私の王様   作:仁寺野瑛瑠

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刺青人皮争奪戦2 辺見編

 

 夜が明けると、2人は二瓶の案内で山を下りた。

 

「俺がこのあたりへ来てすぐの頃、近くで殺人があったと聞いた。囚人の誰かかもしれん」

 

 去り際の二瓶の言葉を頼りに、2人は小樽で起きた殺人事件の情報を集めることにした。二瓶が着いてこないことがわかると、雪は心底残念そうな顔をした。

 

「なんだよ、俺との2人旅じゃ不満か?」

「仲間集めにここまで来たんでしょ? 人手が増えないのは残念だよ」

「写しが取れただけで十分だ。他の囚人と接触すりゃ、こっちが殺されるかもしれねえんだからな。そういう意味じゃ上々の結果だろ」

「それは……そうだね。これから殺人犯を追うのなら、次はその危険がもっと高いってわけだ。囚人に心当たりはある?」

「殺しの理由にもよるなあ……盗みのためなら殺しをやる奴が大半だ。そうなると目星をつけるのは難しい。ただ、殺すための殺しをやる奴はそこまで多くなかった」

「快楽殺人鬼が題材の小説は多いけれど、実際にはお会いしたくないね」

「本当かあ? 興味津々って顔してるぞ? 頼むから、ちょっかいかけて返り討ちに遭うなんてのはやめてくれよ」

房太郎(ふさたろう)がいるから平気だよ」

「俺は本気で言ってんだぞ〜?」

 

 雪の頬を片手で掴んで、むにむにと弄んだ。雪はにこにこして受け入れている。この旅の危険さをわかっているのかいないのか、よくわからない顔だ。少なくとも全くわからない馬鹿ではないはずだが、この毒気のない顔を見ているとどうにも気が抜ける。

 房太郎は親しみを込めてその頬をつついてから、荷物を担ぎ直した。二瓶の油紙1枚分と、雪が白かった帳面(ノート)に書き留めた分だけ、重さが増えていた。

 2人は森を抜けて、町へ出た。房太郎はまた顔を隠して、殺人事件の聞き込みを始めた。雪が前に出るとよく絡まれるので、今度は房太郎が先に立った。覆面の大男の威圧感は、安全には役立ったが、人が避けていく。目当ての情報を手に入れるまで時間がかかった。

 

「殺された人間の体には、『目』の文字……あなた達の刺青を連想するよね」

脱獄囚(おれたち)をおびき出そうとしてる。関谷か……辺見だろうな。こんなことするのは。殺しのための殺しだ」

「辺見和雄は、あなたは普通の人に見えたって言ってたよね」

「ああ。なんで人殺しをしてたのかは知らねえ。が、100人以上殺して投獄されてたのは事実だ。まともに話ができる気はしねえな……」

「居場所だけでも、もう少し探ってみようよ。そこから別の手がかりが見つかるかもしれない」

 

 2人はその後、殺人事件が近くの漁場周辺で頻発していたことを突き止めて、海へ向かった。

 

「風が気持ちいいなあ! ほら来てみろよ雪!」

「寒いよ……潮風は気持ちいいけど」

 

 房太郎は砂浜に出ていき、両手を広げて風を受けていた。長い黒髪が靡いている。顔中を引っ張るような冷たい風だったが、房太郎の肉厚な肌は寒さを防いでいるらしい。羽織と襟巻を体にしっかりと纏わせて顔を埋めながら、雪は房太郎の波のような髪を眺めた。

 

「こんな海が眺められる家に住めたら最高だよなあ。暖かい場所ならもっといい。雪は海が好きか?」

「眺めるのは好きだよ。穏やかな海はね。今の時期は寒すぎる」

「雪は細いからなあ。ほらこっちに来いよ」

 

 房太郎は雪を抱き寄せると、その腕の中にすっぽりと収めてしまった。六尺をゆうに超える背丈の房太郎は、五尺と少しの雪を体をすっかり覆い隠すことができた。雪の頭に顎を乗せて、ご機嫌に潮風を堪能した。

