私の王様   作:仁寺野瑛瑠

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刺青人皮争奪戦1 二瓶編

 

「暗号を解くには、他の囚人の刺青を調べなければいけないわけだ。どこにいるのか、あてはあるの?」

「さあねぇ……逃げる時に散り散りになったからなぁ。少なくとも北海道からは出ちゃいねえってのは確かだろうな」

「たしかに、みんな金塊を探しているなら、しばらくは北海道からは出ないだろうね。それにしても、気になっていることがあるんだけど」

 

 2人は朝食を摂っていた。白粥と味噌汁と魚の煮付けという簡易な献立だ。房太郎が獲ってきてくれるおかげで、魚の備蓄が充実していた。

 食卓を囲みながら、今後のことを話していた。最初の目的地を決めたら、すぐに出発するつもりだ。その最中に、雪は房太郎の刺青を指差した。

 

「それ、明らかに囚人を殺すことを前提に彫られているよね。のっぺらぼうは金塊を山分けするつもりなんてないようだ」

「そりゃ最初から俺らにお優しくする理由なんてねぇが、なぜそうだとわかるんだ?」

「模様が途中で途切れてるだろう。首のところと、胸の真ん中、腕。それは皮を剥ぐ時に切れ目を入れる部分だ。前に、近くに住むアイヌに教えてもらったことがある。暗号は囚人の皮を剥いで解けということだ」

「へぇ、物騒な話だ。んじゃ俺らも他の囚人をぶっ殺して皮を引っ剥がしゃいい。そうすりゃ金塊を狙う人間も少なくなっていくわけだしな」

「やはりそういう話になるよね。でも模様を写し取れば殺す必要はないだろう。殺すという手段を積極的に取る必要は……」

「ハッ。人殺しはいけませんってか? 安心しろよ。手を汚すのは俺だけだから、お前はそこを手伝う必要はない」

「そうじゃないよ……いや、私も人殺しは怖いけれど……房太郎(ふさたろう)だって人殺しは避けるべきだ。いつか必ず自分に返ってくる」

「悪いことをしたらお天道様が見てるぞって言いたいのか? 俺はもうとっくに何人も殺してる。今さらそんなこと気にしたってしょうがねぇ」

「今からだって遅くない。今までの分は監獄で償ったじゃないか。少なくとも私と行動している間は、殺しをしないと約束してくれないか」

 

 房太郎は雪の物言い苛立って、こっそり睨みつけた。半生を否定されたような気分だったからだ。雪もそれはわかっていた。だから、こう言った。

 

「ごめん。だが、どうか家臣のわがままを聞いてくれないか、陛下」

 

 上目遣いで、少し冗談ぽく雪は言った。彼女がこんな茶目っ気を見せるのは初めてだったので、房太郎は不意打ちを食らった気分になって、ぷっと吹き出した。

 

「都合のいい時だけそう呼びやがって。わかったよ。なるだけそのわがままを聞いてやる」

「よかった」

「それより今後のことだ。俺たちはのっぺらぼうに、『小樽へ行け』と言われてる。他の囚人達も網走から西へ向かったはずだ」

「じゃあ、当面は小樽を目指すってことでいいんだね?」

「まあ手がかりがそれしかねぇからな。だが他の囚人と接触するなら警戒しとくことがある。俺たちの脱獄を先導した囚人だがな、あいつだけは別格だ。お前も名前を知ってるはずだぜ」

「ん、確かに房太郎(ふさたろう)を含めても23人のことしか聞いてないね。あと1人は誰なの?」

 

 房太郎がその囚人の名を告げると、雪は淵の大きな目をさらに大きく見開いて、硬直した。

 

「え、それって……本当に?」

「本人らしい。脱獄するとき、軍人をその場で斬り捨てた。ただの爺さんじゃないことは確かだ」

「すごい……すごい、すごいっ! 俄然面白い話になってきたじゃないか! あの新撰組の副長が生きていたなんて!」

 

