその景色に見惚れていた。

 旭川へ行こうと思い立ったのは、川で魚を獲って腹を満たしてからだった。目的があったわけではない。ただ自分が生まれた地というだけだった。待っている人間などいないし、行ったところで思い出したくもないものを見ることになるのはわかっていた。

 それでも、かつての故郷をもう一度見てみたいと思ったのだ。

 思い立ってから2、3日で、房太郎は川を下って旭川にたどり着いた。だがかつての仕事場である石狩川の上流にまで着く前に、擬似帰郷は諦めることになった。

 陸軍人が多過ぎたのだ。

 町を歩けばそこら中にいる軍帽、軍帽、軍帽。どうやら房太郎が監獄にいる間に、陸軍第七師団の駐屯地が旭川に移されたらしく、彼らのお膝元になってしまったらしい。やっと網走の看守から逃げ切ったというのに、ここで陸軍に捕まるなど冗談ではない。

 房太郎は懐かしい土地をろくに目に留めることもできず、そのままさらに南へ下ることにした。だがこのおかげで、かつての故郷への未練を断ち切ることができたといえることもあった。

 川下りしていた舟を奪って、南へ向かった。舟の上では一度も振り返らなかった。

 人の多いところへ行こうと思った。人口が増えればそれだけ自分の身を隠せるからだ。ただし、旭川よりは陸軍が少ないところがいい。となれば、札幌や小樽の方面に向かうのがいいだろう。このまま石狩川を下っていけば、江別を過ぎて札幌に着く。路銀はそこらの金持ちから頂戴すればいい。

 さすがに港を堂々と過ぎると目立つので、途中で舟を乗り捨て、陸路を少し進んでまた別の舟を盗むのを何度か繰り返した。そうしていれば順調に札幌に着くものと思ったが、途中で陸軍兵士が乗った船とすれ違うことになった。あちらは蒸気船、こちらは手漕ぎの小さな舟だ。集団の軍人から丸見えでは勝ち目がない。とうに獄衣は脱ぎ捨てて、白いシャツとスーツという小綺麗な洋服に着替えていたが、顔は割れていた。何食わぬ顔でやり過ごそうとしたが、さすがに海賊房太郎であるとバレて、狙撃を受けることになった。

 房太郎はすかさず川に飛び込んで、そのまま陸軍の船とは逆方向に泳いで逃げた。房太郎なら顔を出さないまま下流まで逃げることができる距離だった。

 しかし、不運にも川に向かって兵士が撃った弾が数発命中した。左肩と右の腿、あと数発は手足を掠めた。幸にも内臓に貫通しなかったから、痛みに耐えてそのまま潜り続けた。

 そのあとは記憶が曖昧だった。息が続くだけ泳ぎ続けて、意識が朦朧としてきたあたりでやっと川岸に上がった。たぶん兵士は撒いた。蒸気船は一方向にしか進まないから、旋回して追ってくるか、陸に上がって戻ってくるにしてもしばらくは時間が稼げるはずだった。

 しかし、血痕を辿れば追いつかれてしまう。だから一刻も早く、体から流れる血を止めなければならなかった。

 そうは言っても、冷たい川の水に浸され続けた体はほとんど感覚がなくなっていた。芯まで冷えた体はさらに血を失い続け、その上痛みが意識を奪っていった。

 よろよろと、房太郎は川岸に倒れ伏した。

 船上の兵士とその男との間の一連を、1人の女が見ていた。たまたま川辺を散歩していた彼女を、突如響いた銃声がその場所へ呼び寄せた。

 目に入ったのは、小舟から川に飛び込んだ誰かの影と、その影に向かってあれやこれや叫びながら発砲する軍人達。呆気に取られて眺めていると、川に入った影がすうっと近くを通り過ぎたのがわかった。反射のままに目で追う。すると今度は赤い色が浮かび上がったので、彼女は息を詰まらせた。軍人の発砲が命中したのだろう。

 しかしどういうことか、影は動きを止めることなく川の中を泳いでいる。川に飛び込んでから10分以上は経っているのに。撃たれたのなら、そのまま死んでしまったのだろうか。それなら死体が浮かんでくるはずだ。