 雪は大きくて重い外套を纏った気分だった。なるほど房太郎の手は、この寒さの中でも温かかった。温もりを求めてその手に触れると、房太郎は嬉しそうに雪の手を包んだ。

 

「つめてっ。冷えてたんだなあ」

房太郎(ふさたろう)の手は大きくてあったかいね」

「言ってくれりゃいつでもあっためるぜ? 体の芯まで」

「それは遠慮しておく」

「ええ〜? ほら、体中冷えてるじゃねえか」

「海にいるからだよ。もう、目的を見失ってどうするんだよ。早く近くの漁師達に話を聞きに行こうよ」

「もう少しだけいいだろ。なあ、雪はどんな家に住みたい? 俺達が住む家だ。お前の希望も聞いておかなくちゃな」

 

 このときの房太郎はどことなく浮かれていた。砂浜の開放感がそうさせたのか、水場に来られたことが嬉しかったのか。楽しそうに語る姿は子供のようだった。その姿に絆されて、雪はもうしばらく付き合うことにした。

 

「誰も邪魔しない海で自由に泳ぎたいよなあ。雪は泳ぐの好きか?」

「一応女学校で習ったけど、私はあまり得意じゃなかったな」

「じゃあ俺が教えるよ。夏になったら泳ぎに来よう。学校のつまんねえ授業なんかよりずっと楽しいぞ」

房太郎(ふさたろう)と一緒ならそうだろうね」

 

 2人がくっついて海を眺めながらそんな話をしていると、いつの間にか桟橋から船が出始めていた。漁船ではなく、手漕ぎの舟だ。大きな網を積んでいて、掛け声を上げながら舟を進めている。

 

「ヤン衆か。脱獄囚が身を隠すにはもってこいだな」

「どうして?」

「あちこちから働き手がやって来るからさ。素性がわからない奴がうようよしてる。そういや辺見は漁場を転々としてたって聞いたことがあるな」

「あの中から1人を探すのは骨が折れそうだね」

「顔見りゃすぐわかる。向こうも俺の顔を知ってるけどな」

「じゃあ正面から行くの?」

「さてなあ……あいつは何を考えてるのかよくわからなかったんだよ」

「じゃあ私が、物書きの取材のふりして聞いてこよう」

「現状それが最適か。でもなあ……」

 

 房太郎は自分の腕の中に収まってしまう雪の小さな体をぎゅっと抱きしめて、溜息をついた。

 

「お前は危なっかしいんだよなあ……」

「じゃあ顔を隠して傍に立ってて。あなたは立ってるだけで雰囲気があるから」

 

 2人は砂浜を歩いて、港で作業をしている漁師達のもとへ向かった。途端に人が増えて、まっすぐ歩くのが難しくなった。潮と、魚の匂いが立ち込めている。漁師達の呼び声、作業の掛け声がそこら中から響き渡り、会話をするのも難しい。獲った魚を担いで歩く漁師やモッコ背負いもたくさんいるから、ぼうっとしているとすぐ荷物にぶつかった。房太郎は頭が一つ飛び出るから目立つが、雪は手を捕まえておかないとすぐ見失いそうだった。

 あくせく動いている漁師達の足を止めることは難しく、番屋の近くで休んでいる漁師を見つけてやっと話を聞くことができた。「取材ってんなら、親方に言ってくれよ。向こうの本殿にいるからよ」とその漁師が言うので、案内を受けてニシン御殿を尋ねた。主人は雪が名乗ると快く受け入れた。

 

「まさか東雲先生にお会いできるとは! あなたの文は全て読みましたよ。どれも素晴らしかった!」

「ありがとうございます。高尚な読者に恵まれるのは、作家の幸福ですわ。ここで起きたという殺人事件についてお伺いしたいのです」

「ここを作品の題材にしてくださるのですかな? 何でも聞いてください!」

 

 広い応接間に通されると、雪は完全によそ行きの顔をして、御殿の親方と話していた。房太郎は彼女の後ろで置物のように座って、2人の会話を聞いていた。だが、親方から有益な話が出ることはなかった。雪がどれだけ誘導しようとしても、彼の口から出て来るのは自分がこの漁場でどれだけ苦労してきたかということばかりだった。それも、漁場の仕事、その拡大というよりは、自分のことをどうしたら立派に見せられるかということで頭がいっぱいのようだ。殺人事件のことは嵐が通ったくらいのことか、自分の経歴にちょっとした刺激を与えてくれる出来事としか思っていないらしい。