 雪は食器を置いて、キラキラした目を両手で覆った。声の調子はすっかり上擦って、今までになく興奮しているのがすぐにわかった。指の隙間から目の輝きが溢れている。

 彼女の性格なら、この話をすればこうなるのはわかっていた。だから房太郎は勿体ぶって黙っていたのだ。

 有頂天になった雪は、年相応に可愛らしかった。

 

「お前は楽しいだろうけど、俺にとっちゃなかなか問題なんだぜ? 土方歳三なら、金塊を獲るために徒党を組んでるに決まってる。そんなのとやり合うのに、俺とお前だけじゃ心許ない。無策で小樽に行って、奴に見つかったら皮剥がされて終わりだ」

「む……たしかに……土方歳三が敵になるわけか……それもそれで面白いけど。じゃあどうするの?」

「俺達にも仲間が要る。人手を増やすべきだ」

「それはもっともだ。だけど人は選ぶよね? 金塊を餌にしても、あとで内輪揉めになる可能性はなくすべきだ」

「そうだな。だから内情を知っている奴で、金塊に興味のない人間がいい」

「そんな人間に心当たりが?」

「何人か……な。協力できるかはわからねえ」

 

 まずは二瓶を探す。と宣言した房太郎に従って、雪は札幌を離れることになった。

 生家を出たのが17のときで、それから2年この家に住んだ。北海道から出ることはないのだから、いつでも寄ればいいと房太郎は言ったが、それでも住み慣れた家を離れるのはやはり物寂しい。部屋の中を掃除して荷物をまとめる頃には、昼を過ぎていた。

 

「ここにある本は、金塊を手に入れたら俺の国まで運んでやるさ。今持って行ったって荷物になるだろ」

「わかってるよ。読んだ本の中身なら大体頭に入ってる。これはお守りみたいな物だよ。他は白紙の帳面(ノート)だ。仕事用の」

 

 雪は書斎の中から一冊だけ取り出した本を荷物に入れ、あとは言葉通り白紙の束を詰めていた。おかげで雪の鞄は普通の旅支度より重い。それは道中、房太郎が運ぶことになるのだった。

 

「お守りって? 何か思い入れのある本なのか?」

「私の愛読書だよ。これも脱獄囚の物語。しかも元船乗りだ。房太郎(ふさたろう)に似てるだろ? この物語みたいに、万事がうまくいくことを願ってるよ」

「つまりは願掛けか。どんな話なんだ?」

「どうせならその目で読んでほしいけれど、いいよ。道中はこの物語を話してあげる」

 

 雪の家で過ごす間、雪がこうして物語を語り聞かせることがよくあった。雪は語り口になると、普段の上擦った声がとたんに落ち着いて、上質な語りをするのだった。穏やかで、どこか落ち着く声。水面を揺蕩うかのような緩やかさでありながら、物語を紡ぐ糸はしっかりと芯がある。温かい場所で聞いていると、ついうとうとしてしまう。

 読み聞かせを聞いている子供のようだという自覚はあったが、房太郎は雪の語りを聞くのが好きだった。

 雪が物語を語り始めて、主人公の生い立ちを話し終わる頃、札幌の街に下りた。

 雪は買い出しや仕事で街に下りることがよくあったが、房太郎は念の為人前に出ることを避けていた。一度は陸軍に顔を見られていたし、札幌ほど大きな町なら彼らのお仲間がわんさかいるからだ。

 だから今回も、房太郎は帽子を目深に被って顔を隠していた。もちろん刺青を見られるわけにもいかないから、シャツの上から羽織を被せている。だがそうはいっても、この長身では目立つことは避けられなかった。だから雪が表立って、街道の物売りと話をつけていた。

 

「二瓶〜? ああ、何年か前に投獄されたんだろ? 見ちゃいねえよ。それよりあんた、ずいぶんめんこいなぁ」

 酒臭い男が、房太郎の眼光にも気付かず雪を舐め回すように眺める。すぐに房太郎に投げ飛ばされた。

「マタギなんてこの北海道に何人いると思ってんだ。いちいち覚えちゃいねぇ。……ああ〜! 兵隊さんの前で強盗の首をへし折っちまったやつか! あいつ今どこにいるんだ?」