 目の前で撃たれた人間を放っておくことができず、彼女はその影を追いかけた。騒いでいた陸軍兵士達は、船を旋回させることに手こずってもたついているようだった。だから彼女の方が先に追いついた。

 追いついたと同時に、影がぬらりと川から出てきた。初め、彼女は妖怪に出くわしたのかと錯覚した。

 それ(・・)は腰の下まで伸びた黒髪が濡れてへばりついていて、顔が見えなかった。何より、図体がでかかった。背丈は彼女の倍近くあるようにさえ思えた。手も足も扇のように大きく、その存在感に圧倒されて彼女は無意識にたじろいでいた。

 だが、それ(・・)は屈強な体を震わせて、歯をガチガチ鳴らしていた。考えてみれば、この冷たい川を泳いでいたのだから凍えていて当然だった。それに、やはり弾が当たっていたらしく、肩と足から血を流していた。

 彼女がそこにいることには気付いていないようだった。ふらふらと足を踏み出そうとしたが、歩くことはかなわずに倒れ伏してしまった。

 女は数秒茫然としてから、我に返ってその男に駆け寄り、息を確かめた。身体中が小刻みに震えていた。ほとんど痙攣のようだった。流れる血はいまだ止まらない。早く止血しなければ死んでしまうのは目に見えていた。

 懐の手拭いを細く破り、まず肩に、それから足にきつく巻きつけた。これでひとまず出血は止まった。あとは冷えた体を温める必要があるはずだった。

 試しに、男に肩を貸す形で持ち上げようとしたが、さすがに自分の倍ほどもある巨体を支える力はなかった。だから男の背中から手を回して胴を起こし、腰から下を引きずって動かすしかなかった。それでも重労働だった。

 血痕を残さないように気を配った。そうでなければ軍人が追いかけてくるだろうと思ったからだ。現に、軍靴の音が確実に近づいてきていた。

 少し歩けば森に入れる距離だった。一度その体を木陰に隠して、女はわざと軍人達のもとへ戻った。男を持ち上げたせいで濡れた着物も、血で汚れたのもそのままにして、いかにもあの男に襲われたのだという恐怖の表情を浮かべて、彼らに架空の事件を訴えた。

 彼女の訴えを聞いて何かを確信したらしい軍人達は、女が指差した方へ我先にと駆け出していった。

 その背中を見送ってから、男のもとへ戻った。彼女は札幌の町外れに家を持っていた。町の喧騒は遠く離れて、家の周りは林が囲んでいる。1番近くの民家まで、歩いて1時間近くはかかるくらいだ。だから血まみれの水濡れ妖怪を運び込んでも、怪しむ者は近くにいなかった。

 その家の中で、房太郎が目を覚ましたのは翌朝のことだった。

 火鉢のそばで布団に寝かされていて、暖かかった。しかし体は重く、思うように動かせない。首だけを動かすと、女の後ろ姿が見えた。黒髪を低い位置で丸く結っていて、白い頸が襟からのぞいていた。色褪せた若草色の小袖を着て、台所に立っているらしい。湯気が立っていて、米の匂いが漂っている。

 

「誰だ、お前」

 

 掠れた声を聞いて、女は房太郎を振り返った。

 淵の大きな目があった。弧を描く眉はすっと通っていて、彼女の目つきを少し鋭くしているように思われた。だが眼差しそのものは穏やかで、房太郎の枕元に歩み寄ってからも敵意や悪意を見せることはなかった。

 

「驚いた。もう意識が戻ったのか。もう1日か2日は寝たきりかと思ったよ。丈夫なんだね」

 

 鼻筋が長く、頬が痩せているせいでいくらか大人びて見えるが、少し上擦った声と話し方からして20かそこらの年だろうと房太郎は思った。あるいはもっと若いかもしれない。

 

「俺の質問に答えろ。お前は誰で、ここはどこだ」

 

 女は眉尻を下げてため息をつき、房太郎の顔のそばに腰を下ろした。

 

「私は東雲(ゆき)だ。ここは私の家だ。札幌の端にある。川から血まみれのあんたが流れて来たんでここに運んだ。体は動かせるか?」

 