 この男が頭では、この漁場はいつか衰退するだろうと房太郎は思った。

 親方が何度も同じ話を繰り返すので、房太郎は早々に話を聞くのをやめて、ここに来る途中に雪が語り聞かせた物語の続きを思い出していた。昇進と結婚が決まって幸福の絶頂にいた主人公が、無実の罪で監獄行きになったところだった。突然の転落人生で、房太郎はその続きが気になっていた。

 ニシン漁に出て海に落ちた時に、シャチに食われそうになったという話が6回目に入りかける頃、親方はようやく日が傾いていることに気付いたらしかった。

 

「もうこんな時間か! 先生、今晩はどうぞ泊まって行ってください。おもてなしさせていただきますよ。お連れ様もご一緒で構いませんから」

「ぜひそうさせてもらいます」

 

 雪は最後まで笑顔を崩していなかった。2人は御殿で夕食を振る舞われ、広い風呂に入ってから寝床についた。

 

 「あ〜! 贅沢な屋敷だぜ! 俺達もこれくらいでかい家を建てよう」

 

 房太郎は布団に飛び込んでから呻き声を上げた。よほど羨ましかったのか、枕に顔を埋めたまま「うまい飯だったなあ」「これ羽毛布団か」「早く金塊が手に入ればなあ」とぶつぶつ呟いているのが聞こえた。

 

「住むには広すぎるよ」

 

 雪は髪を梳かしながら相槌を打った。寝室の鏡台も装飾付きの立派なもので、1人で使うには大きすぎるくらいだった。

 顔を上げて、房太郎は鏡越しに雪に語りかけた。

 

「お前には物欲ってもんがないのか? こんな立派な部屋に住みたいとかさ」

「欲を出しすぎるといつか身を滅ぼすだろ」

「そんな説教を聞きたいわけじゃねえよ。もっと楽しく生きようぜ雪。その方がいい本を書けるに決まってる」

 

 言葉の通り房太郎は快楽主義者だったが、それが破滅的な方向ではないことを雪はわかっていた。彼は自分に空いた穴を埋めるものを探しているだけだ。贅沢そのものを欲しているのではない。

 だから、否定し続けるのも違う気がして、言葉を改めた。

 

「そうだね。あの大きなお風呂が家にあったら最高だろうな」

「ああ! でかい風呂は王様の象徴みたいなもんだ。俺たちの家にも作ろう」

「はい王様。あなたの髪もお手入れさせて」

「ここで寝てるから好きにやってくれ」

「それじゃ布団が汚れるでしょ。ほらこっちに来て座って」

「お前は疲れてないのかあ? 昼間の親方の話にはまいったよ。何回同じ話を繰り返すんだ? よくにこにこしていられたな」

「立派な経験だったのは事実だよ。ヤン衆の話を聞くのは初めてで面白かったし。相槌を打つのには疲れたけど、読者の前だからね」

「あんなのが読者で嬉しいのかよ」

「女の書き物なんかを読んでくれるだけでありがたいよ。読み手がいなきゃ商売にならない」

「ふぅん……」

 

 房太郎はゆっくりと腰を上げて、のそのそ歩いて雪の隣に腰を下ろした。背が高くて届かないので、雪は椅子を持ってきて腰掛け、房太郎の髪に椿油を揉み込み始めた。潮風にあたったせいか、普段よりも傷んでいるように思われた。

 

「なあ、お前の書いた本はどこで読める?」

「今まで書いたものは札幌に置いてきたよ」

「じゃあ道中で書いたもの、読ませてくれよ」

「あらあらどういう風の吹き回し? 読書する人じゃなかっただろ」

「俺もお前の読者になるよ。だからあの親方に愛想振り撒かなくていいんだぜ」

 

 予想外の言葉だったので、雪は目を丸くした。同時に、なんだか愛しさが込み上げてきて微笑んだ。房太郎は雪が書いた物の中身を知りたいというよりも、親方に張り合っているように思われた。