 毛皮売りの男。質問を返してきたが、2人はそれに答えずその場を去ることにした。

「お姉ちゃんお姉ちゃん、俺なら二瓶のとこに案内できるぜ。だから……なあ? ちょっと遊んでくれよ……うわあっ! なんだよ連れがいたのか! 悪い悪い!」

 またも、酒臭い別の男。明らかに鼻の下を伸ばしていたが、房太郎に気付くと足早に去っていった。

「俺こないだ会ったぜ。あいつ脱獄してきたんだろうな。獄衣のまま熊の毛皮持ってきやがってよ。またどっかで狩りを始めたらしいな。いや今どこにいるかまではさすがに……ああ〜、小樽じゃねえかな。数年前のあいつの縄張りもそこだろ。お姉ちゃんがカワイイから教えてるんだぜ?……チッ、なんだよ男連れかよ。わかったわかった。んな怖い顔しねえでくれ兄ちゃん」

 

  何人かに聞いて回ると、夕方ごろにそんな答えを返してきた商人がいた。

 結局、森の中を通って札幌を抜けることにした。「あいつは森の方がすぐに会えるかもしれない」と言って、房太郎はさっさと帽子と羽織を脱いだ。

 

「にしてもお前、なんだってそんな変なのに絡まれやすいんだ?」

「街に出るとよくあるんだ。今日は房太郎(ふさたろう)が一緒にいてくれるから、いつもより落ち着いて歩けたよ」

「んじゃいつもはもっとひどいのか? おいおい、今までよく無事だったな」

「もう札幌を離れるんだから大丈夫だよ」

「場所の問題じゃねえだろ……」

 

 雪は全く意に介していない様子で歩いている。その能天気な顔を横から見下ろしながら、房太郎は妙にやきもきする気分を抑えつけた。

 たぶん、雪のこのお人好し加減が滲み出ているせいで、男の下心を煽るのだろう。親しみやすくて、ちょっかいをかけたくなる。多少の意地悪をしても、笑って見逃してくれそうな気やさすさがあるのだ。たしかにそれは彼女の美徳で、房太郎もその人柄には惹かれるものを感じている。だが、連れとしては危なっかしくて仕方がなかった。

 

「女が1人で歩いているとこんなもんだよ。特に私は、世帯を持っているようにも見えないだろうしね。世間から外れた者は物珍しいんだろう」

 

 さっきの続きを話そう、と愛読書を開き、雪はやはりどこ吹く風といった調子でいる。彼女が世帯持ちに見えないのはその通りだった。まだ年若いし、子供がいるようにはとても思われない。それどころか、夫がいる女特有の生活感や疲れといったものが全く見えない。藤色の袴は着慣れたものらしいが古臭さがなく、皺が綺麗に伸ばしてある。鼠色の羽織も同じく皺がないが、何年も身につけたかのように彼女に馴染んでいた。その羽織は男物らしかった。わざわざ買ったのかと聞いたら、恩師から譲り受けたものだと答えてくれた。

 本を開く間だけ、雪は眼鏡をかけていた。男物の羽織と眼鏡に本が合わさると、なるほど書生の姿である。しかしそれは男にのみ許された格好のはずであり、あえてその形を自身に纏わせる彼女は、何か強い意志と訴えを持っているように思わせた。要するに、家庭を切り盛りする妻や母の姿では全くないというわけだ。たしかに、この時代の女としては外れ者だった。

 

「お前がいい女だから、そのへんのに唾つけられないか心配なんだよ。俺の正室になるってこと、ちゃんと考えといてくれよ?」

 