 言われて、房太郎は撃たれたことを思い出した。感触で、左肩と足に布が巻かれていることがわかった。動かそうとすると鋭い痛みが走った。

 房太郎がわずかに苦痛の表情を浮かべたのを見て、雪は彼の額に手を当てた。水仕事をしていたせいで、ひんやりと冷たかった。

 

「動くのはまだ無理なようだね。熱はないが、ゆっくり眠っているといい。医者を呼ぶか迷っていたが、その頑丈さなら明日には起き上がれるだろう」

 

 だが彼女の言葉を否定するかのように、房太郎はむくっと起き上がってみせた。傷は痛むが、動けないわけではなかった。房太郎のあまりの丈夫さを前にして、雪は目を丸くした。そうして、声を上げて笑った。

 

「頑丈なんてもんじゃなかったね! 人間じゃないみたいだ」

 

 けらけらと笑う雪を、房太郎はじっと観察した。お人好しなのがよくわかる女だった。ずっと表情が穏やかで、腕と肩は弛緩している。足を崩して座っているし、こちらにすっかり気を許しているらしかった。華奢な体をしているというのに、目の前の不審な男を全く警戒していない。

 房太郎が襲い掛かれば、その白い首をへし折るのに数秒も要さないだろう。

 

「助けてくれてありがとう東雲さん。君は命の恩人だ」

 

 とはいえ、傷が癒え切っていないのも事実だった。このお人好しが世話をしてくれるというのなら、甘えない手はない。房太郎は笑みを貼り付けた。しかし今度は、雪の方が眉を顰めて、どこか複雑そうな表情を浮かべた。

 

「雪と呼んでくれないか。嫌いなんだ、この苗字」

「へぇ……」

 

 雪の言葉を聞きながら、室内を見渡した。房太郎が寝かされているこの和室と、玄関のそばに台所、それと隣に一室あるようだ。隣は襖が閉まっていて見えないが、人の気配はなかった。この家には今、雪と房太郎しかいないらしい。この和室にあるのも、1人分の布団と箪笥に、鏡台のみ。広さからしても、雪が1人で住んでいることが読み取れた。

 

「家族は? ここには雪さん1人なのかい?」

「ああ。家族はいない。だから気を遣わなくていいよ。腹は減ってないか? 粥を煮ていたところなんだ」

 

 雪がそう言って湯気の立つ台所を指したので、房太郎はそれ以上家族のことを聞くことができなった。雪の方が聞かせなかったというのが近いだろう。苗字が嫌いだとわざわざ言うくらいだから。

 

「うん。いただくよ」

 

 房太郎は雪の思惑に乗って、笑みを貼り付けたままそう答えた。空腹なのは事実だったから、雪が運んできた粥を食欲のままに頬張った。まだ湯気が立つ白粥は、悴んでいた手先をじんわりと溶かした。体の内側に熱を取り込んだおかげで、房太郎はまた少しだけ元気になった。

 

「あんた、海賊房太郎(ふさたろう)なのかい?」

 

 椀が半分ほど減ったあたりで、雪がおもむろに言った。口に運んでいたスプーンを止めて、房太郎は目だけ動かして彼女の顔を見た。そこには一瞬、緊張が走ったはずだった。しかしどうしたことか、彼女の穏やかな表情はまるで変わっていなかった。相変わらず弛緩しきった姿勢で、怪我人を労る目つきで房太郎を見ている。

 

「兵隊さんが『海賊』って言ってたのが聞こえたんだ。この間、網走で集団脱獄があったって聞いたばかりだから、もしかしたらそうかなって。古い新聞で名前を見たことがあるよ」

「俺を脱獄囚だと思って助けたの? 勇気あるなあ。じゃあもうすぐここには警察でもやってくるのかい?」

「まさか。兵隊さんを撒いてここまで運ぶのに苦労したんだよ。そんなつまらないことしないよ」

 

 こっそりと、スプーンを握る手に力を込めていた房太郎だったが、彼女の言葉を聞いてから少しだけそれを緩めた。

 