 

「愛想振り撒いてたつもりはないんだけど……ふふっ。ありがとう。王様に読んでいただけるなんて光栄ですわ」

「あ、その喋り方。よその連中の話す時はそうなるのか?」

「そりゃあお偉いさんと話す時はね。王様にもこっちで話した方がいいのかしら」

「他人行儀なのはやめてくれよ。いつも通りにしてくれ。そっちの方がお前らしい」

「取り繕わなくていいのは楽。房太郎(ふさたろう)は寛大な王様だね」

「そんなことで喜ぶなよ。もっと自由に気楽にいこう。女だからってのは、卑屈になる理由じゃないだろ。『女なんか』って口にするのはやめろ。お前が優秀なのは間違いないんだから」

「……そんな風に思ってくれてたの?」

 

 雪は房太郎の髪を梳かしていた手を止めた。房太郎が今指摘したのは、雪がどこかでわかっていたが、考えないようにしていたことだった。女だからというだけで、書き物を読んですらもらえない。仕事を認めてもらえない。理由のない嘲笑を受ける。

 思えば房太郎は、初めて会った時から雪の職業を不審がらなかった。変わり者だと思ったことは違いないだろうが、それだけで雪を理解したふりはしなかった。房太郎自身が逸れ者であるからかもしれないが、それでも雪は、腫れ物扱いをされないことが心地よかった。

 

「嬉しい」

 

 雪は房太郎の大きな背中に抱きついた。柄にもなく、気分が高揚していた。

 

「そういうことならこっちにしてくれ」

 

 房太郎は雪を振り返って、正面から雪を抱きしめた。背中まで大きな手で包まれて、雪は身動きが取れなくなった。

 

「惚れた?」

「すぐそういうこと言うんだから……」

「口説き落としたくてしょうがないんだよ。なあ? ずっと寒いって言ってただろ。今夜は一つの布団で抱き合って眠ろうか」

「そういう冗談は好きじゃないの。いい加減わかってよ」

 

 くっつきそうだった顔を押しのけて、雪は房太郎の腕から逃れた。その気になれば腕の中に捕まえておくことなど容易だったが、房太郎は大人しく押しのけられてやった。わざとらしく両手を挙げて、降参のポーズを取った。

 

「冗談じゃないんだけどなあ」

「なら、私はもう少し硬派なやり方が好みかな」

「参考にしとくよ」

 

 雪はさっさと布団に入ろうとした。機嫌を損ねてしまったらしい。雪は機嫌が悪くなると無口になる。そんな態度もかわいらしいが、話し相手がいなくなるのは寂しい。

 

「なあ、親方の話を聞くよりもお前の読み聞かせのほうがやっぽどいい時間だ。あの物語の続きはどうなるんだ? 監獄に入れられた船乗り」

 

 房太郎は何事もなかったかのような口調で、雪の背中に話しかけた。布団を被ろうとしていた雪はその手を止めて、少しだけ振り返った。これはうまくいった。房太郎は続けた。

 

「続き気になってたんだ。寝る前に聞かせてくれよ」

「……いいよ。私の荷物から本を取って。こっちに来て」

「仰せのままに」

 

 房太郎は荷物を漁って本を取り出し、雪に渡してから隣の布団に寝そべった。雪は本を開き、あの穏やかな調子で語り始めた。無実を信じてもらえない主人公が、孤島の監獄で日に日に絶望していく話だった。

 

「なんだか雲行きが怪しくなってきたなあ」

「この辺りは枕のお供になるような話じゃないんだ。でもここからが面白いんだよ」

 

 雪は続きを読み始めようとしたが、俄かに廊下が騒がしくなって止められた。ばたばたと数人の足音が響き、あれこれ言い合いをしている声も聞こえた。穏やかではない。怒鳴り声や悲鳴も聞こえた。2人は顔を見合わせて、襖を開けて外の様子を伺った。ちょうど若い使用人が通り過ぎるところだったので捕まえて事情を尋ねると、使用人は青ざめた顔で言った。

 