 少し冗談ぽく、しかし嘘ではない調子で、房太郎は言った。その目を雪は見ようとしない。視線を合わせようとしても、彼女は頑なに本を見ようとしていた。房太郎はこのとき、雪自身を形作る根幹の何かに触れたような気がした。これは昨晩、この旅へ誘ったときにも感じたものだった。「家族」や「結婚」というものに対して彼女は忌避感を抱いているようだった。

 

「わかってる。ちゃんと考えるよ。かなり、時間をもらうことになるけれど」

「そんな重く考えなくていいんだぜ? 嫌になったら後で逃げ出せばいいんだ。雪は真面目だなあ。」

「……そうだね。よく言われるよ」

 

 雪は目を伏せたまま言った。彼女もまた、房太郎のことをわかってきていた。含みのある言い方をすると、この男はそれを暴くまで踏み込んでくる。相手の秘密を尊重しようという心遣いがまるでない。それよりも自分の「知りたい」を優先する男なのだ。いや、相手が隠そうとしていることすらわかっていないのかもしれない。ともかく雪は元来、隠し事をしがちな人間であったから、彼の前では嘘でも会話を切り上げさせることを心がけた。踏み込まれるのは、あまり好きではなかった。言いたい事があるとき、自分を知ってもらいたいときは、文字に書き起こすからだ。

 

「熊撃ちを追うのなら、熊も追うことになるね。私達の方が餌にならないようにしないと」

「熊の仕留め方なら二瓶に散々聞かされたなあ。熊には個性もあるが習性もあって、習性を利用すれば必ず勝てると言ってた」

「へえ、習性って例えば?」

 

 たしか、止め足ってのが、と房太郎が言いかけたとき、2人の視界に茶黒い巨体がぬっと現れた。それまでは積雪の白と林の緑で覆われていたから、突然のことに2人は頭が追いつかなかった。

 それは熊だった。しかもヒグマだ。熊が出てきた笹藪からは音がしなかった。雪を踏みしめる足音も静かで、フッ、フッという息遣いが微かに聞こえる。毛皮で覆われた巨体は2m近くあるように思われた。毛が逆立っていて、あまり穏やかな様子ではない。2人は無意識のうちに足を止めて、呼吸さえも忘れた。

 房太郎はちょうど話していたこともあって、二瓶の話を思い出していた。熊に会ったら絶対に背を向けてはいけない。静かに出方を伺うことだ。

 熊は雪に足跡をつけながら、ゆっくりと2人に近付いてくる。息をするたびに、鼻の先から白い湯気が出ていった。その湯気が、房太郎の顔を撫でて消えていく。熊の硬い毛が肌に触れるくらいにまで接近していた。

 房太郎はじっと熊の目を見据えて、その場から動かずにいた。

 雪の方も、努めて気を落ち着かせて、動かなかった。しかし、房太郎ほど冷静ではいられなかった。頭ではわかっていても、目の前に巨体の獣が現れれば、本能的な恐怖が体を支配してしまう。熊が近づくほどに、咄嗟に後ずさろうとしてしまうのを抑えるのは難しかった。

 

「雪、絶対に動くなよ」

 

 だから、房太郎が声をかけて引き留めた。

 

「わかってるよ。でもどうするの。素手で熊になんて対処できるわけがない」

「そうだな」

 

 実は、房太郎は雪に黙って拳銃を隠し持っていた。これは札幌の町を歩いていたときに郵便配達員の懐から頂戴したものである。いつまでも丸腰でいるのが心許なかったから、ちょうど人混みの中で目の前にあったそれに手を伸ばしたのだ。だが、わざわざ不殺の誓いを立てさせた雪が、それを好ましく思わないことは明らかだった。旅立ちの一歩目から不審を抱かれるのはよろしくないので、さすがの房太郎も秘密を選んだのである。

 それがこの状況になっては、隠していても仕方がない。ズボンの中に手を伸ばして、ゆっくりと黒い塊を取り出す。

 しかしどうしたことか、引き金に指をかけるより前に銃声が響いた。乾いた、間延びした音だった。

 銃声とほぼ同時に、熊は叫び声を上げてから地面に倒れ伏した。その巨体のせいで、わすがに地が揺れる。息遣いの音がなくなり、逆立っていた毛も覇気を失ってぺたりとしてしまった。