「つまらないって、どういうこと?」

「私は新聞屋(ぶんや)に寄稿して稼いでるんだ。少しだけだし、名前が売れてるわけでもないがね。それでそろそろ新しいネタが欲しかったところにあんたが流れてきたもんだから、面白いことがありそうだなと思って」

「じゃあ作家さんなんだ。女性なのにすごいなあ。何を書いてるの?」

「うまく読めた詩とか、短い記事とか、あとは雑誌で連載してる散文がそれなりに人気あるよ」

 

 雪は隣の襖を開けた。すると、紙の匂いが少しずつこぼれて来た。襖の向こうには文机が一つあって、その周りを大量の書物が囲んでいた。壁は本棚ですっかり隠れていて、その棚は全て書物で埋め尽くされている。机の周りには新聞が山積みにしてあった。なるほど、作家らしい部屋、書斎というべきか、そんな部屋だった。

 

「書を読み漁るのが好きでね。自分でも書くようになったんだ。女が学問を語るのはよしとされていないらしくて、受け入れられるまで時間がかかったけれど」

「外国語の本もいっぱいあるんだね。どこの国の言葉なんだい?」

 

 房太郎が遠目から見た限りでも、棚に並ぶ本は横文字のものが全体の半分ほどあった。房太郎は外国語が読めないが、話題に出すと雪は嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

「色々あるよ。イギリス、オランダ、ポルトガル、アメリカ、中国、ドイツ、フランス……どの国にも面白い物語がたくさんあるんだ! 私は全ての言語を完璧に読み書きできるわけじゃないけれど、特にフランスの演劇なんかはすごく好きでね……」

「すごいなぁ。そんなにたくさんの国の言葉がわかるのか。どこで学んだの?」

「女学校時代に、外国を渡り歩いている教授と知り合うことができたんだ。あの人は私が女であることも気にせずに、たくさんのことを教えてくれた。おかげでこの通り、本の虫さ」

「学校へ行っていたんなら、いいとこのお嬢さんだったんじゃないのかい? 今はどうして1人なんだ?」

 

 うきうきと軽い足取りであれこれと本を取っては見せていた雪だったが、房太郎が言うと、何かを誤魔化すように視線を逸らした。明らかに、聞かれることを拒んでいた。

 少し間を置いて、雪は答えた。

 

「家族は、私が文学の世界に浸ることが気に食わなかったようだ。物書きになりたいと言ったら、縁を切られてそれっきり」

「寂しくないのかい?」

「さぁ……寂しさなんて忘れてしまったよ。物語の世界に浸るだけで、私は幸せになれるから」

「空想の世界に浸るのは、寂しい現実から逃げたいからじゃ?」

「あんた、遠慮ってもんを知らないね。海賊だからかな?」

 

 房太郎は笑みを貼り付けたまま問いかけていた。しかし、今度は雪の反撃が始まった。無遠慮に心内に踏み込んでくる彼に苛立ちを覚え始めていた。元来彼女は、見かけ通りのお人好しで、誰かを憎らしく思うことは少なかった。それでもさすがに、房太郎の無遠慮は度を超えていたのだった。

 

「強盗殺人が、たしか50件は超えていたよね。川に引き摺り込んで殺すから『海賊』房太郎(ふさたろう)。何のためにそこまで殺したんだ?」

「ああ、俺、今は海賊房太郎(ぼうたろう)で通してるんだ」

 

 貼り付けた笑みのままの房太郎に反して、雪はむ、と眉を顰めて小首を傾げた。そして口元に指を当てて、ぼそぼそと独り言のように呟いた。

 

「ん……あれボウタロウって読むのか……ずっとフサタロウだと思ってた……」

「たしかに元の名前は房太郎(ふさたろう)だよ。大沢房太郎。でも今の名前の方で呼ばれることが多くなってねぇ」

「じゃあ合ってるじゃないか。房太郎(ふさたろう)で。直すの面倒だから房太郎(ふさたろう)って呼ぶぞ私は」

「うん。好きに呼んでよ。俺は君と違って名前に恨みとかはないからなあ。家族が嫌いだから苗字も嫌いなの?」

 