「お客人に言うことではないのかもしれませんが、先刻死体が見つかったそうなのです」

「どこで見つかったんだ?」

「番屋の外です」

 

 房太郎はすぐに外套を羽織った。

 

「辺見かもしれない。様子を見てくるから、雪はここにいろ」

「一緒に行くよ」

「すぐに戻るからここにいてくれ。いいな?」

 

 雪の肩に手を置いて言い聞かせ、房太郎は部屋を飛び出した。外はちょっとした騒ぎになっていて、人の群れを辿っていけばすぐ場所がわかった。

 夜中だったが、人が輪をなしていて、何人かが明かりを手にしていた。それに照らされて、人が倒れているのが見えた。漁師の格好をしていた。人をかき分けてその中心に進んでいくと、刃物で首を掻っ切られているのが見えた。そして、はだけた胸元に「目」の文字が刻まれていた。

 

「これをやった奴は捕まったのか?」

「誰がやったかもわからねえよ。こんな悍ましいことがまた起こるなんて……」

 

 近くの男を捕まえて聞いたが、怯えた声しか返ってこなかった。死体の血はまだ乾いていなかったから、ついさっきまで殺人者が近くにいたはずだ。あるいは、まだここにいる。

 房太郎は雑踏の中に辺見の顔を探した。だが当然、そう簡単に見つかるはずがない。

 これだけ死体を注目させたのだから、脱獄囚(じぶん)をおびき出そうとしているのは明らかだった。それならいっそこっちから行ってやるというのに、見つからないのは苛立った。

 警察がやって来て死体が連れて行かれても、房太郎は辺見を見つけることができなかった。仕方なく諦めて、房太郎は御殿の部屋に戻った。

 

「海賊さん。海賊房太郎さんですよね?」

 

 部屋の襖を開けると、どこかで聞いた声が房太郎を出迎えた。穏やかで人当たりがよいが、人間の何かが欠落しているような冷たさを含んだ声だった。

 その部屋の光景を理解するまでに、房太郎は数秒を要した。ついさっきまで綺麗に二つ並んでいた布団は、寝汚い朝のように乱されていた。雪が使っていた豪華な鏡台は倒れて、破片が散乱している。2人の荷物の中身も散乱して、雪の帳面(ノート)がばらばらになって畳を埋めていた。

 そしてその白い面を、赤い飛沫が汚していた。その飛沫は深雪のような白い肌から染み出していて、白い肌は鈍色に光る包丁で裂かれていた。その鈍色を握りしめて、白い肌を壁に押さえつけていたのは、房太郎を迎えた声の主だった。

 

「見えますか? 今、僕がこの人を刺しているんです」

「てめえ!!」

 

 怒りで我を忘れて、房太郎は辺見に飛び掛かった。しかし辺見は身軽にそれを躱わすと、ぐったりしている雪の身体を起こして、脅すようにその首元に包丁を突き立てた。

 

「ああッ! 今のはとてもよかった! この人、刺したのにちっとも煌めいてくれないんです。まるで最初から全部諦めているみたいに! 受け入れているみたいに! 僕は違う! 煌めきたいんです! 死には全力で抗わなければいけないッ!」

「意味のわからねえこと言ってんじゃねえ!! 今すぐ雪から離れろ!!」

 

 房太郎の怒号が響いて、空気が揺れた。雪は房太郎がこれほど怒ったのを見たのは初めてだった。

 辺見はぶるぶると震えてため息をついた。それは房太郎の怒りに恐怖したのではなく、感激で震えていたのだった。

 

「やっぱり……この人が大事なんですよね? 昼間浜にいるのを見かけた時に、そうなんじゃないかって思ったんです。海賊さん、あなたは僕を煌めかせてくれますか? この人を、殺したら! あなたは僕を全力で殺してくれますか!?」

 

 辺見は興奮して、包丁をぎりぎりと強く握りしめて、雪の喉元に押しつけていた。白い首からは血が滲み出していて、それは房太郎の神経を破裂させるのには十分すぎるものだった。

 

「そんなに殺されてえなら殺してやるよ。殺して皮を引っ剥がして魚の餌にしてやる」

 