 

「ぬはははは! 勃起!」

 

 今度は、空気を震わせるほどの声が辺りに響く。あるいは熊の断末魔よりも獣らしいこの声の主を、房太郎は知っていた。

 

「よお、生きてたか。二瓶」

「貴様こそ、これほど早く顔を見ることになるとは思わなかったぞ」

 

 笹薮を掻き分けて、白髪混じりの男が姿を現した。彼が手にする村田銃の口からは硝煙が立っている。その足元には、赤い首輪をつけた柴犬がいた。舌を出して尻尾を振って、興奮した様子でこの場を見つめていた。

 二瓶は仕留めた獲物に歩み寄り、その頭を持ち上げて再び「勃起!」と叫んだ。そして2人に語りかけながら、山刀を取り出して熊の腹を裂いた。この場で解体してしまうらしい。

 

「冬籠りしそこねた熊だ。俺がいなかったらお前達、食われていただろうな。こんなところで何をしている」

「いやぁ、小樽に行くところで迷っちまってなあ。監獄暮らしが長いと感覚が鈍っちまう」

「小樽……のっぺらぼうの金塊か。そんなものに触れるのはやめておけと言ったろうに、まだ国作りを諦めておらんのか」

「もちろん」

「ならば欲しいのはこの身の刺青だな? そう簡単に裸体を晒すつもりはないぞ」

「つれねぇこと言うなよ旦那。あんた、金塊に興味はないって言ってたよな? じゃあ敵対する必要はないじゃないか。協力してくれないか?」

「そんな口車には乗らんぞ海賊。この刺青は皮を剥げという意味合いも含んでいる。囚人同士が鉢合わせれば殺し合いが起きるだけだ。俺が今この引き金を引かずにいることをありがたく思え」

「へぇ……残念だよ」

「待って! 私達は本当にあなたを殺す気はない。たしかにあなたを探していたけれど、刺青の模様を写させて欲しいだけなんだ」

 

 房太郎は、さっきは出番のなかった拳銃にそっと手をかけた。この場にただならぬ緊張が走ったのを感じ取って、雪は2人の間に飛び出して声を上げた。

 二瓶は熊の腸を取り出したところで手を止め、声を上げた雪に目を向けた。

 目が合うと、雪は改めて体が萎縮するのを感じた。熊を射止めたその老体は、衰えではなく熟練が詰まっているように思われる。雪を射抜く眼光は、触れればこちらが傷を負いそうなほど荒々しい鋭さがあった。

 百戦錬磨の熊撃ちと若い女流作家では、あまりにも力の差がありすぎる。それこそ、熊と対峙したリスのように見えた。雪にその無謀さがわからないわけではあるまい。なぜ自分の後ろに隠れていなかったのかと、房太郎はその肩を掴んで自分の陰に引っ込めた。

 

「お嬢さんは海賊の連れかね? 森には似つかわしくない格好だ。洗練された都会の娘といったところか。海賊よ、お前の血縁は皆死んだと聞いたはずだが、とすると嫁か? お前の作る国とやらの人間がいたとは驚いた。かといって、金塊に目が眩むような下品な顔つきをしているとは思えんが」

「今口説いてる途中なんだ。いい女だろ?」

「ぬははは! では海賊王国のお妃というわけか!」

「そうなる予定だな」

 

 つい今し方殺気を飛ばし合ったばかりだというのに、2人は大口を開けて笑い合った。2人ともよく通る声をしているから、そこらの木々からバサバサと羽音がして野鳥が何羽か飛び去っていくのが見えた。二瓶の足元をウロウロしている柴犬は、2人に呼応するように何度か吠えた。

 無意義な脅しや、無駄話をする2人に苛立って、雪は会話を遮るように手で空を切る仕草をした。

 