 また、房太郎は雪の心内に入り込む質問をし始めた。彼は椀の中身をすっかり平らげて、今はもう雪への問いかけを楽しんでいるように見えた。

 雪はお人好しだが、相手の思惑に転がされるほど単純な女ではない。房太郎が自分を探っていることは感じ取っていた。そして、それに大人しく従う女でもなかった。

 

「家族のことは話したくないんだ。聞かれても答えるつもりはないから、聞かないでくれ」

 

 はっきりと、淀みなく彼女は言った。物腰は穏やかだが、その物言いには有無を言わさない強さがあった。それは彼女の強固な自我の表れであり、この時代で男と同じ職に就く女の意思の強さを物語っていた。

 房太郎の貼り付けた笑みが、少しだけ固まった。

 

「へぇ、そうかい。嫌な思いさせちゃったかなぁ。ごめんね?」

「そういうあんたは、どうなんだよ。家族は?」

「俺も家族はいないよ。皆死んだんだ、疱瘡で」

「……そう」

 

 雪は罰が悪そうに目を逸らした。こういうところを見るに、善人であることはたしかだった。

 

「この話やめようか! 場が暗くなる」

「あんたが始めたんだろうに。自由人というかなんというか……ふふっ。脱獄囚ってみんなそうなのか?」

 

 雪が含み笑いをすると、さっき走った緊張がふわっと緩んだように思われた。その空気に乗っかり、房太郎はまた笑みを浮かべてみせた。

 

「ええ〜? 俺はまともな方だったんだよ?」

「監獄にはどんな人間がいたの? そっちの話の方が聞きたい」

 

 雪はまた布団のそばに寄ってきて、好奇心に満ちた目を見せた。その好奇心は、房太郎が雪の心を覗こうとしたのとは異なる種類のものだった。暗闇に土足で踏み込むのではなく、呼びかけの鈴を鳴らしてから、ゆったりと応答を待つのだった。

 拒む理由もなかったので、房太郎は投獄されていた頃の思い出話を聞かせてやった。同房になった囚人の話をしてやると、雪は帳面を取り出して何かを書き付けながら聞き入っていた。

 房太郎の足はまだ歩けるほどに回復していなかったので、しばらく雪の世話になることになった。雪が炊事をしたり書き物をしたりする他は、2人はこうして話をして過ごした。房太郎が話す時は自分の思い出話が、雪が話すときは外国の物語が専らの話題だった。

 2人の間には会話が絶えなかった。元来、房太郎は人と話すことは好きだったし、雪は知らない話を聞くのが好きな人間だった。

 雪は嫌な顔ひとつせずに房太郎の世話をした。それでいて押し付けがましくなく、気遣いがよく行き届くので、房太郎は雪に世話をされるのを心地よく感じていた。

 初めは雪を信用してなどいなかった。歩けるようになればすぐ、警察が来る前に逃げるつもりだった。ここに呼びつけるつもりなのだろうと、そう思っていた。

 だがどうやら、警察を呼ぶのは「つまらない」と雪は本気で思っているらしいと、房太郎は気付き始めた。彼女の好奇心は平穏よりも非凡を求め、房太郎が話す突飛な囚人達の話をいかにも興味深そうに聞いているのだ。房太郎自身の特殊な身体的特徴について話したときも、うんざりするまでこれまでの『海賊』業のことを聞かれた。そして、それを自らの栄養にして書き物を進めようとしているらしいのだ。

 1週間経っても、警察が房太郎を捕まえに来ることはなかった。

 房太郎はすでに歩けるようになっていたが、まだ雪の家に留まって彼女と共に過ごしていた。傷が癒えると、雪が町へ降りたり書き物をしたりしている間は川に潜って魚を獲った。雪がそれを料理して、2人で食卓を囲んだ。

 雪は房太郎の髪を手入れすることに熱を上げており、湯浴みをした後は椿油を念入りに塗っていた。元から自分で使っていたもので、房太郎のおかげで瓶の色はどんどん薄くなっていったが、それよりも房太郎の髪を傷める方が我慢ならないようだった。

 そんな日々が続いて、房太郎はもういつでも出て行けるくらいに回復していたが、雪が「もう少しあんたの話をしてよ」と引き留めるので、そのまま留まっていた。「もう少し」「あともう数日でも」と雪が繰り返すので、それに後ろ髪を引かれ続けている。