 獣が唸るような低い声だった。目は据わり、血管が浮き出て、怒髪天を突く勢いで、髪がうねるような幻覚さえも見えた。その姿はどんな無頼漢でも尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどの殺気を放っていた。しかしこの辺見という男は、その殺気が強ければ強いほど興奮し、悦ぶのだった。

 

「ああッ! そう、そうです! 僕はそれに全力で抗うんです!」

 

 辺見が言い終わるより先に、房太郎はその頭に拳を振り下ろした。辺見は首を傾けて逸らしたが、雪を抱えていたので完全には避けられなかった。房太郎の拳が脳を揺らし、辺見は後ろに倒れ込んだ。放り出された雪の身体を受け止め、房太郎は彼女の息を確かめた。出血は止まらず、顔が青ざめていたが、わずかに呼吸をしていた。

 

「雪、おい雪。しっかりしろ!」

 

 雪は呻き声を漏らして、うっすらと目を開けた。刺された左肩が痛むらしく、苦痛で顔が歪んでいた。

 

「少し待ってろよ」

 

 足元の布団に寝かせて、上着の袖を巻き付けて軽く出血を抑えた。その間に辺見は起き上がっていて、こちらに襲いかかってきた。房太郎は間髪入れずその顔面を掴み、そのまま押し返して床に押し付けた。手の平の下で、辺見の頭蓋がみしみしと軋んだ。

 

「はああッ! ああッ! 割れるッ! 飛び出るッ!」

 

 房太郎の手をどかそうと、辺見は爪を立てて抵抗してきた。だがその表情は恍惚として、瞳孔は開いて輝いていた。それが房太郎の怒りに拍車をかけ、押さえつける力が強まった。

 このまま頭を砕いてやろうと思った。骨を握り潰して、脳みそをぶち撒けて、目玉をくり抜いてやる。

 だが、弱々しい手が房太郎に触れて、わずかに彼の気を逸らした。

 

「殺しちゃだめ……だめだよ房太郎(ふさたろう)……」

 

 雪は青い顔のまま這いつくばって、房太郎にしがみついて彼を止めようとしていた。房太郎は辺見を押さえつけたまま、もう片方の手で雪を押しのけた。

 

「どいてろ雪。こいつをぶっ殺したらすぐ医者に診せるから」

「だめ。こいつ、房太郎(ふさたろう)に殺されたがってるんだよ。そんなことしても悦ばせるだけだ。付き合ってやる必要はないよ。お願い。房太郎(ふさたろう)……」

 

 雪は消え入りそうな声で懇願した。房太郎の腕に触れる手は弱々しいが、ぎゅっと掴んで離そうとしない。その感触と、雪のか細い息遣いが、辺見を押さえつけていた房太郎の力を少しずつ奪っていった。

 

「あああああッ! だめ、だめですッ! まだ煌いていないッ! どうして! やっぱりその人を殺すべきなんですね!」

 

 辺見が喚き出したので、頭を殴って黙らせた。「房太郎(ふさたろう)!」と雪が責めるような声を上げたが、体が限界らしくぐったりと項垂れてしまった。

 

「気絶させただけだ。わかったよ。お前の身の安全の方が大事だ。すぐに医者を呼ぶ。もう少し頑張れるな?」

 

 雪の顔を撫でて言い聞かせてから、傷口が開かないようにそっと抱き上げて部屋を出た。雪はほっとしたように溜息を吐いて、あとは目を閉じてしまった。気絶したようだった。

 房太郎は大声を上げて御殿中の使用人を呼びつけ、辺見の拘束と医者への連絡を命じた。屋敷内はまた慌ただしくなり、医者を呼んで雪の傷口を縫い、辺見を縛り付けているうちにあっという間に朝日が昇っていた。

 房太郎は、麻酔が効いて眠っている雪のそばで夜を明かした。翌日の昼頃に雪が目覚めるまで、一睡もせず、じっと雪の寝顔を見つめていた。

 

「雪……」

 

 雪が目を覚ますと、房太郎は縋り付くようにその手を握って、深く息を吐いた。房太郎はひどく疲れた顔をしていた。彼が弱り果てているのがわかって、雪は胸が締め付けられる思いがした。

 