房太郎(ふさたろう)、私達はそんな話をしに来たんじゃないだろ。二瓶鉄造。私は確かに彼の連れだ。彼の金塊探しに同行してる。だからあなたの刺青紋様の写しを取らせて欲しい」

 

 また房太郎の前に出て、冷静に、凛と、雪は二瓶の目を見据えて告げた。相手は銃を手にしている。殺されてもおかしくないと覚悟していた。

 実際、二瓶が持っているのは単発銃で、たった今その一発を熊に撃ち込んでいたのだが、雪には銃の種類など見分けがつかなかった。

 それは房太郎も同じだった。彼は従軍の経験がなかったし、銃は拳銃しか手にしたことがない。だから、雪が自分の前に出ると冷や冷やした。無意識に拳銃を握りしめた。

 二瓶は少しの間、じっと雪のことを見据えていた。獣が獲物を品定めするような目つきだった。

 

「ぬははは! 大した度胸じゃないかお嬢さん。海賊、手を貸せ。この熊を食いながら話をしよう」

 

 また地の底まで響きそうな笑い声を上げてから、二瓶は銃を担ぎ直して言った。さっきまでの鋭い目つきがふっと緩んで、人当たりの良い初老の顔つきになった。

 房太郎は二瓶が警戒を解いたのを察知して、雪を捕まえていたのを離した。すると雪の方も張り詰めていた力が抜けて、ふうっと息を吐いた。

 それから二瓶は熊をすっかり解体してしまった。2人はそれを手伝わされた後、二瓶が拠点としているらしい小屋に招かれて火を囲むことになった。

 

「二瓶ゴハン! 心臓焼きましたっ! うむ、血の味がしてうまい!」

 

 二瓶はさっきの熊の肉やら内臓やらを次々と火にくべた。炎が生々しい断面を撫でると、鼻の奥までこびりつくような獣の匂いが辺りを覆った。二瓶は最初に熊の心臓をむしゃむしゃと齧り取ると、残りを房太郎によこした。「食え」と言われたので、房太郎は心を無にしてそれをぶちっと噛みちぎった。それが動いていたときのことはあまり考えないようにした。魚を獲ることには慣れていたが、山の動物を扱うことにはあまり慣れていなかった。

 見た目は野生味溢れているが、味は普通の焼き肉だった。

 だめもとで「食うか?」と聞いてると、意外にも雪は嫌がる素振りを見せずにそれを受け取って、ためらいなく齧り付いた。房太郎は少しぎょっとした。

 しかし心臓は弾力があって分厚い。雪の口では噛みちぎるのが難しかったらしく、しばらく表面を喰んでからようやく一口分を口の中に収めたらしかった。そして長いこと咀嚼していた。その間は、なんともいえない無表情だった。

 

「意外と臭みがないんだね……肉汁もたくさん……とても体に精がつきそうだ」

「気に入ったか! ようしもっと食え! 女は肉付きよくあるべきだ!」

 

 二瓶はそれから、火を通した熊の肉と内臓をどんどん雪に食べさせていった。雪は素直に応じてもぐもぐしていたが、あの大きさの生き物を収めるには小さすぎる腹をしている。途中から咀嚼が遅くなり、顔色も悪くなり始めたので、房太郎が残りを食ってあとは二瓶を宥めた。

食事をしながら、雪は狩りのことや獣のこと、二瓶が持つ山の知識に興味を示し、あれこれと尋ねていた。雪が尋ねれば二瓶は拒まずに答えるので、会話が途絶えることはなかった。房太郎は時折相槌を打ったり、興奮して「勃起!」と叫び出した二瓶を宥めたりして会話に混ざっていたが、ほとんどは雪と二瓶の2人が話していた。

 柴犬のリュウは房太郎の膝を気に入ったらしく、そこで丸くなっていたので顎を撫でてやった。手持ち無沙汰な房太郎を慰めているかのようだった。

 

「それで、刺青の写しを取ると言っていたが、どうやって取る気だ?」

「最初は写し絵を取ろうと思ったのだけど、おそらく寸法を合わせないと解けない暗号だと思うんだ。だからあなたの体に油紙を貼って、その上から模様をなぞって描く。剥がせば写しができあがる」