 実際、房太郎も雪と過ごす時間を気に入っていた。何せ、十数年ぶりの穏やかな生活だった。檻も看守も、懲罰も苦役もない。温かい食事と布団があって、気の合う話し相手もいる。風呂にも入れる。敵意に警戒する日々は、いつの間にか遠のいていた。

 朝は雪の方が先に目覚めて、朝餉の用意をしている。湯が沸いて、米の匂いが漂ってくる頃に房太郎が目覚めると、雪は台所から肩越しに振り返って「おはよう」と声をかける。この「おはよう」を聞くたびに、房太郎は自分の中の何かがときほぐされていくのを感じていた。

 この暮らしがずっと続くのも悪くない。そう思うことさえあるくらいに、美しい時間だった。

 

「シライシって奴が面白くてさあ。普段はおちゃらけててひょうきんな奴なんだけど、あれで脱獄王なんて呼ばれてるんだぜ。最初は強盗で捕まったらしいが、脱獄しては捕まって、また脱獄してを繰り返すうちに脱獄の罪の方が重くなっちまったんだって。関節を外して、体のあちこちがぐにゃぐにゃ曲がるんだよ。それで細い檻の隙間を通り抜けたり、狭い水路に入り込んだりするんだ」

「脱獄王の白石由竹……面白いなあ。最初に刑期を満了させておけばよかったのに、罪を重ねるなんて。じゃあ今回の脱獄もその人が主導したの?」

「いやぁ、今回は別だ……ああ、お前が喜びそうな囚人の話、そういやまだしてなかったな」

 

 湯浴みの後、日課の髪の手入れをしながら2人は語らっていた。部屋に布団を並べて、寝る前にいつもこの時間を過ごしている。

 雪が白石の話に興味を示したので、脱獄王の話をしてやっていたところだ。それで、房太郎は自分の体に彫られた刺青のことを思い出した。これに関する話は、雪には聞かせていない。

 もちろん、金塊のことを忘れたわけではない。自分の野望も。大っぴらにするものでもないから話していなかったが、雪はきっと大いに興味を示すだろう。アイヌの金塊、刺青の暗号、脱獄を先行した最後の侍。

 

「なあに? まだ面白い話があるの? もう20人くらいの話はしてくれたけど」

 

 案の定、雪は房太郎の髪を梳かしていた手を止めて、好奇心に満ちた目を輝かせた。房太郎はこの反応が気に入っていた。そわそわして房太郎の言葉を待つ彼女は、小さな子供のようだ。房太郎はにこやかに微笑みながら、寝間着の襦袢をするりと落とした。

 彼が突然上裸になったので、雪はどきりとした。驚きと羞恥と、少しの恐怖が混ざり合っていた。何を意図して裸になったのか、瞬時には理解できなかった。

 

「このもんもん、変わった模様だよね。網走の囚人はこういうのを彫られるのかい?」

「まあ監獄で彫られたんだが、看守じゃなくて別の囚人に彫られたんだ」

「それはまたどうして……いや、檻の中で? どうやって?」

 

 不思議な話を聞いて推察を始めた雪は、「その可能性」を頭から抜いてしまった。だから、反応が遅れた。

 雪に髪を預けるのに背中を向けていた房太郎は、ゆっくりと振り返って、顔を彼女に近付けた。その細い腕をとって、感触を、体温をわからせるように、自分の刺青を撫でさせる。

 2人はもう何日も同じ屋根の下で生活しているが、体の関係は持っていなかった。さすがに、雪はそうならないように気を配っていた。だが房太郎は長身で体格に恵まれているから、彼のほうがその気になったら雪には逃げ道がない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。「その可能性」は常にあったのだが、急に目の前に訪れると頭が真っ白になった。

 

「面白い話をしてやるよ」

 

 動揺している雪のすぐ耳元で、房太郎は語り始めた。アイヌの金塊、網走ののっぺらぼうと、彼が彫った刺青の暗号の話を。

 