「おはよう、房太郎(ふさたろう)

 

 自分は大丈夫だと伝えたくて、いつも通りの目覚めの挨拶をした。それが功を奏したのか、少しだけ房太郎の表情が緩んだように思えた。

 

「こんなに肝が冷えたのは久々だぜ……無事でよかった」

「辺見はあれからどうなったの?」

 

 房太郎は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。

 

「使用人を殺して逃げたらしい。どこに行ったかは知らねえ」

「そんな……じゃあ刺青の写しは……」

 

 罪悪感が雪を襲った。昨夜自分が余計なことを言わなければ、房太郎が辺見の刺青を手に入れていたことは間違いないのだ。だからといって、彼が手を汚さずにすんだこの結果が悪かったとは思いたくなかった。

 雪は言葉を失ったが、房太郎は辺見の行方をさほど気に留めていないようだった。

 

「どうだっていいあんな奴。こんなとこ来るべきじゃなかったんだ。……いや、悪い。俺がお前を1人にするべきじゃなかった」

 

 房太郎は雪の手を撫でながら、項垂れた。彼の黒髪が垂れ幕のようにその顔を覆い隠している。こんなに元気のない姿は見たことがなかった。雪の怪我が原因であることは明らかだった。

 雪は引きずるようにして体を起こし、膝で歩いて房太郎に身を寄せた。肩の痛みを堪えて項垂れているその頭を胸に抱き、髪を撫でた。

 

「私が迂闊だった。心配かけてごめんね。助けてくれてありがとう」

 

 雪の柔らかな声が降ってきて、房太郎は心地が良かった。一晩中張っていた肩の力が吸い取られたように抜けて、雪の胸に体を預けた。腹の底から込み上げるものをこらえて、雪の体をかき抱いた。

 

「お前を失うんじゃないかって、恐ろしかった。無事でよかった、本当に……雪……痛かっただろ? ごめんな、あんな奴に……」

「あなたが謝ることじゃないでしょ。あのとき、私のわがままを効いてくれてありがとう」

「あれはお前、さすがにお人好しすぎだぜ。あいつは殺しといた方がよかった。ここにいるかぎり、またいつ襲ってくるかわからねえだろ」

「あんな奴、あなたが手をかける価値はないよ。それだけは間違いない。絶対に。……刺青が手に入らなかったことは、ごめんね」

「ああ、もうどうだっていい。お前が無事だったから、もうそれだけでいいんだ。その方が大事だ……」

「……うん」

 

 房太郎の頭に顎を乗せて、雪は動物の愛撫のようにその髪を撫でた。房太郎はその手の感触に身を委ねて、雪の心音を聞いていた。とても落ち着く音だった。

 

「……雪、いい匂いがする。このまま寝ちまいたいな」

「やっぱりゆうべは寝てないの? じゃあ少しでも眠ろう」

「またあいつが来たらどうするんだよ」

「大丈夫だよ。あなたが寝ているうちは来ないと思う。あんなおかしなこと言ってたんだから」

 

 それでも房太郎は不安が拭いきれなかったのだが、雪の温もりには抗えなかった。雪がとんとんと背中を叩くのでその拍に促されて瞼が重くなってきた。

 雪は胸に抱えていた房太郎を膝に寝かせて、自分が寝ていた布団をかけてやると、やがて深い寝息が聞こえてきた。

 房太郎は大きな体を抱え込むようにして、小さくなって眠る。何かを抱いていないと落ち着かないのか、布団を抱きしめていたり、隣で眠る雪をいつの間にか抱き枕にしたりしていることもよくあった。今も、雪の手をしっかりと握りしめたままだ。まるで幼い子供のようだが、それが寂しさの表れなのだろうと思って、雪は何も指摘せずにいた。

 房太郎の髪を撫でながら、辺見のことを考えていた。穏やかに声をかけながら部屋に入って来たし、漁師の格好をしていたので、親方の遣いだと思ったのだ。それが後ろ手に包丁を持っていたことに気付いたときにはもう遅く、肩を刺されて壁に押さえつけられていた。あのとき雪は、自分の命を諦めた。部屋の外に人の気配はなく、救援は望めない。刺された傷の痛みで、抵抗することもできない。だから、全身を脱力させて辺見の思うままに任せることにした。元より彼女は、自分の命に執着のない人間であった。今が終わるときならば、その運命に抗うつもりはなかった。