「なるほどな。実に平和的で性に合わん。のっぺらぼうはハナから俺たちを殺すつもりでこれを彫ったはずだ。だがお嬢さんの当世的な知性は、不殺を望むのだな」

 

 最終的に二瓶は雪の言い分を受け入れ、2人が写しを取ることを許した。二瓶を言いくるめるのは苦労するだろうと予想していた房太郎は、その日のうちに目的を達成したことに拍子抜けした。

 早速、二瓶の体に熊の油を塗ることにした。桶に溜めた油に手を突っ込んで、雪が素手で二瓶に触れようとしたので房太郎は慌てて止めた。

 

「ムゥ。お嬢さんの愛撫を受けるのなら悪くないと思ったのだが」

「やらせるわけねえだろうが」

 

 二瓶を黙らせるように、房太郎は掴んだ桶をひっくり返して頭から油を被せた。「勃起!」と鳴き声のように二瓶が叫ぶ。どろりとした透明な液体が輪郭を流れていき、ぽたりと床に垂れた。

 

「量が多いと乾くのに時間がかかるよ」

「炙ってりゃすぐ乾く。雪お前なあ、こいつが人殺しの脱獄囚ってこと忘れてないか? 軽々しく近づこうとするな」

「あなたがそれを言うの?」

 

 雪はクスッと笑いながら言った。

 

「たしかに、今のは私が軽率だった。ごめんね」

 

 少し冗談ぽく、しかし素直に雪は謝った。彼女の言葉には裏表がない。房太郎にはそのまっすぐさが眩しく見えることがあった。

 

「……わかればいい」

「ぬはは! 国王閣下はお妃に強く出られんようだ!」

「お前は黙って油乾かしてろ」

 

 その後は、二瓶の体の油が乾くのをただ見ているのも気色が悪いので、雪が物語の続きを読み聞かせるのを聞いて時間を潰した。純真な船乗りの青年が船長に出世して、愛する女性との結婚も決まって幸せの絶頂にいるという胸焼けのしそうな話だった。

 

「海の話か。馴染みがない。山の獣との一対一の勝負。これこそが俺の人生だ」

「海の獣との戦いを綴った詩や物語もたくさんあるよ。山と海は似ていると思う。畢竟、己と向き合うことになるところが」

「獣との戦い、それすなわち己との戦いか。話がわかるじゃないかお嬢さん」

 

 二瓶は時折そんな風に口を出しながらも、雪の語りを大人しく聞いていた。体に塗った油が焚き火を反射して、ぬらぬらと光っていた。

 油が乾いてやっと写しが取れた頃には、すでに日が沈んでいた。こんな時間に山を下りるのはかえって危険だと二瓶が進言し、2人はそのまま二瓶の小屋で夜を明かすことになった。熊の匂いが染み付いていたが、雪は羽織をすっぽり被って、房太郎にもたれかかってすやすやと眠りについた。房太郎は彼女の呼吸を触れ合う肩から感じながら、まだ小さく燃える焚き火の波を眺めていた。自分1人ならまだしも、雪がいる中で眠りにつくほど気を許すことはできなかった。二瓶はこちらに背を向けて寝そべっていたが、眠ってはいないようだった。

 

「眠らんのか」

 

 二瓶は背中越しに声をかけてきた。低い声が小屋に響いて、ぽとりと床に落ちていくようだった。

 

「目が冴えちまってな」

「警戒するのもわかるが、俺は金塊に興味がない。お前達を殺す理由がない」

 

 二瓶は房太郎の表面上の言葉をそのまま受け取りはしなかった。言葉ではない言葉を聞くのが上手い男だった。房太郎は下手に嘘を吐こうとするのが面倒になった。

 