「だから俺達は脱獄した。俺は金塊を手に入れるつもりだ」

「金塊なんて、俄には信じ難いけれど。本当にそんなものあるの?」

「ガセなら陸軍師団が俺たちの身柄にこだわるのはなぜだ? のっぺらぼうはなぜわざわざ刺青の暗号なんて手の込んだもんを仕込んだ? 金塊が実在するのは確実だ。あの場にいた俺たちにはわかるんだ」

「ふぅん……」

 

 房太郎に腕を掴まれたまま、雪は彼の刺青をなぞった。曲線がいくつも交差した珍しい模様だ。そして判子のように漢字がいくつか彫られている。これが何を意味しているのか、すぐにはわからない。

 

「俺は金塊を手に入れて、やりたいことがあるんだ」

「へぇ、何を?」

「王様になる」

「……はぁ?」

 

 房太郎は薄ら笑いをして、眉を顰めた雪の顔に擦り寄った。彼女がかすかに肩を振るわせたのがわかった。その肩に手を置いて、床に押し倒した。長い髪が雪の顔に垂れて、視界を覆った。

 

「本気だぜ? 国を作るんだ。どっか南の、暖かい島がいい。そこで子供をたくさん作って、家族の国を作るのさ。そこが俺の故郷になる。俺の子供たちが、そのまた子供たちに俺のことを語り継ぐんだ。俺の夢だ、子供の頃からの」

「大層な夢だね……ちょっと、突拍子もないけど……面白くはある」

「お前ならそう言ってくれると思ってた! 誰に言っても馬鹿にされるだけだったけどな!」

 

 このときの房太郎は、本当に心から嬉しそうに笑った。雪の目にはそう見えた。

 

「家族がほしいのは、一度失ったからなの?」

「ああ。疱瘡が厄介なのは、感染るところだ。家族は死ぬし、他のみんなは誰も俺に触れようとしない。居場所もなくなるんだ。だから作る。この手でな。お前もひとりならわかるだろ? なぁ、雪」

 

 房太郎は触れるほどに雪に顔を近付けた。

 

「俺と一緒に来い。その苗字が嫌いなら、俺のをやるよ。俺と家族になろう。俺の国で好きなだけ書き物でもなんでもしたらいい。外国語が堪能だから、優秀な文官にもなれるだろうなぁ。ともかく、お前なら大歓迎だ」

 

 冗談で言っているわけではないことはわかった。彼は本気で「国を作る」なんて夢を持って、それを叶えようとしているらしい。

 孤独の寂しさは、雪にも理解できた。時には死よりも苦しいものだ。彼がそこから抜け出そうともがいているのは、よくわかる。だが、その方法は雪の思想に沿わないものだった。

 

「家族がみんな、味方とは限らないよ。私は家族に追い出されたから。血のつながりにこだわるのはあまり好きじゃない。あなたが欲するものは、家族という形でしか手に入らないものなの?」

「帰る場所が欲しいんだ。俺が言ってる家族ってのは血で繋がってることじゃない」

「ならここを帰る場所にすればいい。私はあなたを拒んだりしない」

「へぇ……嬉しいこと言ってくれるねぇ」

 

 房太郎は雪の頬を撫でた。

 

「でもここじゃ駄目だ。俺は今警察にも金塊狙いにも追われてる。ここに留まれば必ず見つかる。そうしたらお前も危険だ。どうしたって俺は逃げ回るしかねぇんだよ。それなら俺が金塊を手に入れて、逃げる必要のない場所を作るしかねぇだろ? それとも、俺と来るのは嫌か?」

「そういうわけじゃない。私は家族を作るのが怖いんだ。また家族に拒まれるのが怖い。だから、家族になろうという誘いには、今すぐには乗れない」

「…………じゃあ家臣でどうだ? 俺に知恵を貸してくれる腹心だ。家族になるかどうかは、あとでゆっくり考えればいい」

「家臣……ふふっ。もう王様気分か」

 

 緊張で強張っていた表情が緩んだ。雪は眉を下げて笑った。

 

「わかった。お宝探しはとても心惹かれる冒険だ。連れて行ってくれるならありがたいね」

 

 海賊房太郎の1人目の家臣、珍し物好きの女流作家は、こうして彼の元に下ったのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。