 しかしそんな雪を見て、辺見は心底がっかりした顔をした。ちょうどそのときに房太郎が戻って来たのだ。

 その後の辺見の言葉から察するに、彼は「死」というものに独自の美を見出しているようだった。そしてその「死」には、己の死も含まれるのだろう。だから房太郎を怒らせて、自分を殺すように嗾けた。雪は房太郎をそうさせるための餌だったのだ。

 恐ろしい狂気だった。だが、その狂気をもう少し覗いてみたかったというのも、雪の本音だった。作家の本能もまた狂気である。

 そんなことを言えば房太郎はまた怒るに決まっているから、これは胸に秘めておくことにした。

 房太郎は雪の膝の上でゆっくりと眠り続け、親方が部屋の様子を見に来たときに不機嫌そうに身を起こした。親方は雪が負傷したことにひどく狼狽して、あれこれ言い訳を述べながらも頭を下げていた。雪の傷が癒えるまで、何日でも泊まってくれと申し出たが、房太郎は不機嫌なままだった。

 

「1日でも長くいられるかこんなところ。またいつあいつが来るかわからねえんだ。早くとっ捕まえろ」

 

 房太郎が睨みを利かせて唸ると、親方は気の毒なほど小さくなっていた。辺見は相変わらず行方が知れないらしい。

 

「あの辺見という男は、変わったもんもんを彫っていただろう。他にもあんなのを彫った男はいないのか?」

 

 雪は世話をしてくれた使用人に聞いてみたが、情報は出てこなかった。それどころか、辺見がそんな刺青を彫っていたということも知られていないようだった。

 これで刺青の手がかりは何もなくなってしまった。

 情報のためにはもう少しここに留まるべきではないかと雪は言ったが、房太郎は一刻も早く立ち去りたい様子だった。ずっとそわそわして、常に周囲の敵意に気を配り、雪のそばを離れようとしなかった。辺見の狂気が呪いのように纏わりついて、彼を焦らせていた。これではまた彼が疲弊してしまうので、出発に同意した。

 2人は親方の馬をもらって、小樽の街に戻ることにした。雪が安全に休める場所を、というのが房太郎の希望だった。

 雪が鞍の前に乗って、房太郎はそれを抱え込むようにして手綱を握った。一時でも雪から目を離すのが我慢ならないらしかった。相棒が神経を張り詰めさせているのを見るのは忍びなく、雪は何度も「大丈夫だ」と言い聞かせた。房太郎はいつものように軽口を叩いていたが、それでも警戒が解けていないのは明らかだった。

 なんとか空気を変えたかった。雪は房太郎の胸に体を預けて、わざと甘えた態度を取った。

 

「ねえ、私考えたことがあるんだ。房太郎(ふさたろう)は私の読者になりたいって言ってくれたでしょ。もっといいやり方があるよ。私があなたの物語を書くの」

「……へえ? それはまた、どういった考えで?」

「『海賊房太郎(ボウタロウ)物語』。いい響きだろ? あなたのこれまでと、これからの冒険を綴るの。みんながあなたのことを知るようになる。あなたの名前がこれから先もずっと残るんだよ」

 

 房太郎はわずかに目を見開いた。そこに期待の色が浮かび、表情は明るくなった。雪は手応えを感じて、さらに続けた。

 

「忘れられてしまうのは寂しいって言ってたでしょ。こういう残し方もある。これが私の仕事なんだ。王様には立派な伝記だって付き物だよ」

「お前の言う通りだ! きっと世紀の名作になるぞ! 雪は天才だなあ!」

 

 房太郎が手綱を握ったまま雪を抱きしめたので、馬が混乱して嘶いた。房太郎はすっかり上機嫌になって、鼻唄を歌うような調子で手綱を握り直した。雪はやっとその姿に安心した。

 2人は寄り添い合い、和やかに会話を弾ませながら、にしん御殿をあとにした。

 

 

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