「金塊に関しちゃ、そうだろうな。早々に山に籠ってるんだ。あんたが欲しい物が金塊じゃないことは、よくわかったよ。なぁ、それなら俺達と手を組まないか? 分け前で揉める心配がないのはありがたい。金塊を追いかければ、土方歳三とぶつかるのが目に見えてるんだ。あんたみたいな手練れがいてくれれば心強い」

「馬鹿を言え。俺は山で生き山で死ぬ。くだらん欲で道を違えるつもりは毛頭ない」

「少しの間だけさ。用心棒みたいなもんだ」

「言葉を変えよう。俺にそんな暇はない。ここで新たな獲物を見つけたのだ。あいつと勝負するまでここを離れる気はないぞ」

「へえ。よっぽどでかい熊がいたのか?」

「狼さ」

 

 一瞬だけ、沈黙が流れた。

 

「狼? もう絶滅したはずだろ」

「だから最後の一匹になる。見たのだ。真っ白で美しい日本狼をな」

 

 背中越しだというのに、二瓶の目がぎらぎらと輝いているのがわかった。何かが見えたわけでもない。それなのに、明らかに空気が変わったのだ。殺気。狼という言葉を口にした瞬間、二瓶が狩人の鋭い気配を纏ったのだ。

 

「……そうかい。残念だ。ま、あんたみたいなのがそばにいたんじゃ、雪を放っておけなくなっちまうしな」

 

 二瓶は腹を打ったように低く笑った。声を抑えたのは、眠っている雪を気遣ったのだろう。そばで眠っているリュウが、かすかに耳をぴくりとさせた。

 

「ずいぶんと惚れ込んでいるらしいな。たしかに魅力的なお嬢さんだが、何がお前を惹きつけたんだ?」

「惚気話をしろって? 雪はそういうの嫌がるんだよなあ」

 

 冗談混じりに言いながらも、房太郎は問いの答えを頭の中に探していた。

 ただ、たまたま会っただけだ。たまたま会って、たまたま気が合って、たまたま、共に過ごすのが心地よかったから。目覚めた時に言ってくれる「おはよう」の声を、毎日聞きたかったから。だから誘った。これから作る自分の国に、この女がいてくれたら幸せだろうと思った。

 

「たまたまさ」

「運命に導かれたとでも言うのか! まるで乙女だな!」

 

 今度は声を抑えきれなかったらしく、笑い声で床が震えた。雪がかすかに身じろぎをしたので、毛布をかけ直してやった。

 

「海賊よ、女は恐ろしいぞ。肩入れしすぎるのはやめておけ」

「恐ろしいって? 雪はかわいい女だぜ」

「いずれわかる。そのお嬢さんもお前を尻に敷く女傑になるさ。昼間の態度にはそれくらいの気概があった……」

 

 言葉の途中から、二瓶の声がだんだんと小さくなって消えていった。続きを促そうとしたが、地鳴りのようないびきが返ってきたのでやめておいた。

 焚き火の波も小さくなって、少しずつ小屋の中を闇が侵食し始めていた。

 房太郎の横で、雪がまた身じろぎをした。二瓶のいびきに反応したか、寒さで身震いしたのだろう。

 雪は眠っていると、普段より幼く見える。聞けば年は19だそうだった。普通の娘なら見合い相手を探している頃だろうに、熊狩りの小屋で、脱獄囚の隣で寝息を立てているのだから不思議な縁だ。

 房太郎より一回り二回りも小さな体は、羽のように軽く、体重を預けられても全く疲れなかった。女傑という表現はしっくりこない。たしかに、猟銃を手にした熊撃ちの前に立ち塞がったように、その辺の小娘よりかは肝の据わった女であるが、危なっかしくて頼りなくて、幼い部分だってある。房太郎が「かわいい女」と評したのはそういう面を指してのことだ。自分が彼女の尻に敷かれている様は想像できなかった。

 

「まぁ、そういうのもありかもな」

 

 雪が家の中でふんぞり返っているのを想像して、房太郎はふっと微笑んだ。どんな様子であれ、自分が帰る家に雪がいるのを空想するのは楽しかった。

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